「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第22回 佐藤政夫・後編 個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その魅力を伝えるシリーズ連載。名将・竹田利秋監督のもと東北高で甲子園に出場した佐藤政夫さんは、電電東北(現・東北…
「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第22回 佐藤政夫・後編
個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その魅力を伝えるシリーズ連載。名将・竹田利秋監督のもと東北高で甲子園に出場した佐藤政夫さんは、電電東北(現・東北マークス)を経て、1969年のドラフト5位で巨人に入団する。
ところが、プロ入りのわずか1年後に、当時行なわれていた「トレード会議」の対象選手となり、ロッテに移籍。さらに、渡米、日本復帰、また移籍と、まるで「タコ踊り投法」と呼ばれた落ち着きのない投球フォームのように、せわしない野球人生を余儀なくされる。そして、国内3球団目の中日で投げているとき、思わぬ"ミスター"長嶋茂雄との縁で、佐藤さん自身も球史に名を残すことになるのだった──。
手足の動きが
「タコ踊り」と呼ばれた佐藤政夫の変則フォーム(写真=産経ビジュアル)
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プロ2年目の71年は一軍で13試合に登板した佐藤さんだが、翌年は当時ロッテが買収していた米マイナーリーグ1Aのローダイ・オリオンズ(オリオールズ傘下)に派遣されることになり、アメリカに渡った。
「あの頃は今みたいに情報がない。そのなかで聞いていたのは、『日本のプロ野球は3Aよりも少し上っていう感じだ』と。だから1Aだったら年齢的にもハタチ前後ぐらいで自分らと一緒。日本の一軍でほうれるピッチャーなら抑えられるだろう、と自信を持って行きました。ところがね、過密スケジュールなんですね」
ローダイが所属するカリフォルニアリーグは、4月に開幕して8月までに140試合を消化。遠征の移動はすべてバスで、昼に出発して夜に試合を行ない、終わって帰り着くと朝方、という日程もざらだった。
「本場の野球を経験できた、というんじゃないんです。大変なとこに来たな、っていう思いだけですよ。アメリカでも小さな町だから食事も日本食なんかないし、早く帰りてえなあって、ホームシックにもなったしね」
もっとも、そんな苦労も野球自体への影響は少なかったようだ。ローダイでの佐藤さんの成績は29試合に登板して3勝2敗2セーブながら、9試合に先発して完封が2試合ある。防御率は92回を投げて3.23だった。
「もうちょっとできたかな、と思うんだけど、まあ、気楽な気持ちだし、そんなに必死じゃないから。そりゃ、必死な気持ちでやったほうがよかったかもわかりません。でも野球留学だから、そこでいいピッチングしたからってメジャーに上がれるわけもないし」
上がれてしまえたのが、[日本人初の大リーガー]村上雅則(元・南海ほか)だ。64年、やはり野球留学で来て1Aでプレーし、結果を残して一気にメジャーに昇格した。同じ左腕でもあり、可能性はゼロではなかったと思いたい。
「ただ、私はロッテでメジャーのキャンプに行ったことあるからわかったんだけど、メジャーとマイナー、天国と地獄みたいに差がある。待遇がまったく違う。だから向こうの連中はメジャーというものに対してものすごく必死なの。
その点、日本の二軍はね、はっきり言って甘いし、恵まれてる。向こうはちょっとしたケガでも大丈夫だって試合に出るし。そういうハングリー精神だけは覚えて帰ってきた。で、帰ってきたら監督が金田さんに替わったんだけど、今度は1年じゃないですよ。6月に中日にトレードですから」
本当に「波乱」が続く。73年の佐藤さんは金田正一監督のもと、「走らされる量も食べさせられる量もとんでもない」キャンプを経たが、ロッテでは1試合に登板しただけで、シーズン途中の6月に中日に移籍する。
この新天地には、佐藤さんが巨人からロッテに移籍したときの投手コーチ、近藤貞雄がいた。中日での近藤は、先発・中継ぎ・抑えの投手分業制を本格的に実践。先発完投が主流の時代においては"異端"の指導者だったが、その選手を見る目が「波乱」を起こしたらしい。
「後から聞いた話だけど、近藤さんはロッテで一緒にやってるとき、左の変則だから面白いピッチャーだと思ってくれてたみたい。たぶん近藤さんが『獲れ』と言ったんでしょうね」
そうなのだ。文献資料によれば、佐藤さんは変則フォームの左腕で、そのくねくねとした体の動きから「タコ踊り」とか「コンニャク投法」などと呼ばれていた。その変則も高校時代から、という話は本当なのだろうか。
「それがね、竹田先生とよく話がぶつかるんです。先生曰く、『おまえは最初からあのフォームだった』。こっちはね、『もともときれいなフォームだったのが、先生にああだこうだ言われてああいうフォームになったんだ』って」
果たして、どれほど変則だったのか──。幸い、映像が残っている。それこそ、1974年10月14日の巨人対中日最終戦、長嶋茂雄の引退試合における最後の打席の映像は消えようがない。そのマウンドに立っていた投手=佐藤さんの投球を、取材を前に、あらためて見ていた。
まず、両腕が勢いよく上がってリズムをとるように動き、つられるように右膝が速く高く上がり、テークバックでやや腰が下がった後、腕は横から出てくるがフィニッシュでは体が沈み込まず、立ち投げのようにも見える。タコやコンニャクを想起するかはともかく、くねくねしているのはたしかで、投げ始めから動きは激しい。
そして映像を元に戻すと、佐藤さんは8回1死一、三塁で長嶋を打席に迎え、初球、三塁側へのファウルの後、2球目をショートゴロ、6−4−3のゲッツーに打ち取った。日本のプロ野球では空前絶後と思える大声援と拍手に包まれていた球場全体が、徐々に静かになっていった。
「あのとき、審判がキャッチャーの金山(仙吉)に『わかってるだろうな』と言ったそうです。『打たせろ』ということですよ」
消化試合の引退試合とはいえ、審判がそんなふうに言っていたとは......。
「金山は長嶋さんに言ったそうです。『このピッチャー、真っすぐが変化するから、カーブでいきましょうか?』って。そしたら長嶋さん、『いいよ、真っすぐで』って言ったと。私もね、打たせようとして投げました。
普段、打たせないように投げてるのが、打たせようとするのは難しいですよ。それで真っすぐを投げたら、少し変化しちゃったんですね。スタンドが満員で、大歓声で、普段とまったく違う雰囲気で緊張していたせいもあると思います。で、ひっかけてショートゴロ」
1974年10月14日、長嶋引退試合の
「永久に不滅」なスコアボードに佐藤の名前が見える(写真=時事フォト)
ウォーリー与那嶺監督のもとで中日が優勝したこの年、佐藤さんは最終戦も含めて3試合の登板に終わった。それゆえ「長嶋と最後に対戦したピッチャーということで、少しでも名前を売らなきゃ申し訳ない」と奮起し、翌75年は20試合、76年は50試合、77年は52試合と登板数を増やした。
先発も経験し、76年にはリリーフでプロ初勝利を挙げている。しかし左肘の不調もあって79年は5試合、80年も7試合と出番が減り、オフに自由契約となってしまった。
「クビですよ。はっきり言って、それで目が覚めた。歳は30で、もう結婚して子どもも二人いて生活かかってるから、これはやばいなと。それまで気楽にやっていたのが初めて危機感を覚えてね。これから仕事どうしようか、というときに大洋が声をかけてくれました。フロントに東北高校の先輩で若生(わこう)照元さんがいて、『やるか?』って言われて」
大洋に移籍した81年、佐藤さんはリーグ最多となる57試合に登板し、キャリアハイの6勝を挙げている。
「プロに入って、キャンプでいちばん練習しました。若いときから疲れたら抜くことを知っていたんですが、その時はここでもうひと踏ん張りしたらできるかなと。金田さんが強制的に走らせていた意味がやっとわかった気がして、必死になりましたね」
開幕当初はワンポイント起用だった佐藤さんだが、投手陣の駒不足で5月に初先発。4度目の先発で初勝利を挙げ、以降もリリーフで投げながら"谷間"で先発した。そうして8月3日のヤクルト戦、8安打されながら9回をゼロに抑え、プロ入り238試合目の登板で初完封勝利。スポーツ紙の記事には〈12年目の初体験〉〈これは奇跡だ 波乱の野球人生〉と見出しがついた。
「完封は一度でもすごいと思うし、無四球試合も一度あるんです。これは自分で誇りにしているんだけど、その年が私の野球人生でいちばんいいとき。続かなかったんですね......」
完封勝利も挙げた横浜大洋時代を語る、取材当時の佐藤さん
土井淳監督から関根潤三監督に交替し、環境が変わった影響もあって、82年以降、佐藤さんの登板は減っていった。すると84年オフ、トレードでロッテに復帰。中日時代の投手コーチだった稲尾和久監督が「まだできる」と思ってくれたようだった。実際、移籍1年目は前年の倍以上の試合に起用された。
「やっぱり1年目はいいんですよ。でも、それで2〜3年は持つと思うからダメなんですね。自分でわかってるんだけど、入ったときは必死で、結果が出ると安心して気楽になっちゃう。結局、3年で現役引退です。寂しかったけど、しょうがないと思いました」
引退後、ロッテのスカウトに転身した佐藤さんは7年間務めて退団。その後は別の仕事に就いて、現在は悠々自適となった。が、それでも時間さえあれば、竹田先生=竹田利秋総監督の國學院大を見るために神宮球場へ行き、東北高でチームメイトだった若生正広が率いる埼玉栄高(当時)の野球も見に行くという。自身の原点の野球をずっと追いかける人生は素敵だと思う。
「今思うと、プロに入るとき、竹田先生に『今のフォームを直しちゃダメだ』と言われたんです。プロのコーチにも『これを直したらおまえはダメだ』という言い方もされました。
そんなにボールも速いほうじゃないし、コントロールとキレと、カーブがいいという左ピッチャーですから、変則じゃなくなったら持ち味がなくなっちゃう。おかしな投げ方で、自分でカッコ悪いと思ってたけど、カッコ悪いままだったからよかったと思います」
こんなふうに自身のフォームを表現する野球人に初めて出会った。「カッコ悪さ」を武器に、佐藤さんは4球団を渡り歩いたのだ。
「でも、左で変則だけでもダメなんです。たしかに1年よかったら安心しちゃったけど、その1年がなかったら長くできてません。それで私は、トータルで18年やったんです。アメリカに行った年がね、1年、消されてるんですけど、18年間プレーしたんです」
聞けば、72年の佐藤さんはロッテに選手登録されておらず、ローダイ・オリオンズに移籍した扱いになっていた。実際、73年はロッテに復帰したことになっている。実質は野球留学でも、登録上は純然たるマイナーリーガーだったのだから、渡り歩いたのは4球団ではなく5球団──。佐藤政夫は、日米通算で18年間プレーした[流浪のサウスポー]だった。
(2016年5月6日・取材)