今村猛氏は清峰高に進学…同学年の大瀬良大地が進んだ長崎日大も見学した 現役時代を広島一筋でプレーし、通算115ホールドを挙げた今村猛氏は2007年、長崎県立清峰高に進学した。2003年4月に校名を「北松南(ほくしょうみなみ)」から「清峰」に…

今村猛氏は清峰高に進学…同学年の大瀬良大地が進んだ長崎日大も見学した

 現役時代を広島一筋でプレーし、通算115ホールドを挙げた今村猛氏は2007年、長崎県立清峰高に進学した。2003年4月に校名を「北松南(ほくしょうみなみ)」から「清峰」に変更。野球部もその頃から急激に強くなり、2005年夏の甲子園に初出場、2006年選抜大会では決勝で横浜に0-21で敗れたものの準優勝に輝いた。「家からも一番近い高校だったんです」。その一方でこんな決意も。「高校で野球を辞めます」。吉田洸二監督(現・山梨学院高監督)にもそう伝えていたという。

 佐世保市立小佐々(こさざ)中の軟式野球部では中3時にエースだった今村氏だが、高校進学にあたって強豪校からの誘いについて「たぶん、なかったと思います。話は聞いていないです」と振り返った。野球が強いチームに行きたいという気持ちがなかったわけではない。実際、長崎・諫早市にある強豪・長崎日大に興味はあった。「一応、学校を見に行きました。オープンスクールがあったので、中学の担任に『ちょっと気になります』と言ったら、送ってくれました」。

 だが、進学する気にはならなかった。自宅がある佐世保市小佐々町から諫早まで通えないのもネックのひとつだったし「僕は無茶苦茶、田舎ものなので、知らない環境だったり、知らない人が多すぎるのも……。あ、これは無理だなと思って帰りました」。長崎日大を選択していれば、後に長崎大会で投げ合い、広島でチームメートになる同校出身の大瀬良大地投手と高校でエースの座を争うことになったかもしれないが、この時はすれ違いの運命だった。

 結果、進学先に選んだのが清峰だった。北松南時代の2001年に吉田監督と清水央彦コーチ(現・大崎高監督)の体制となってからチームが強化され、清峰に校名を変えた2003年以降は一気に長崎の強豪になった。今村氏は推薦枠で進学することになった。佐世保市などの県北地区の強豪校では他に私立の佐世保実もあったが、当時は清峰の力が抜けていたし、何よりも北松浦郡佐々町にあって「家から一番近い高校だったから」という。

高校卒業後は家業「今村水産」を継ぐため修行する予定だった

 その一方で今村氏が考えていたのが「野球は高校まで」だった。実家は、いりこをはじめ海産物などを扱う「今村水産」。高校卒業後は家業を継ぐための修業に入るつもりだった。「高校に入学して監督との面談の時にも、そう言いました。『実家があるので高校で野球を辞めます』って。監督も『そうか』と言っていました」。まだプロ入りなんて想像もしていなかった頃だが、大学も社会人野球もその時点で自身の進路から消していた。

「大学はお金がかかるので、親に負担がかかる。社会人に行くのなら実家の仕事をする方が親孝行になると思いました」。子どもの頃から父・和彦さんの働く姿を見て考えたという。「オヤジは基本的に家にいなかった。工場に泊まり込んだりが当たり前だった。家に帰ってきてもごはんとお風呂くらい。そんなしんどさもわかっていたから……」。結局はプロの道に進むが、それも「親孝行になる」との判断からだった。

 清峰でプロ注目投手になるまで、今村氏はずっと「高校で野球を辞める」の一択で高校生活を送っていた。「学校にはバスで通いました。30分から40分くらい。1時間に1本しかないから乗り遅れたら大変なんですけどね」。野球にはそれまで以上に全力を注ぎ、レベルの高いチームにあって高校1年から控え投手としてベンチ入りを果たした。

 2007年、今村氏が1年夏の清峰は長崎大会準決勝で長崎日大に敗れた。「僕はそれまで(の2回戦から準々決勝まで)に1試合だけ先発させてもらいました。どの試合だったか忘れましたけど、5回くらい投げたと思います。準決勝は投げていないですけど、やっぱり負けたのは悔しかったですね。それは覚えています」。その悔しさも次にぶつけた。ハードな練習にも耐えた。体が強化されていくとともに、球速も上がった。

 1年秋には140キロを超えた。「それでも、あの頃はよく打たれていたので、何かよくわからなかったんですけどね」というが、着実に進化していた。「野球は高校まで」と宣言していたからこそ、これが最後の3年間だと思っていたからこそ、悔いが残らないように常にやり切っていたのだろう。清峰での今村氏は2008年の2年夏、秋、2009年の3年春とレベルをどんどん上げていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)