上田二朗氏は全体2番目で阪神から1位指名…村山監督が発した“鶴の一声” 阪神、南海で通算92勝を挙げ、現在は野球評論家を務める上田二朗氏は1969年ドラフト会議で阪神に1位指名され、東海大出身では初のプロ野球選手になった。出身地・和歌山の社…

上田二朗氏は全体2番目で阪神から1位指名…村山監督が発した“鶴の一声”

 阪神、南海で通算92勝を挙げ、現在は野球評論家を務める上田二朗氏は1969年ドラフト会議で阪神に1位指名され、東海大出身では初のプロ野球選手になった。出身地・和歌山の社会人野球・住友金属に内定していたが「上位指名ならプロを考えるかもしれない」と事前に伝えていた。新たな挑戦に気持ちも自然と高ぶったが、気になったのは東京六大学勢に見下ろされているように感じたことという。中日ドラフト1位の早大・谷沢健一外野手には「絶対負けたくないと思った」と明かした。

 1969年のドラフト会議は11月20日に東京・千代田区の日生会館で行われた。当時は予備抽選で12球団の選択順が決まり、1位など奇数順位は1番クジの球団から、2位など偶数順位は逆に12番クジから指名していく方式。上田氏は2番クジを引いた阪神から指名された。「その年の秋のリーグ戦前くらいから、プロのスカウトの方が(東海大の)岩田監督に挨拶に行かれていたみたい。その辺からちょっとは(プロの意向も)耳に入り出してはいたんですけどね」。

 上田氏は東海大での4年間、首都大学リーグの春秋8シーズン中、7度の優勝を経験し、通算39勝5敗、防御率1.27の圧倒的な数字を残した。1969年の大学4年時には東海大の全日本大学野球選手権初優勝にも大貢献。プロからも注目されていた。「以前はどこの球団が好きとかなかったんですが、大学で関東に行ってからは長嶋(茂雄)さんのファン。巨人で一緒にできたらいいなと思ったし、それが叶わないなら長嶋さんと対決したいなという気持ちはありましたね」。

 とはいえ「もしかしたらプロに行けるのかなぁ」くらいの考えでもあったという。「社会人も内定していましたからね。(地元)和歌山の住友金属にね。岩田監督と一緒に挨拶に行って『ドラフトの上位でかけてもらうようなことがあったら、(プロを)考えるかもしれないですけど、かからなかった場合はよろしくお願いします』と言った記憶があります」。プロ入りなら上位指名が条件だったが、当初は大洋が有力球団だったようだ。

「大洋は(本拠地が)川崎(球場)でしたんでね。スカウトの方もよく来られていましたし……。それに大洋には(田辺市立明洋中時代の同級生の)室井(勝投手)もおりましたしね。室井とはその頃もよく食事に行っていたんですよ」。結果は全体2番目での阪神1位。「阪神は(三沢高の)太田幸司(投手)を1位で指名する話があって、それが(阪神監督兼投手の)村山(実)さんの鶴の一声で私になったそうですけどね」と上田氏は振り返った。

いの一番で中日から指名された早大・谷沢健一に対抗心

 もちろん、1位指名に奮い立った。東海大出身選手で初のプロ野球選手として阪神で全力を尽くすことを誓って入団を決めた。同時に強く思ったのが「谷沢には負けられない」だった。その年のドラフトで1番クジを引いた中日が1位指名した早大・谷沢にライバル意識をむき出しにした。「東京六大学の選手はスター。もともと僕らは彼らを打ち破っていくことを目標にやってきて、何とか成績的にはこっちが上になったんですけど、やっぱりまだ見下ろされている感じがしたんですよ」。

 痛感したのはラジオの企画で谷沢らとの座談会に出席した時だった。「歌手の青江三奈さんを真ん中に置いて、私と(東都リーグの)佐藤道郎(投手、日大→4番クジの南海1位)と、谷沢と荒川(堯内野手、早大→3番クジの大洋1位)もいたかな。その時も何か谷沢らの方が私や佐藤道に対して上から目線だったんですよ。佐藤道ともよく話しました。『こいつらには負けられないな』ってね」。血気盛んな学生時代。ちょっとしたことでも気になった。

「東京六大学でも明治とはウチ(東海大)と駒澤との3校での対抗戦をやって、ウチが勝っていた。だから明治の選手は何も言わないんですよ。駒沢や東都の選手もね。だけど法政や早稲田とかとはつながりがなかったので……。まぁ、今思えば、それも仕方ないんですけどね。伝統は向こうの方があったわけですからね」と上田氏は穏やかな表情で話したが、当時はとにかく気合が入っていた。

「谷沢への敵対心が、プロでの発奮材料にもなりました。よう打たれましたけどね。でも私は打たれても、打たれても谷沢には勝負に行きましたよ」。阪神入団後の上田氏は“中日キラー”としても知られる存在になる。それもライバルへの燃える気持ちが重なってのことだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)