『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(1) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返…

『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 
第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(1) 

数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



ソチ五輪エキシビション で『ホワイト・レジェンド』を演じる羽生結弦

 羽生結弦の演技を初めて見た時に目を引かれたのは、他の選手たちと違う体の使い方だった。腕は関節の可動域を上手に利用してしならせるように動かし、指先まで意識を張り巡らせる。その動作は、伸びやかさを感じさせ、大きさも生み出した。

 上半身は風に吹かれる若木のように柔らかく、強靭さも感じさせながら曲に乗せて動く。バレエの力強さとは異なる、日本独特の舞踊のようなしなやかさがある。そして時には歌舞伎のように見得を切る瞬間さえ感じさせる彼の演技は、後の羽生が創り出す世界の片鱗を見せるものだった。

 ソチ五輪シーズンに入る前の2013年8月の公開練習で羽生は自分の演技の特性をこう語っていた。

「僕の場合、(今の時点で)パトリック・チャン選手(カナダ)や髙橋大輔選手にプログラム・コンポーネンツ(・スコア=演技構成点)で勝てるとは思っていないので......。だから点数はきちんと計算して、いいジャンプを跳んでいくしかない。もっともっと表現力を磨いていこうとは思っているけれど、ジャンプをしっかり決めることこそが僕のスケートじゃないかな、と」



2013年8月公開練習の羽生

 このシーズンのフリーに採用した『ロミオとジュリエット』は思い入れのあるプログラムだった。

「小さい頃からやってみたいと思っていた曲ですし、東日本大震災後のシーズンに全国各地を転々としながらアイスショーで滑っていた頃の曲でもあるので僕にとってはすごく大切なプログラム。今回は別の作曲者で曲調も違うから、雰囲気も変わると思いますが、今しかできない最高の『ロミオとジュリエット』をシーズン通してやってみたい」

 ショートプログラム(SP)を前シーズンと同じ『パリの散歩道』にした理由については、「95点台の世界歴代最高得点を連発した時よりレベルアップさせて高得点を狙いたいという目標と同時に、ショートで余裕を持つことでフリーの完成度を高めることに集中できるメリットも大きい」と説明。エレメンツ(要素)の精度向上を目指していたのだ。自分の特質を見極め、何を武器にするべきかを考える姿勢は冷静そのものだった。

 そうした意識が少しずつ変化し始めたのは、このシーズンのグランプリ(GP)シリーズ2戦目のエリック・ボンパール杯で、SP、フリーともに歴代世界最高得点を塗り替える完ぺきな演技をしたチャンに完敗してからだった。

 試合後、羽生はその得点差を計算し、自分がノーミスでもチャンが完璧な演技をすれば5点差ほどで負けるとの結論に達した。

 この敗北が、羽生にとって練習を考え直すきっかけになった。その後スケーティングなどの基礎練習に取り組むとともに、プログラムの通し練習で「表現しきる」ことを意識するようになったという。

 さらにこの試合後の記者会見でチャンが話した「曲や音を表現するために、膝の使い方を意識している」という言葉を聞き、羽生は「衝撃を受けた」といい、こう続けていた。

「スケーティングは手や上半身を使いますが、彼の場合は下半身でもしっかり曲やリズムを表現しきれているんです。ものすごく高度な技術だけど、そういうこともできるんだと思いました。だからこそ、点数も伸びるんだ、と」

 自分に足りないものに気づけば、シーズン中だとしてもすぐに克服しようと考える、向上心と挑戦を渇望する気持ち。意識の変化に素直に従い、その気持ちを前面に出して思いきり戦ったからこそ、短期間で絶対王者のチャンとの差を詰め、ソチ五輪で勝利することができたのだろう。

 そして金メダリストとして出演したソチ五輪のエキシビションは、川井郁子演奏の『ホワイト・レジェンド(チャイコフスキー作曲「白鳥の湖」より)』を舞った。演技後、羽生はこう口にしていた。

「これまでの僕は感情を出そうとすると、自分の内側にすごく入っていってしまうタイプだったんです。今日はあまり(感情を)中に入れないで、外に出そうと集中して、それができたと思います」

 その演技からはじんわりと熱い思いが伝わってくるようだった。この『ホワイト・レジェンド』は11年に震災後初のアイスショーで使った曲だ。自らも被災して生命の危機を感じた災害が、自分たちの住む地域に甚大な被害を及ぼした。復興へのメッセージを込めて、被災した街が立ち上がる姿を想像して演じたという。

「(ホワイト・レジェンドを)やるかどうか悩みましたが、金メダルを獲ったのでここ(ソチ)でやりたいと思いました」

 羽生は優勝後の記者会見で、海外メディアからも被災地への思いについて質問されていた。彼は「無力感を感じることもあった」と心情を吐露した。「フィギュアスケートで結果を出しても、直接的に復興の手助けになっているわけではない」「自分は何もやっていないのと同じではないか」などと思ったこともあったからだ。しかしだからこそ、金メダル獲得を「復興のために何かを始めるスタート地点にしたい」と話した。

「僕がこの曲をやることで何かが変わるとは思わないけれど、僕自身はこの金メダルからスタートしたいと思うので......。間接的でも復興のきっかけになったり、被災地を思い出すきっかけになってくれたらいい」

 羽生はソチ五輪金メダリストとしての自分の第一歩を、この『ホワイト・レジェンド』で踏み出したのだった。

*2014年2月配信記事「羽生結弦がエキシビションの演技に込めた『故郷への思い』」(web Sportiva)を再構成・一部加筆

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。