夏の甲子園に3年連続出場した常総学院高校(茨城)から早稲田大学に進み、伝統の慶応大学戦では史上初のサヨナラ満塁本塁打を記録。主将も務めた仁志敏久氏(48)は、春と秋のリーグ戦で2度の優勝を経験し、ベストナインにも3度選ばれた東京六大学野球…

 夏の甲子園に3年連続出場した常総学院高校(茨城)から早稲田大学に進み、伝統の慶応大学戦では史上初のサヨナラ満塁本塁打を記録。主将も務めた仁志敏久氏(48)は、春と秋のリーグ戦で2度の優勝を経験し、ベストナインにも3度選ばれた東京六大学野球を代表する名選手だった。社会人野球を経てプロ野球巨人と横浜で活躍し、新人王や4度のゴールデングラブ賞、オールスター戦にも5度出場した。「6校以外は誰も踏み込めない特別な場所」と語る東京六大学野球とは-。

写真:ベースボール・マガジン社

早慶戦でのサヨナラ本塁打

-高校時代、進路は東京六大学に絞っていたのですか?
 そうですね、大学に進むことは決めていました。高校3年の夏の甲子園は1回戦で負けてしまい、その夜、みんなが面接のような形で先生たちと進路について話し合い、その時に初めて早稲田大学という選択肢があると先生から言われ、試験を受けることになりました。自分は大学に対する知識が全然なく、知っていた法政大学への進学を当初は考えていたのですが、学校側も協力してくれるという前提で早稲田に決めました。
受けたのが特別選抜試験といって、2つ上の先輩がその制度で入学していたこともあり、先生たちはそれを使って早稲田に行きたいのではないかと思っていたようです。当時のプロ野球には(1990年まで)ドラフト外入団というものがあり、早稲田に合格しなかったらドラフト外で獲得してくれる球団もありました。甲子園から帰ってきた時には、もうほかの大学のセレクションも終わっていました。

-早大での忘れ得ぬ宝物のような思い出の試合を教えて下さい。
 まずはキャプテンになった4年生の春、慶應義塾大学との2回戦で史上初のサヨナラ満塁本塁打を打ったことです。プロに入ってからも、打撃ではいろいろ悩みながら、工夫しながら、あれこそ考えながらやっていましたが、大学時代のあのホームランがあって、その後もより自信がつきました。
あれは4-4の同点で迎えた9回裏2死満塁で、ワンストライクからの2球目でした。あまり落ちずに高めから真ん中に入ってきたフォークボールを捕らえ、レフトスタンドに運びました。早慶戦史上初めての出来事になりましたが、それまでも達成できた人はたくさんいたとは思います。その場面に巡り合える人がいなかったのでしょうね。
もうひとつ、4年生の秋季リーグで優勝を決めた慶應戦です。最後に慶應との試合を残し、早稲田が負けたら明治が優勝という状況だったんですね。結局、うちが明治に2勝1分け、慶應にも2勝1分けで勝ち点を挙げて優勝できました。

写真:ベースボール・マガジン社

主将としての創意工夫

-早大野球部の4年間で最も努力や苦労をしたことは何でしょう?
 努力と言いますか、1、2年生の時は今でも考えられないくらい、厳しい練習をこなしていました。良くも悪くも伝統なんでしょうね(笑)。1年生の春季リーグでは1982年の秋以来、15シーズンぶりに早稲田が優勝しました。そのご褒美という意味もあったと思いますが、4年生は1ケ月くらいオフになり、僕ら1、2年生はずっと練習です。実戦形式ではなく、気温30度を超える炎天下の中、一人だけのノックを40分くらいやりましたね。捕れない所へノックされ、右へ左へ跳びついて。
これが終わると2時間ほど、ティーバッティングを20~30球くらい打って、ポール間を2往復ダッシュして、またティーバッティングを20~30球打って、またダッシュというのを延々と繰り返しました(笑)。練習中に倒れた選手もいましたよ。体重もすごく落ちてしまい、5、6キロは減って高校1年生くらいの体重になりました。

-しかし、そうやって鍛えた早大時代の経験が、プロ野球での活躍などにもつながったのではないでしょうか?
 それもありますが、厳しいだけの練習よりも、自分が4年生になって、練習メニューにはないトレーニングをしたり、キャプテンになったことで、どう言ったら周りが反応してくれるのかとか、どういう方向に選手たちを持っていこうとか、そういったことを考えながら野球をやっていたことが、その後に一番生きたと思います。キャプテンをやっていろいろ工夫したり、リーダーシップのようなものを学んだことが、今もそうですが、生きていますね。

品格と志を高く

-個人的にも素晴らしい成績を残しましたが、仁志さんにとって東京六大学とはどういった存在でしたか?
 やっぱり大学野球界を牽引する存在で、特に早稲田はプロ野球で言ったらジャイアンツみたいなものです。中身がどうあろうと周りは高い評価をするので、品格とか志とかは高くないといけないと思っていました。それと箔(はく)を付けるひとつのアイテムというか、プロ野球に進む過程の中では、自分のランクをひとつ上げてくれる、肩書や実績をつくってくれるような場所だったと思います。
6校だけにしか六大学と名乗れないステータスというのは、ほかの大学ではどうすることもできませんからね。いくら全日本大学選手権大会で優勝しても、東京六大学という決められた枠の中でやっているリーグには、伝統も含めてなかなか追い越せない部分があると思います。6つしかない枠というのは誰にも侵されることのない、踏み入れられない特別な場所ですね。

-歴史のある東京六大学がさらなる盛り上がりを見せるため、仁志さんなりの提言をいただけますか。
 本当にいい選手をたくさん取るしかないと思うし、監督になる人もある程度、実績があったり経歴なども華やかでないといけない。OBであっても、今は誰が監督をやっているのか知らないということも、往々にしてあると思います。人で人を集める、それしかないと思う。まず魅力的な選手を取ることです。愛校心のようなものは昔ほどないでしょうから、そうなると野球もサッカーっぽくポップな感じに宣伝するしかないのではないでしょうか。
私たちの時も早慶戦以外は、観客が外野まで満員になることはそれほどありませんでした。(早大OBでプロ野球北海道日本ハムの)斎藤佑樹君がいた時などはいっぱい来ていたのでしょうし、選手が有名であるかないかでお客さんの入りは変わるでしょうね。あとは特に甲子園で活躍した選手のその後の進路みたいなものが、もっとクローズアップされるといい。
東京六大学だけではなく東都大学など他のリーグも盛り上がらないといけないので、好選手の進路が分かるようにSNSなどでどんどん発信し、東京六大学が主導でこんなマネジメントやマーケティング、こういう戦略をしています、うちの大学はこういう方法で指導しています、といった発信をもっとしていくことが大前提ではないかと思います。

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写真:ホリプロ