ボンズと新庄氏の関係は良好だった(C)Getty Images 1992年から阪神で10年間トレーナーを務めた熊原稔は、2001年に新庄剛志のパーソナルトレーナーとして渡米。サンフランシスコ・ジャイアンツで戦う同氏の活躍を陰で支えた。英語も…

ボンズと新庄氏の関係は良好だった(C)Getty Images
1992年から阪神で10年間トレーナーを務めた熊原稔は、2001年に新庄剛志のパーソナルトレーナーとして渡米。サンフランシスコ・ジャイアンツで戦う同氏の活躍を陰で支えた。英語も分からず飛び込んだというMLBの世界は苦労もあったが、刺激も多かったという。当時のエピソードや阪神での思い出話を中心に、フリーアナウンサーの田中大貴が話を訊いた。
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――トレーナーとしてアメリカに渡った経緯から聞かせてください。
それまで10年間ぐらい阪神タイガースでトレーナーをしていたので、環境を変えたいとも思った時期でした。新庄さんから一度目の連絡があった時はまだ阪神との契約が残っていたので他の人を紹介したんですが、次の年の秋季キャンプの頃にまた電話かかってきて、そこから翌年に専属でついてくれという話をもらったんです。嬉しかったですね。日本のプロ野球はある程度、経験できたし、新しい環境に飛び込むチャンスでしたから。
――MLBにという違う世界に飛び込むわけですから、大変な苦労があったと思います。
私がアメリカに行った時は、チーム(サンフランシスコ・ジャイアンツ)とエージェント契約をしていたわけではありませんでした。そういう場合、選手がパートナー(トレーナー等)のホテルやチャーター機だったりをするものだけど、彼はそれをまったくしていなかったから、全部自分でやりました(笑)。当時、アメリカはテロ被害にあっていたので、空港でのボディーチェックが厳しかった。 鍼灸の道具を見つけた入管の職員に「選手の治療に使うんだ」と言っても全然信用してくれない。私は英語も喋れなかったので、靴まで脱いで検査されました。
――当時の新庄“選手”を振り返ると?
野球に対しては本当に真面目で、細かいところにもこだわる。それに、やっぱり男気があって、いろいろ気も遣う。ミスして怒られている選手がいると、後でフォローを入れたり、そういうことが自然とできる。それでいて、言うことはしっかり言う。そういう魅力的な選手でした。
――トレーナーから見て、あれだけのパフォーマンスを発揮できた要因は?
もちろん、トレーニングもしていましたが、元々持っている素材がすごかった。本当に彫刻みたいな身体でした。体脂肪もほとんどないし、筋肉の質もすごく柔軟性がある。肩の強さには関節の構造も関係していますが、それ以上に筋肉の質がすごい。特別なトレーニングをしたわけではなく、幼少期の頃から日常の遊びのなかで鍛えられた部分もあったと思います。
――野球に対してストイックな部分もあったかと思います。
意外と甘いものもたくさん食べてましたが、野球への姿勢はストイックな部分を感じましたね。 特に守備に関しての感覚が鋭かった。メジャーでも通用していました。でも、バッティングは悩んでましたね。私が治療している時にも映像を見ながら試行錯誤していました。そういう姿は外には見せませんでしたが、やっぱり努力はしていました。それに野球とプライベートのオン・オフのスイッチがうまかったですね。
――イチローさんや野茂英雄さんがメジャーで活躍していましたが、当時は日本人選手がMLBでプレーするのは、まだまだ黎明期の時代でした。メジャーに行って衝撃を受けたことは?
私個人で言えば、パーソナルトレーナーとして行ったので、最初はチームのトレーナー室に入れてもらえなかったんです。だから、大きいランドリーの部屋に簡易ベッドを置いて新庄さんのケアをしていました。試合もベンチではなく記者席で見ていましたね。
それが変わったのが、バリー・ボンズに針を打ってからでした。ヘッドトレーナーに「ボンズに呼ばれてるぞ」と声をかけられて、3回ぐらい針を打ったらボンズの膝の調子が良くなったんです。それからですね。ようやくトレーナー室にも入れてもらえるようになりました。
そこから他の選手のケアもするようになって、当時は遠征に行くといろんな選手のマッサージをして、チップでだいぶ稼がせてもらいました(笑)。その時に日本のトリートメント技術は絶対に通用するなと感じました。当時のメジャーの選手は、ケアに関しては超音波とかそれくらいだったので、マッサージを受けたがる選手が多かったんです。それで選手にやってあげると、すごく気に入ってくれた。専属トレーナーとして雇われているから新庄さんに確認をとってからやっていましたが、儲かりましたね(笑)。一番はボンズ。100万円くらいの小切手を切ってくれましたから。
――当時は新庄さんもチームになじむのに苦労していたと思います。見ていてどうでしたか?
やっぱり白人、黒人それぞれのコミュ二ティに分かれているようなところはあったし、その中で日本人は中南米の選手あたりと一緒にいるような状態でした。それが変わったのも、やっぱりボンズが絡んでましたね。サンフランシスコのジャパンセンターで新庄さんの歓迎会があった時に、ボンズが来て仲良くなっていました。ボンズはあまりオープンな性格ではなかったんですが、それでも新庄はスッと懐に入っていった。最初の出会いが良かったのかなと思います。
――阪神の新庄剛志と、サンフランシスコ・ジャイアンツの新庄剛志は印象が違いましか?
基本は一緒なんですが、日本球界は縛りも多かったし、上下関係も厳しかったですから、それが窮屈だった部分はあったのかなと思います。だから、アメリカ行ってそれがほどけた時に、もっと自分を出していたんじゃないかと。
――当時の新庄“選手”をよく知る熊原さんは、新庄さんが監督なると思いましたか?
思いませんでしたね。監督になるタイプではないと思っていました。ところが、今までとは違うやり方で結果を出している。やっぱり彼の力はすごいですよ。当時から男気もあったし、面倒見も良かった。今も選手と同じような立場で語ったり見たりするのかなと。だから、信頼関係も築きやすいのかなと思います。そういう部分は昔から変わらないですね。
――型にはまらないというか、セオリーとは別の道を行くイメージがあります。
そうですね。メジャーから日本に帰ってきた時に日ハムでファンサービスをしていましたよね。あれは、メジャーの影響が少なからずあったと思います。日本との差を感じて、もっと楽しくしよう、と。ちょっとした堅苦しさみたいなものを日本のプロ野球界に感じていたんでしょう。それを監督としてもやっているのかもしれません。
――新庄監督は、今後どうなっていくんですかね。
成績が駄目だったらどこかで自分でけじめをつけそうですけどね。 そこからは芸能界でしょう(笑)。

阪神などでトレーナーを務めた熊原氏(左)の様々な体験談に田中氏も興味を惹かれていた
――阪神時代の話も聞かせてください。多くの名選手がいましたが、思い出に残っているエピソードなどはありますか?
昔の阪神は、ビジターの遠征になるとトレーナー室に選手が来ませんでしたね。みんな夜の街に遊びに行っていた。そういう時代でした(笑)。ただ、大豊(泰昭)さんだけ来てましたね。私も遊びに行きたいんだけど、ヘトヘトになるまで大豊さんのマッサージをしていました。
――印象に残っている選手は?
外国人だと、グリーンウェルはすぐに国に帰ったし、ディアーは練習だけしかホームランを打たないし、パチョレックは紳士でしたね。オマリーにはよくいじられました。オマリーはすごい選手でしたが、自分が打てないピッチャーとの試合だと、いつも仮病を使ってトレーナーを困らせるんです。左ピッチャーが苦手で、広島の川口和久さんや大野豊さんが登板する時は、どこかしら「痛い」と言ってね。 それが毎回だったから、上司のトレーナーがコーチ陣に「どうなってんだっ!」と怒られて大変そうでした。毎回でしたからね。オマリーの仮病のタイミングはだいたい予想できましたよ。だから打率を残せたんです(笑)。
和田豊さんはスコアラーとよく打ち合わせしていましたね。当時からデータを駆使していました。木戸克彦さんにはむちゃくちゃ怒られた。真弓明信さんにも本当にお世話になりました。いつも食事に連れてってもらったし、夜中に呼ばれてマッサージさせられたこともありましたね。寝るまでマッサージしたこともあります。時代ですね。今だったらもうアウトですよ。でも、全然僕は苦じゃなかったんです。まず阪神に入れたってことが嬉しくてね。
――メジャーから帰国後は、楽天でもトレーナーをされました。
楽天の時はマーティ(・キーナート)監督が球数にうるさかった。「なぜ、キャンプのこの時期に100球も投げるんだ」ってね。私たちにとってはそれが普通だったんですが、彼のやり方ではなかった。だから、合わせましたよ。でも、マーティが1年でクビになって今度は星野(仙一)さんでしょ。今でも覚えてます。仙台のホテルでコーチ会議の後に星野さんに呼び出されて、「なんでこんなに投げさせないんだ」とマンツーマンで問い詰められて…。怖かったですね。1年で方針が全く変わったので参りました。選手への説明も大変でしたよ。星野さんにも家に呼ばれてマッサージしながらいろいろ話を聞きましたよ。だいたい球団のことでしたけどね。
――今もトレーナーになりたい人は大勢いると思います。鍼灸の資格を取ったとしても狭き門ですね。熊原さんはどういった経緯で採用されたんですか?
話すと長くなりますが…私が学生の頃、親父が商売していて倒産したんです。借金もあったし、その影響で中学が3回も変わりました。 中学浪人もしましたね。でも、高校は出ないといけないと思って、自分で塾代も全部払って行きました。塾に行って、ファミレスでバイトして、同級生が来るのが恥ずかしかったですね。
ただ、その時に野球に出会ったんです。それまでなかなか自分を表現できなかった私が野球に救われたような気がしました。それまでは挫折というか、内にこもって鬱屈としていた人生だったんですが、「なんか野球っていいな」と。それから12球団全部に電話したんです。選手は無理ですから、トレーナーとしてですね。何も知らずに電話したから資格が必要なことも分かっていなくて、それから専門学校に行って、2年生の春に指圧やマッサージの免許が取れた。その時に阪神の長島さんって方が学校の先輩で、面識はなかったんですが「絶対やりたいのでお願いします」と電話で突撃したら、「じゃあ、春のキャンプに来い」と言ってもらえました。
春のキャンプでは、本当に一生懸命にやりましたね。寝なかったですよ。いろいろな仕事をして、終わるのが夜の2時くらい。それから国家試験の勉強をしました。「このままでは阪神に入れない」と思うから必死でしたね。一生懸命やることは苦ではなかったです。夜中にマッサージに呼ばれても「夢がもうここまで来てる」と感じていましたから。
でも、その時は入れなかったので東京に帰ったんです。このままだと繋がりが切れてしまうから、新幹線代を貯めては何回も阪神に行っていました。何回も来るから、向こうはだんだん鬱陶しくなるんですよ。それでも断られないように、甲子園の電話ボックスからかけたこともありました。「すいません来ちゃいました」って。それである時に中込伸さんがトミー・ジョン手術をするから対応する人が必要だということになって、空きができたので声をかけてもらえたんです。そこからおよそ10年、阪神でお世話になりました。
――執念ですね。
執念ですよね。今の若い人たちもトレーナーになりたいという方は大勢いますが、「なりたいって言うけど、休みは何してるの?」と聞きたい。昔の私はスポーツの大会があると、国立競技場に行ったりして飛び込みでストレッチやテーピングをさせてもらったりしていました。今みたいにYouTubeで教えてくれたりしないですからね。だから直談判してやらせてもらいました。そういう実践の機会は自分で作るしかなかった。そうやって自分の夢を掴んでいきました。もちろん、今の時代で同じことが出来るとは思いませんが、やっぱり夢は向こうから落ちてこない。 取りにいかなければならない、と今もそう思います。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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