ジョーダン、ピッペンとのトリオで世界中から注目を集めたロッドマン photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載46:デニス・ロッドマンプロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても…


ジョーダン、ピッペンとのトリオで世界中から注目を集めたロッドマン

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NBAレジェンズ連載46:デニス・ロッドマン

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第46回は、1980年代後半から90年代にかけ独自のキャラクターとプレーで注目を集めたデニス・ロッドマンを紹介する。

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【空港勤務から身長が一気に伸びて】

 現代のNBAでは見られないが、デニス・ロッドマンはディフェンスとリバウンドのスペシャリストとして、スター選手としての地位を築いた。

 生まれはニュージャージー州で、育ったのはテキサス州のダラス。軍人だった父親が一家を去った影響で、母のシャーリーが複数の仕事をすることでなんとか生活するような状況で育った。バスケットボール選手としての才能について、シャーリーは、ルイジアナ工科大で2度NCAA優勝を経験した姉のデブラともうひとりの姉・キムのほうがロッドマンよりも勝ると見ていた。実際、高校生になったばかりの頃のロッドマンは身長が168cmで特別に運動能力が高いとも見られておらず、ベンチに座っていることがほとんどだったため、シーズンの途中でバスケットボールを辞めている。

 1979年に高校を卒業したロッドマンは、ダラス・フォートワース空港で夜間の清掃員として働いていた。しかし、短期間で身長が180cmから201cmまで伸びたことで、プレーグラウンドでの存在感を増していく。わずか1学期だったが、ジュニア・カレッジでプレーしたロッドマンは、17.6点、13.3リバウンドを記録。この時の活躍を認められ、サウスイースタン・オクラホマ・ステイト大に勧誘されて入学すると、3シーズンで25.7点、15.7リバウンドのアベレージを残した。

 1986年の春、NBA入りを目指す選手によるポーツマス招待というキャンプに参加すると、MVPに選ばれ、ドラフト候補生に浮上する。大学入学が遅かったために25歳となっていたが、デトロイト・ピストンズは2巡目の上から3番目となる27位で指名。控えながら1年目から即戦力になり、1試合平均15.0分の出場時間で6.5得点、4.3リバウンドを記録。ドラフト同期のジョン・サリーとともに、ディフェンスを武器にフロントラインの層を厚くするのに貢献する。

「デトロイトに行ってなかったら、2年目か3年目にはNBAからいなくなっていただろう。自分が受け入れられ、気遣われ、愛される必要があったんだ。チームも街も、本当に僕をすごく受け入れてくれたんだ」

 こう語るロッドマンは、2年目にキャリア最高となる平均11.6得点を記録する一方、プレーオフでラリー・バード(ボストン・セルティックス)、マジック・ジョンソン(ロサンゼルス・レイカーズ)といった当時のスーパースターとのマッチアップを任されるなど、相手エースのストッパーとしてチャック・デイリーHC(ヘッドコーチ)の信頼を勝ち取っていく。ルーズボールを確保するためには観客席に飛び込むことも厭わないハードワーカーであり、チャージングを奪えばガッツポーズでチームを鼓舞する選手だった。

 1988-89と1989-90とピストンズの2連覇に大きく貢献したロッドマンは、1990年と1991年の2年連続でディフェンシブ・プレーヤー・オブ・ジ・イヤーに選出。パワーフォワードの選手として201cmは小柄と言えるが、フィジカルなプレーと相手を言葉で苛立たせるトラッシュトークも駆使し、ディフェンスとリバウンドのスペシャリストという地位を確立。オフェンス型の選手ではないにもかかわらず、オールスターゲームにも1990年と1992年の2度出場している。1992年3月4日のインディアナ・ペイサーズ戦では、自己最多となる34リバウンドを記録した。

【デイリーHCが去り精神面で不安定に】


ピストンズ時代に守備とリバウンドでスターの地位を確立した

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 NBA選手としてのキャリアを順調に歩んできたロッドマンだったが、父親のような存在だったデイリーHCがピストンズを去ったことで状況が一転する。

 キャンプへの参加を拒否するなど、1992-93シーズンのロッドマンは妻との離婚で娘と離れ離れになったことがトラウマになり、1993年2月の深夜、本拠地ザ・パレスの駐車場に駐車したトラックのなかでライフル銃を持った状態で発見された。この時、ロッドマンは自殺寸前の精神状態に陥っていたというが、トラックのなかで眠りに落ちている間、友人から連絡を受けた警察に発見されたことで、死を免れたのである。

 1997年に行なわれたインタビューのなかで、ロッドマンは当時について、こう語っている。

「 (自殺する代わりに)デニス・ロッドマンを行きたくもない場所に導いている偽者を殺そうと決めたんだ。『自分の生きたいように生き、そうすることで幸せになる』とね。その瞬間、オレは人生全体を手なずけた。なりたくない自分を殺したんだ」

 精神的に不安定なシーズンを過ごしたあと、ロッドマンはピストンズの首脳陣にトレードを要求し、1993年10月1日にサンアントニオ・スパーズに移籍。スターセンターのデビッド・ロビンソンとフロントラインを構成し、平均17.3リバウンドと3年連続でNBA最多本数を記録した。しかし、この頃から奇抜な行動をするようになり、髪を金色に染めて開幕戦に登場し、その後は映画『デモリションマン』に影響されて赤や紫や青にもしていた。また、マドンナとの交際関係で全米中の話題にもなった。

 スパーズは55勝27敗でプレーオフに進出するも、1回戦でユタ・ジャズに敗戦。次のシーズンは首脳陣との確執によって開幕当初に出場停止の処分を受けたが、コートに出れば平均16.8リバウンドと4年連続でNBA最多の数字を残し、オールNBAサードチームにも選ばれる活躍を見せた。しかし、レイカーズとのカンファレンス準決勝のシリーズ中に問題行動を起こして出場停止となるなど、スパーズとの関係は悪化。1995年10月2日、スパーズはロッドマンをブルズへトレードすることになるのである。

【ブルズ2度目の3連覇のメインキャストに】

 ブルズへの移籍は、「バッドボーイズ」と呼ばれた2連覇時のピストンズへの嫌悪感を強く持っていたマイケル・ジョーダンやスコッティ・ピッペンと一緒にプレーすることを意味する。チームにとっても大きな賭けと言えるトレードだったが、ブルズの首脳陣は、1年前にチームを去ったホーレス・グラントの穴を埋める存在と認識していた。そしてロッドマンは実際にその役割を十二分に果たすことになる。

 フィル・ジャクソンHCの指揮下で新たな環境に順応すると、1995-96シーズンのブルズは当時のNBA記録となる公式戦72勝10敗の成績を残し、プレーオフでも優勝に欠かせない活躍を見せる。NBAファイナルでは、シアトル・スーパーソニックスのオールスター、ショーン・ケンプをイライラさせるディフェンスをし続けながら、平均14.7リバウンドを記録した。

「コート上では、オレとマイケルはかなり冷静だし、会話にも対応できる。でも、オレらの人生に関しては、彼がある方向へ、オレが別の方向へ進んでいると思う。つまり、彼は北へ、オレは南へ向かっている。その真ん中がスコッティ・ピッペン。彼は赤道みたいなものだ」

 こう語ったロッドマンは、1997年と1998年のNBAファイナルでジャズのカール・マローンとの壮絶なマッチアップに挑み、ブルズが2度目の3連覇を成し遂げるのに貢献。1998年のNBAファイナルでは、第4戦の翌日に無断でチームを離れ、ハルク・ホーガンとダッグを組んでプロレスに参戦し、2万ドル(約300万円)の罰金を科された破天荒な出来事もあった。

 ブルズGMのジェリー・クラウスがチーム再建を決断したことで、ジョーダンは現役を引退。ピッペンはヒューストン・ロケッツにトレードされ、ロッドマンはブルズから放出された。その後、レイカーズとダラス・マーベリックスに在籍したものの、1999−2000シーズンを最後にNBAでプレーすることはなかった。

 5度のNBAチャンピオン、7年連続のリバウンド王というキャリアを残したロッドマンは、2011年4月にバスケットボール・ホール・オブ・フェイム(殿堂)入りを果たし、2021年にNBAの偉大な選手75人のひとりに選ばれた。現役引退後もプロレスラー、リアリティTVのスター、北朝鮮の金正恩総書記との交流など、話題に事欠かない人生を送り続けている。

【Profile】デニス・ロッドマン(Dennis Rodman)/1961年5月13日生まれ、アメリカ・ニュージャージー州出身。1986年NBAドラフト2巡目27位指名。
●NBA所属歴:デトロイト・ピストンズ(1986-87〜1992-93)―サンアントニオ・スパーズ(1993-94〜1994-95)―シカゴ・ブルズ(1995-96〜1997-98)―ロサンゼルス・レイカーズ(1998-99)―ダラス・マーベリックス(1999-2000)
●NBA王座5回(1989〜90、1996〜98)/年間最優秀ディフェンス選手賞2回(1990、91)●主なスタッツリーダー:FG成功率リーダー1回(1989)/リバウンド王7回(1992〜98)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)