「THE ANSWER スペシャリスト論」女子マラソン・野口みずきさん「THE ANSWER」は各スポーツ界を代表するアスリート、指導者らを「スペシャリスト」とし、第一線を知る立場だからこその視点で様々なスポーツ界の話題を語る連載「THE …
「THE ANSWER スペシャリスト論」女子マラソン・野口みずきさん
「THE ANSWER」は各スポーツ界を代表するアスリート、指導者らを「スペシャリスト」とし、第一線を知る立場だからこその視点で様々なスポーツ界の話題を語る連載「THE ANSWER スペシャリスト論」をスタート。2004年アテネ五輪女子マラソン金メダリストの野口みずきさんが「THE ANSWER」スペシャリストの一人を務め、陸上界の話題を定期連載で発信する。
今回は「女子マラソンが世界で勝てなくなった理由」。野口さんを最後に女子マラソンで日本人の五輪メダリストはおらず、日本記録2時間19分12秒も16年間破られていない。選手たちが怪我のリスクを恐れてしまう背景、アフリカ勢とのプロ意識の差などを解説し、「いかに動物的になるか」と日本人が再び世界の頂点に立つために必要なことを説いた。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)
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日本人最後の五輪女王は憂いていた。バルセロナ五輪で銀メダル、アトランタ五輪で銅メダルの有森裕子、シドニー五輪金メダルの高橋尚子に続き、野口さんは日本人4大会連続のメダル獲得者。アテネでは土佐礼子が5位、坂本直子が7位と出場3選手とも入賞し、2000年代途中まで「マラソン黄金時代」とも呼ばれた。
以来3大会、日本人は入賞者すらいない。なぜ、日本人は世界で勝てなくなったのか。要因を問われた野口さんは、芯を持って語った。
「2007、8年以降からある一定の期間まで、故障のリスクを恐れて冒険できていない選手が多かった気がします。マラソンランナーだったらとにかく距離を走って、しっかりと足の土台をつくることが大切。距離を走ることによって自信が生まれ、それが後押ししてくれるのがマラソンです。距離を走れる選手が少なくなったように感じます」
150センチの小さな体で世界と戦った現役時代。歩幅の大きな「ストライド走法」で先頭を走るダイナミックな姿は、見る者にとっても爽快だった。信条とした言葉は「走った距離は裏切らない」。最も走ったのは五輪3か月前の月1370キロ。2か月前も1300キロ超と追い込んだ。調整期間に入った本番前の1か月は、1000キロ弱に落としていった。
当時、他の女子ランナーの練習距離を把握していたわけではないが、少なくともアテネ五輪に出場した3選手は同じくらい走っていたという。一方、野口さんが聞いた限りでは、最近の選手は追い込みの時期でも1000キロほど。よく走る選手でも1200キロ台にとどまっているそうだ。
なぜ、怪我のリスクを恐れてしまうのか。野口さんは「子ども時代の過ごし方」を一因に挙げた。「私たちの時代は幼少期に外で遊ぶ人が多く、体が強かったような気がします。もちろんリスクとは隣り合わせですが、なんとか乗り越えて継続して練習ができていました」。子どもは日光を浴びながら運動することで骨がつくられ、基礎体力や運動能力も向上する。しかし、時代とともに生活習慣が変わった。
「その辺りでも違いが出ているのかなと。ある一定の期間(時代)の選手は外で遊ぶ機会が少なかったように思えて、故障が多くなってしまったのではないかと思います。なので、指導者も『リスクを恐れずにいきなさい』とは言えなかったのかもしれない。あとは中学、高校時代に過度な体重制限をしたことで骨がもろくなってしまい、実業団や大学に行ってから故障が多くなる。そういう傾向があったと思います」
「強くなりたい、でも怪我はしたくない」という葛藤、野口さんの向き合い方とは
速くなるためには、過酷な練習に耐えられる強い体が必要。怪我を恐れて走らないのではなく、そもそも“走れない”のだろう。近年のスポーツ界で叫ばれる「脱・勝利至上主義」「量より質」「怪我をさせない」という時代の流れとは、一見すると逆行したような考え。しかし、これらを蔑ろにし「痛くてもとにかく走れ」というスポ根論が正解だと主張しているわけではない。
強くなりたい、でも怪我はしたくない。相反する気持ちのバランスをどう整えるのか。量も大切だと思うからこそ、野口さんも現役時代に葛藤を経験した。
「合宿中、高強度の練習をした日の翌朝が一番気になります。『痛くなっていたらどうしよう』と。でも、リスクを恐れて70、80%の練習をするより、高強度の練習なら怪我をしても納得できると思うんです。それだけやったんだから仕方がないと誇れる。後悔なくできると思うんですね。
目標が高い分、強度の高い練習が必要になります。だから、私は『練習が120%、試合が100%』という気持ちでやっていました。練習がとにかくきつい。ペースは設定されていますが『出されたメニューを絶対に超えてやる』みたいな。監督たちをいい意味で裏切ってやる。リスクも頭をよぎりますが、ガンガンやってやるという気持ちでした」
走った距離には裏切られなかった。アテネ五輪で金メダル獲得後、05年ベルリンマラソンではアジア記録(男女混合レース)の2時間19分12秒を叩き出した。しかし、栄光の時代を築き上げた一方で、連覇を狙った08年北京五輪は左太もも肉離れでレース5日前に出場辞退を発表。怪我と闘う競技人生となった。
それでも、実業団入りした時に掲げた「ボロボロになるまで走りきる」という目標を完遂。37歳で引退する時、後悔はなかった。
今の世界記録は、ブリジット・コスゲイ(ケニア)が2019年10月に出した2時間14分4秒。長距離種目はアフリカ勢が席巻しているイメージが強い。素人目から見ると、持って生まれたものの差を感じてしまいがちだが、野口さんは練習量や意識の持ち方次第で世界と戦うことも不可能ではないと見ている。ただし、現状では“プロ意識”においてもアフリカ勢と差を感じている。
「ハングリー精神の違いはあるのかなと。環境もそうですし、プロとして意識が違う。やはり日本では、自分が手に入れたいと思ったものは何でも手に入れられるし、走る環境も凄く整っています。アフリカは近代的になったとはいえ、まだまだ整備されていない。そこでトレーニングしているアフリカ勢はいまだに強いですよね」
マラソンではないが、一目置くのが女子1万メートル日本記録保持者で東京五輪代表の新谷仁美(積水化学)。「あのプロ意識は素晴らしいものがあると思います。彼女の陸上に対する気持ちは、ほんっっとに凄い」。「プロ」「実業団」の肩書きは関係ない。全てを懸ける結果主義者の姿に感心している。
現役選手に望む姿「サバンナを駆け回るチーターのような動物的勘を」
野口さんは高校卒業後に強豪・ワコールに入社したが、1年半で退社。4か月間、ハローワークに通って雇用保険の求職者給付を受け、“無職”のまま競技を続けた。至れり尽くせりだった実業団の寮生活から、食事、洗濯など全てを自分でこなす生活。「たった4か月ですけど、陸上人生の分岐点。そこでプロ意識が芽生えて、競技力もどんどん上がっていった」。プロ意識は人から言われて身につけるものではなかった。
「人から言われて気づくことも大事かもしれないですが、その場合はどんどん忘れがちになってしまう。一番大事なのは自分自身です。変えていこう、自分がそうなるんだっていう熱い気持ちがないといけない。実業団選手も、もっと貪欲な気持ちでいてほしい。指導者に頼らず、自分で考える力を持つことは大事。周りに流されてやるだけじゃなく、強くなるためにプラスαで何をしたらいいのか。自分で積極的に考えられる選手じゃないといけない」
五輪金メダルなどマラソン10戦5勝の強さを生んだ、陸上に懸ける精神力。日本人が再び世界の頂点に立つには何が必要なのか。率直な問いに、一時代を築いたランナーらしい強い言葉が帰ってきた。
「世界と戦うためには、いかに動物的になるか。いろんなリスクを考えてしまうと、どこかで自らストップをかけてしまうと思いますが、そうではなく、サバンナを駆け回るチーターなど動物のように走りを磨いていく勘を持つ。その動物的勘があれば、段々と自分の体に対する感覚も優れていくんです。
『この部位はこうした方がいい』『これくらいの痛さだったら大丈夫』とか、私の場合は本当に研ぎ澄まされた気がするんですよね。動物的勘を養うことは凄く大事。メンタルも強くなる上に、自分の体をより詳しく知ることができると思います」
東京五輪の代表は前田穂南(天満屋)、鈴木亜由子(日本郵政)、一山麻緒(ワコール)。野口さんは「本当に思い切り飛び込んでいけるような選手がやっと出てきた」と期待を寄せた。3選手は出場しないが、14日には名古屋ウィメンズマラソンが行われる。日本人の女子で最も速く42.195キロを駆け抜けて16年。近い未来に思いを馳せた。
「私が持っている記録は2時間19分12秒。これはもうそろそろ破られないと、日本と世界のレベルの差がどんどん開いていってしまう。日本記録を出して2、3年くらいはヒヤヒヤしたり、複雑な気持ちにはなったりしていましたが、もう16年も破られていませんからね。破られても納得というか、むしろ破る選手が出てきてほしいと思っています」
止まった時計の針を動かすのは誰だ。日本人最後の五輪女王は、新時代の到来を心待ちにしている。
■野口みずき/THE ANSWERスペシャリスト
1978年7月3日生まれ、三重・伊勢市出身。中学から陸上を始め、三重・宇治山田商高卒業後にワコールに入社。2年目の98年10月から無所属になるも、99年2月以降はグローバリー、シスメックスに在籍。2001年世界選手権で1万メートル13位。初マラソンとなった02年名古屋国際女子マラソンで優勝。03年世界選手権で銀メダル、04年アテネ五輪で金メダルを獲得。05年ベルリンマラソンでは、2時間19分12秒の日本記録で優勝。08年北京五輪は直前に左太ももを痛めて出場辞退。16年4月に現役引退を表明し、同7月に一般男性との結婚を発表。19年1月から岩谷産業陸上競技部アドバイザーを務める。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)