「甲子園優勝投手」から打者に転向した17人@後編「華麗なる転向を遂げた世界の王、ゴルフで大成功したジャンボ」 荒木大輔の登場で高校野球が国民行事へと加速していく1980年代初頭、夏の甲子園を制した3投手もプロでは打者として名を残している。1…

「甲子園優勝投手」から打者に転向した17人@後編

「華麗なる転向を遂げた世界の王、ゴルフで大成功したジャンボ」

 荒木大輔の登場で高校野球が国民行事へと加速していく1980年代初頭、夏の甲子園を制した3投手もプロでは打者として名を残している。

1980年夏の甲子園決勝で「背番号11の1年生」荒木大輔を擁する早稲田実業を下して優勝したのは、横浜高のエース愛甲猛だった。ドラフト1位で入団したロッテで4年目から打者に転向。確実性の高いバッティングで頭角を現し、1986年から主軸を担う存在となった。

 しかし、1995年に就任したボビー・バレンタイン監督のチーム構想から外れ、出場機会が激減。その年のオフにトレードで中日へと移籍する。新天地では星野仙一第二次政権1年目から2000年まで、代打などで勝負強さを発揮した。



端正な顔立ちで横浜高時代から大人気だった愛甲猛

 1981年夏の甲子園は、報徳学園のエースで四番を担った金村義明の大会だった。3回戦では荒木大輔を擁する早稲田実業、準決勝で工藤公康の名古屋電気高(現・愛工大名電)を破ると、決勝でも京都商を2−0で下した。

 近鉄にドラフト1位で入団直後、内野手に転向。5年目にレギュラーを獲得すると、勝負強い打撃で猛牛打線に欠かせない存在となった。1995年から中日、1997年から1999年まで西武でプレーし、引退後は巧みな話術で野球解説のみならずバラエティ番組などでも活躍している。

 1974年に部員11人で挑んだ『さわやかイレブン』から8年後、3度目の甲子園挑戦で頂点に駆け上がった1982年夏の甲子園の池田高。故・蔦文也監督のもとで鍛え抜かれた『やまびこ打線』が猛威を奮い、徳島の公立高校ながら全国制覇を達成した時のエースが畠山準だ。

 高卒ドラフト1位で入団した南海では、投手として実働4年。55試合(31先発)6勝18敗・防御率4.74の記録を残し、1988年に打者に転向する。1991年に大洋(現・横浜DeNA)へ移籍すると、1993年、1994年はレギュラーで活躍して1999年に引退。通算本塁打は打者転向12シーズンで57本だが、その思いきりのいいスイングから放たれた弾道は驚異的だった。

近鉄移籍後に長打力が爆発

 1984年センバツで、前年夏の全国覇者PL学園の新2年生KKコンビを決勝で1−0で下したのが、岩倉高の山口重幸だ。ドラフト6位で阪神入団後、内野手へと転向。1988年は掛布雅之の故障離脱のなか20試合にスタメン出場した。その後は内外野のユーティリティとして重宝されたが、1994年に自由契約となる。

 だが、その人柄を見込まれて、「甲子園優勝投手はプロでは大成しない」との自論で毛嫌いしていた野村克也監督のヤクルトに入団。主に守備固めとして重宝され、2年間で139試合に出場した。1996年引退後は打撃投手を4年間務めたが、プロで投手経験のない打撃投手は珍しいケースだった。

 そして1990年代に入っても、甲子園優勝投手の打者転向は続く。1989年夏の甲子園を制した帝京高のエースで、高校通算51本塁打の吉岡雄二はドラフト3位指名で巨人に入団。1年目の1990年に右肩を手術した影響もあって、1992年に内野手に転向した。

 1997年に出番に恵まれなかった巨人からトレードで近鉄に移ると、1998年からスタメン出場を増やし、2001年と2002年は26本塁打を放つなど6年連続ふたケタ本塁打をマーク。楽天に移籍した2005年にも10本塁打を放ち、持ち前の長打力を発揮した。

 1996年センバツで鹿児島県に初めて優勝旗をもたらした鹿児島実業のエース下窪陽介は、オールドルーキーとしてプロの世界に飛び込んだ。日本大2年時に肩の故障から外野手に転向。日本通運で2006年の都市対抗野球大会で首位打者、同年の社会人ベストナインになって、2006年大学生・社会人ドラフト5巡目で横浜に入団する。

 春季キャンプ前に28歳の誕生日を迎えた1年目は開幕一軍入りを果たし、72試合に出場して打率.277をマーク。しかし、翌年以降は自身の不調やチーム編成の充実などから出番を減らし、2010年に戦力外通告を受けて引退した。

打者としてフル出場したが...

 甲子園優勝投手が打者に転向した選手を、ここまで14人紹介してきた。そして現在、甲子園優勝投手でプロでは打者として勝負している現役選手は、前編の冒頭で紹介した中日の石川昂弥を含めて4選手いる。

 石川昂と同じ愛知県出身で、2009年夏の甲子園を中京大中京のエースで四番として全国制覇した堂林翔太は、広島から内野手として2巡目指名を受けて入団。最初の2年間は二軍で鍛えられたが、3年目の2012年に野村謙二郎監督の抜擢を受け、開幕戦で一軍初スタメンを果たした。

 このシーズンは144試合にフル出場して、打率.242、14本塁打、45打点を記録。ただその一方、両リーグワーストの29失策、150三振、得点圏打率.192と課題も浮き彫りとなった。

 翌年以降の飛躍に期待されたが、その後も苦しいシーズンが続く。2020年は14本塁打をマークしたものの、2021年は本塁打ゼロ。プロ13年目の2022シーズンは逆襲が待たれる。

 2015年センバツで福井県勢の初優勝となった敦賀気比のエースで四番だった平沼翔太も、堂林と同じく打撃面での課題を抱えている。2015年ドラフト4位指名で内野手として日本ハムに入団。ルーキーイヤーから3年間での一軍出場は11試合だったが、4年目の2019年は73試合に出場して初本塁打を放つなど来季への希望を見せた。

 しかし、飛躍が期待された2020年も打率.228とチャンスを生かせず。そして2021年シーズン途中に交換トレードで西武へ。2022年は開幕から二軍で出場を重ねているが成績を残せず苦戦している。

 そして、17番目の石川昂弥のひとり前、16番目の選手も同じ中日の選手。2016年センバツ優勝、2017年春夏連覇の大阪桐蔭の主力メンバーで、2017年センバツの優勝投手となった根尾昂だ。

甲子園スターの開花はいつ?

 注目のドラ1として入団して4年目。今シーズンは立浪和義新監督のもとで開幕一軍は手にした。だが、4月17日現在の打撃成績は9打席6打数0安打。今季まだヒットは生まれていない。

 ただ、打席に立つ機会は多くないものの、代打に送られた4月13日の阪神戦では一打サヨナラの好機でもしっかり四球を選ぶなど、勝利につながる働きを見せていた。これら地道なアピールを重ねていければ、立浪監督のもとなら自ずと打席数は増えていくことだろう。

 そして、巡ってきたチャンスで持ち前のバッティング能力がついに開花すれば、高校野球のスター選手からプロ野球のスター選手へと一気に駆け上がっていくはずだ。