連載「選択――英雄たちの1/2」、高校3年生で訪れたターニングポイント アスリートのキャリアは選択の連続だ。トップ選手が人生を変えた“2分の1の決断”の裏側に迫る「THE ANSWER」の連載「選択――英雄たちの1/2」。次世代の中高生が進…

連載「選択――英雄たちの1/2」、高校3年生で訪れたターニングポイント

 アスリートのキャリアは選択の連続だ。トップ選手が人生を変えた“2分の1の決断”の裏側に迫る「THE ANSWER」の連載「選択――英雄たちの1/2」。次世代の中高生が進路選択する上のヒントを探る。

 今回はリオデジャネイロ五輪競泳女子200メートル平泳ぎ金メダリストの金藤理絵さん。高校時代からトップ選手として活躍し、スランプを乗り越えながら27歳で五輪金メダリストになった競技人生、大きな転機は高校3年生で訪れた。

 それは「大学選択」。2つの学校で迷い、最終的に東海大を選択するに至った理由とは――。

 ◇ ◇ ◇

 16年リオ五輪で金メダルを獲得した金藤さん。同じ200メートル平泳ぎの獲得は92年バルセロナ五輪、岩崎恭子以来のこと。

 14歳で日本の五輪史上最年少金メダリストとなった天才スイマーとは対照的に、27歳で日本の競泳史上最年長金メダリストとなったトップスイマーに「人生を変えた1/2」を聞くと「たくさん、ありますねえ」と笑った。しかし、一つ、挙げるとするなら、高3で直面した「大学選択」だった。

「どこの大学に進学するか。最後は2つの大学で迷いました。東海大ともう一つの大学。それが岐路になったと思います」

 三次高(広島)時代からインターハイを制すなど、高校時代からトップ選手として活躍し、全国区の存在だった金藤さん。初めて卒業後の道を意識したのは、2年生の時にあった進路希望の提出だった。水泳部に携わっていた当時の担任に「勧誘していただいた大学から決めたいです」と伝えたが、「どこでもいいから、まずは書いてみて」と言われ、分厚い大学情報誌を開いてみた。

 当時、将来はスポーツトレーナーの仕事に興味があり、「水泳部があって、スポーツトレーナーになるための勉強ができる大学」を理想に描いた。そこで、のちに入学する東海大の存在を初めて知ったが、その時点で強い思い入れがあったわけではない。

 いざ、3年夏のインターハイが終わると、複数の大学からオファーをもらった。生まれ育った地元は、中学になる直前まで近くに屋内プールがなく、トップスイマーが育つような環境ではなかった。「本当に田舎すぎて……。夏は市民プールを借り、半分は一般のコースで残り半分のコースで練習。冬は公共施設を借り、ひどい時は1コース20人で使っていました」と笑って振り返るような場所で才能を磨き、全国区に上り詰めた。

 だからこそ、広島を離れ、大きく環境が変わる18歳の決断は勇気がいるものだった。最終的に、東海大ともう一つの大学に絞った。大学の資料を請求し、ホームページもくまなくチェック。関東の大学に進学した先輩から情報を聞き、できる限りの手は尽くした。

 すると、自分なりに2つの道のメリット・デメリットが見えてきた。

「もう一つの大学には長水路のプールがあった。普段から25メートルではなく、50メートルで練習したいけど、東海大には25メートルしかない。でも、東海大は平泳ぎの速い先輩がるし、加藤健志コーチは泳ぐ以外のトレーニングの知識も豊富とお聞きした。ただ、もう一つの大学には平泳ぎで日本代表になった方が指導され、選手の辛い気持ちもきっと分かってくれる……そんな風に、両方のメリット・デメリットを何個も考えました」

 ただ、最後の「1/2」から「1/1」に絞れない。決め手になったのは、意外な視点だった。相談したのは高1の時の担任。父と大学の同級生という縁もあり、よく目をかけてくれていた。そんな恩師に相談し、自分が思うメリット、デメリットを伝えた。

 すると、熱心に耳を傾けた後で、こんなことを言われた。

「金藤は東海大の方が良い点を挙げている数が多いと思うぞ」

 はっとした思いだった。

進路選択で大切な自分の軸「芯を持ちながら、周りの意見を聞く心を開いて」

「私自身は気づかなかったけど、先生のその一言で『私は東海大に行きたいと思っているんだ』と感じ、東海大に進学を決めたんです。自分一人で悩むだけでなく誰かに聞いてもらい、目や耳、他の感覚から入る情報がとても大切だなと思ったし、そこが大きな岐路になりました」

「自分以外から見た自分」で見えた自分の本当の気持ち。今、振り返ってみると、「東海大進学」の一番の決め手になったのは「ここで自分が強くなれると思ったから」という。

 2年先輩に日本代表を経験した田村菜々香がいた。中2で日本選手権100メートル平泳ぎ6位に入るなど注目され、高校時代は伸び悩みながら、東海大でもう一度、花開いた。自分も同じように大学で成長を……と、イメージを膨らませた。一方で「先輩(田村)が上手くいったからといって、お前も速くなると思うなよ」と忠告したのは、父だった。「実際にその環境で何をするかが大事」というのが、理由だった。

「自分の思いと父の意見、両方とも必要だったと思います。私自身は『東海大に行ったら強くなれる』という気持ちが強かったけど、そこでフワフワせずに周りがカマをかけるというか、浮かれすぎないようにストッパーになったと思います」

 悩んだ分だけ、覚悟は深まった。実際に始まった大学生活。高校まではクラブで練習に励んでおり、「部活」という枠組みに入るのは初めて。先輩のことも「くん付け」「ちゃん付け」で呼ぶフランクな関係から一変。1年生の仕事もあり、初めての一人暮らしも経験した。

「部活で覚えることもたくさんあって大変だったし、1人で寂しくて辛かったけど、仲間の存在だったり、充実した練習だったり、辛いと楽しいどちらかだけでなく、その両方があったから良かったと。入学2、3か月でもう『私は東海大に入って良かった』と思っていました」

 のちに二人三脚で金メダルまで歩むことになる加藤コーチに出会い、2年春の日本選手権200メートル平泳ぎで2位に入って08年北京五輪の出場権を獲得。翌年には日本記録を更新するなど、世界への足がかりとなる4年間になった。

 金藤さんがそうだったように、高校生にとって、大きな転機となる大学選択。情報化社会の今はより簡単に情報が手に入る分、情報過多になり、価値基準がブレることもある。だからこそ、大切になるのは自分の芯を持ちながらも“聞く耳”を持つということ。

 金藤さんも「私自身もアドバイスをもらえばもらうほど、よく分からなくなってパンクしたこともあります」と笑いながら、アドバイスを送る。

「自分の芯は持っていていい。ただ、周りのアドバイスを聞く時に否定から入るのでなく、自分とは異なる意見も受け入れようとする心構えが大切。最初から『自分はこうだ』と思い込んで話を聞いても、相手に失礼だし、時間も無駄になる。まずは受け入れる心を開いて、それでも『自分はやっぱりこう思う』と思えたら、それはそれでいい。芯を持ちながら、周りの意見を受け入れるために心を開くことが大切だと思います」

 次世代の高校生に伝えたい経験。そんな思いを共有する機会がこの夏にあった。8月に配信された「オンラインエール授業」だ。

「インハイ.tv」と全国高体連が「明日へのエールプロジェクト」の一環として展開。インターハイ中止により、目標を失った高校生をトップ選手らが激励し、「いまとこれから」を話し合おうという企画で、競泳の五輪金メダリストが“先生”になった。

 なかでも、印象的だったエピソードは東海大2年の時。1日30キロ、週150キロを泳ぐという過酷な追い込みをしたこと。1日10時間以上をプールで過ごし、「とにかく早く終われと思っていた」と笑いながら、その中で一本一本に自分の課題を意識することで練習の価値が変わったという。

「例えば、100メートル10本の練習を課されたとしても、10本を同じ目標でやるより『タイムにこだわる』『フォームにこだわる』『浮き上がりにこだわる』と1本ずつに意味を持たせれば、前向きになるし、一本一本が新鮮な気持ちでできる。ただ言われて10本こなすのか、自分で工夫して意味のある10本にするのか。その意識を持つことで、もっと強くなることができると思っていました」

 伝えたかったのは、何事も自分の意思を持ち、決断することで成長の度合いも、その後の人生も変わるということ。今回のインタビューを実施したのは、その授業後。金藤さんが競技人生において貫いてきた進路選択の軸について聞いても、哲学は一緒だった。

「決める時に良いか悪いかは分からない」、正解に変えるのは“その後”の自分

 29歳で引退するまで女子選手としては長い競技人生。「自分で決めないと上手くいかないこともたくさんあった」と笑う。

 特に、10年に腰の怪我を影響でスランプに陥り、12年ロンドン五輪出場を逃した。以降は「もう辞めたい」と口にしながら、東海大から指導を受けてきた加藤コーチの説得もあり、現役を継続。しかし、気持ちは決して前向きじゃなかった。

「当時の現役を嫌々やっていた期間は結果を残さなければいけないというプレッシャーから解放され、まあまあ良い結果は残せた。でも、だからこそ『まあまあ良い』で終わってしまった。自分が『やるぞ』と気持ちを持たないと変われない。それは時間はかかったけど、実際に経験し、自分で決めないと自分の責任が生まれないということは理解できました」

 08年北京五輪直前も決断に迫られた。当時、「高速水着」で揺れていた競泳界。スピード社が開発した「レーザーレーサー」という水着で各国選手が世界記録を連発。次々と日本人選手も着用し始め、当時、デサント社の「アリーナ」を着用していた金藤さんも揺れた。

 ただ、加藤コーチから言われたのは「どっちでもいいから、自分自身で決めろ」という言葉。強制はされなかった。

「もう1か月を切るような状況。ギリギリまで悩めるけど、ギリギリまで悩んでいると自分自身が『どうしよう』という不安を常に持つことになる。できるだけ早くある程度のところで決めて、コーチからは『覚悟を持って、実際に頑張らないといけない試合に集中できる状態を作りなさい』と言われ、最後はもともと使う予定だったアリーナの水着を使いました。感覚も悪くないし、水着に左右されたくないという意地もあったと思います」

 どんな決断も「自分で責任を持つこと」、加えて「できる限り早く決めて目標に集中すること」。それが、競技をする上で大切だった。「決める時は実際に良いか悪いかなんて分からない」というが、選択を正解に変えるか、失敗に変えるかはその後の自分自身の行動にかかっている。

 インターハイが中止になったことに触れながら、金藤さんはすべての高校生への思いを明かした。

「結局は決断した後に自分がどう過ごすかで、その選択が良かったか悪かったのか分かるので。誰かが決めてしまったら後悔しか残らないし、どうしようと悩んでいる時間がもったいない。今の高校生も『あの大会がなくなった、この大会もなくなった』と考え、『どうしよう』という考えで過ごすのではなく、何かやることを決めると自ずと足は前に進んで行ってくれるので、もったいない時間を少しでも減らしてほしいと思います」

 どうしても、今はこの経験が将来の役に立つと考えることができないと思うし、それは当たり前。私自身も辛かった時、この辛さが将来の役に立つなんて思えなかった。だけど、当時の経験が今になってみると武器になっているし、実際にこうして誰かに伝えられるものになった。だからこそ、苦しい時は目の前だけでなく、ちょっと後ろを振り返ってみることも大切だし、もっと前を見てみることも大切。右も、後ろも、前も見てほしい」

 すべての決断を自分の努力で正解に変えてきた金藤さん。五輪金メダリストとなった競技人生、そのターニングポイントに「1/2」で決めた大学選択がある。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)