プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(16)(連載15:西村修と藤波辰爾「無我」を巡る問題の真相を 西村だけが悪者になるのは「一方的な見方」>>) 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス…

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(16)

(連載15:西村修と藤波辰爾「無我」を巡る問題の真相を 西村だけが悪者になるのは「一方的な見方」>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第16回は、"わがままな膝小僧"髙田延彦。アントニオ猪木の付き人時代から、第1次UWFへの参戦、IWGPジュニアヘビー級王座を巡る越中詩郎との"新・名勝負数え唄"など、若手時代の姿に迫る。


第1次UWF時代の髙田延彦(左)と前田日明

 photo by 木村盛綱/アフロ

【若手時代からすべての人に可愛がられた】

――柴田さんは髙田延彦さんとも長い付き合いだそうですね。

柴田:僕は1982年に東京スポーツに入社して、彼は1980年に新日本プロレスに入門し、1981年5月デビュー。当初からスター候補生で"期待の星"として目立っていました。プロレス業界では髙田さんが先輩だけど、年齢は僕のほうが上です。最初は微妙な関係でしたけど、なぜだか気が合いました。

――髙田さんはどんな選手でしたか。

柴田:あの頃の新日本は髙田さんをはじめ、前田日明さんや平田淳嗣さん、新倉史祐さん、保永昇男さん、ジョージ高野さん、ヒロ斎藤さん、仲野信市さん、小杉俊二さん、高野俊二さんなど多士済々のヤングライオンがいっぱいいました。その中でも髙田さんは性格がよくて「ノブちゃん、ノブちゃん」と、先輩に可愛がられていました。クセの強い選手が多かった中で、髙田さんはいい意味でクセのない普通の若者でした。

 素直で、頼まれたことは嫌な顔せずにいろいろやってくれる人だったから、先輩の小林邦昭さんも 「ノブちゃんは頼みやすいよね」なんて言っていた。藤波辰爾さんも「彼はいいね」とみんなに可愛がられていて、女性ファンの人気も高かったですね。

――私が中学生の時、髙田さんはアントニオ猪木さんの付き人をやっていました。まだUWFに移籍する前でしたね。

柴田:猪木さんは、佐山聡さんが新日本をやめてしまったので、タイガーマスクの後を担うポジションを髙田さんに任せようと考えていたのだと思います。髙田さんは佐山さんのように運動能力も高く、若くてカッコイイ選手でした。それで自分の付き人にして、カナダ遠征にも連れていって、テレビマッチにも出場させています。大抜擢ですよね。

【第1次UWFに"限定"参戦のはずが・・・】

――精悍なルックス、スタイルも若手の中で群を抜いていました。

柴田:髙田さんのモテエピソードのひとつとして、平田淳嗣さんのお嬢さんの話があって。当時、まだ小さかったのに「大きくなったら、私ノブちゃんのお嫁さんになる」と、ニコニコ笑っていたことをよく覚えています。

 ただ、女性だけではなく男性人気もあったし、先輩や後輩の選手たちの支持率も高かった。高田さんは練習の前後に先輩たちと握手する時には、わざわざ自分の手を拭いてきれいにしてから、両手で握っていました。

 変な"色"がついていなくて、まっさらな性格。ただ、裏を返せば「影響を受けやすい」ということ。だから第1次UWFの旗揚げの時、最初はオープニングシリーズ(1984年4月11日~17日)だけの参戦という話だったのに、周囲の影響もあってUWFに残ったんだと思います。

――当時の髙田さんのライバルは、山崎一夫さん?

柴田:山崎さんのほかにもいっぱいいました。前田さんや平田さん、ジョージ高野さんもそうだし......みんながライバルでしたよ。

 みんな個性があった。髙田さんは特にキラリと光っていましたね。本当に格好よかった。

――第1次UWFの旗揚げ戦は、1984年4月11日、埼玉県・大宮スケートセンターで行なわれました。ラッシャー木村さんや剛竜馬さん、マッハ隼人さんらも参戦しましたね。

柴田:1984年に第1次UWFが始まった時、僕は東スポの若手記者で、上司から「UWFの取材に行ってこい」と言われました。東京から関東近県まで、日帰りの取材ばかり。試合後は電車で帰って来られなかったので、会社の車を出してもらって移動。その日のうちに会社に戻って原稿を書くことが多かったです。

 まだビッグマッチと呼ばれる試合も少なかったんですが、1985年9月2日大阪臨海スポーツセンターで行なわれた、スーパー・タイガー(佐山聡)vs前田日明の不穏試合など、印象深い試合もありました。

――どんな試合でしたか?

柴田:前田さんが佐山さんのキックを何発も受けつつ、金的だけをガードしながら、ひたすら無言で前へ前へと出ていった試合。試合は、途中で佐山さんが手を挙げて「金的です」とアピールして中止になった。当時はそういう不穏な試合がしばしばありました。

――髙田さんは、第1次UWFのオープニングシリーズに全日程出場していますね。

柴田:それも、もっと遡ると4月11日の旗揚げ戦のみの参戦のはずでした。「約束だから1試合だけ」と言っていたのが、前田さんや藤原喜明さんの誘いもあったのか、そのままUWFに移籍。新日本のファンは激怒していましたね。

【"強さを追求するプロレス"へ】

――旗揚げから3カ月、1984年7月23、24日のUWF「無限大記念日」興行に、佐山さんが参戦。約1年ぶりのリングでした。

柴田:UWFに初代タイガーの佐山さんが合流。だけど、佐山さんは格闘技志向が強かったので、UWFは思っていたものと違ったんじゃないかな。話し合いもしていたのだろうけど、結局はいろいろと揉めて、先ほど話したような不穏な試合が続くことになった。

――佐山さんは1985年10月に第1次UWFを抜け、格闘技"修斗"を立ち上げました。

柴田:やはり 「自分の理想には、自分で辿り着くしかない」ということだと思います。でもそれが、今のMMA(総合格闘技)の礎になっていますね。

――新日本時代と、第1次UWF時代の髙田さん、柴田さんから見て変化した部分などはありましたか?

柴田:スタイルはそんなに変わっていないけど、UWFは求めるものが違っていました。スープレックス、サブミッション、打撃に特化したというか......髙田さんも"魅せるプロレス" ではなく "強さを追求するプロレス" に重きを置くようになった印象があります。

――1985年12月にUWFが新日本と業務提携。1986年1月に猪木さんへの挑戦権を賭けて、5選手による「UWF代表者決定リーグ戦」が開催されました。藤原さんが優勝し、2月6日に両国国技館で猪木さんと対決しました。

柴田:ファンとしては猪木さんvs前田さんを期待していたと思うけど、藤原さんが残りましたね。

――藤原さんは敗けましたが、その直後に前田さんがリングに乱入し、猪木さんにハイキックを見舞いダウンさせました。前田さんは、反則技を織り交ぜていた猪木さんに激昂し、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!」と批判しました。

柴田:そこで、 "次は猪木さんvs前田さんか" とファンの機運も高まったんですが、一騎打ちはやっていない。猪木さんとしては、ストーリーをちゃんと温めてからという考えがあったんだと思います。

【越中との新・名勝負数え唄"】

――新日本に戻ったあとの髙田さんは、IWGPジュニアヘビー級王座をめぐり、元全日本プロレスの越中詩郎さんと戦いました。

柴田:越中さんは185cmあって、ジュニアとはいえ身体がデカかった。全日本プロレスの選手は身体がみんなデカいんですよ。ジャイアント馬場さんやジャンボ鶴田さんと一緒にいたから、大きく見えなかっただけ。越中さんも、今だったら完全なヘビー級の選手です。

――髙田さんと越中さんの試合は"新・名勝負数え唄"と呼ばれました。

柴田:ふたりの試合は、プロレス大賞のベストバウト候補にも挙がりましたね。当時は、ジュニアの試合がベストバウトにエントリーされることは、あまりないことでした。

――新日本に戻ってからの髙田さんの戦いはいかがでしたか?

柴田:もともと新日本育ちですから、すぐに適応できましたね。一方、全日本プロレス育ちの越中さんは受け身をトコトン仕込まれているから、打たれ強い。真正面から髙田さんのキックを受けるんです。おかげで髙田さんは、 "これがUWFだ" というものも披露しながら、新たなスタイルを築き上げた。髙田さんと越中さんは、うまくスイングしていましたね。

――髙田さんがIWGPジュニア王座を争った相手は、越中さんしか記憶にないくらいです。

柴田:名勝負は少ないかもしれません。誰ともやっても名勝負をたくさん残しているのは、猪木さんだけ。藤波さんは長州さんをはじめいくつかあるけど、馬場さんや鶴田さん、前田さんでも名勝負というとそんなに多くないかと......。例えば「名勝負100選」とかを選ぶ場合、ポンポンと出てくる選手ってそんなにはいないんですよ。その点でも、猪木さんは別格でしたね。

(連載17:髙田延彦のUWFインター時代 元横綱・北尾光司を一蹴して「最強」を証明>>)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。