写真:ベースボール・マガジン社 1915年(大正4)に創設された法政大学野球部は慶応、早稲田、明治に次ぐ古豪で、東京六大学野球の優勝回数は早大と並ぶ最多の45回、学生チャンピオンを決める全日本大学野球選手権大会でも最多優勝8回を誇るなど、日…

写真:ベースボール・マガジン社

1915年(大正4)に創設された法政大学野球部は慶応、早稲田、明治に次ぐ古豪で、東京六大学野球の優勝回数は早大と並ぶ最多の45回、学生チャンピオンを決める全日本大学野球選手権大会でも最多優勝8回を誇るなど、日本を代表する名門チームだ。
日本野球機構(NPB)に所属し、プロ野球の審判員として第二の人生に情熱を注ぐ深谷篤氏(47)も法大野球部OBのひとり。
「レギュラーだったのは2年生の春だけで、代打での出場がほとんどでした」
チームは在籍中に2度のリーグ優勝を飾り、4年生だった95年には第44回全日本大学選手権を制したが、深谷氏自身がスポットライトを浴びたことはない。それでも法大の一員として4年間野球に打ち込み、東京六大学リーグにかかわれたことは、生涯の財産だとしみじみ語る。
「あれは4年生の時です、代打として私の名前がアナウンスされると、神宮球場まで応援に駆けつけてくれた大勢のクラスメートが『フカヤ~、フカヤ~』って絶叫する声が聞こえてきましてね。それがものすごくうれしくて、今でもその様子は鮮明に覚えています。結局は力んで凡打になってしまいましたが」
成績こそ残せなかったものの、仲間の友情だけは一生の宝物として記憶に残っていると笑顔で振り返った。

大学卒業後は三菱自動車の国内拠点のひとつ、岡崎製作所(愛知)に入社。野球部では外野手として3年間プレーし、最終シーズンの98年に都市対抗大会初出場を果たしたが、再発を繰り返す右ひじ痛のため、現役を引退することになった。
転職先として希望していたのがプロ野球の審判員。その採用試験に見事に合格した99年1月、セ・リーグ東京審判部へ入局し、現在はNPB関東所属として22年目を迎えた。

 今でも思い返すのは、法大時代の山中正竹監督からの言葉だという。「六大学でプレーした人間は、卒業後もリーダー的存在にならないといけない」

深谷氏はここ数年、プロ野球ばかりかアマチュア野球界でも選手のほか、監督やコーチ、チームスタッフも含めて大勢の東京六大学野球OBの活躍を実感するようになったそうだ。「責任ある立場にいるOBの活躍は特に意識しますね。野球界発展のために欠かせない存在であり、それを引っ張っていくのが法政大学であり、東京六大学だと感じています」

 スポーツの判定は人間がジャッジする以上、どんな競技にもミスは付きものだ疑義が生じることはある。 深谷氏もプロ野球の審判員という職業柄、監督や選手からの抗議、観客のヤジなどで落ち込むことがしばしばある。そんな暗い気持ちを鎮めてくれる特効薬が、法大時代の仲間で「いろんな分野で活躍している友人の存在が励みになり、自分も頑張らないといけないと思うことがしょっちゅうあります」と旧友のありがたみに感謝する。加えて他大学の選手であっても、神宮球場でともに戦った仲間たちの存在は大きな刺激になっているそうだ。

 全日本大学選手権大会優勝を目指し、日本の学生野球界のリーダーになることを意識づけられ、“伝統の法大”で過ごした4年間は貴重な経験となった。「今は審判員という立場で野球界に身を置いていますが、その中でもリーダー的な役割を任せられ、責任を果たせる審判員になりたいという強い思いがあり、それが私の支えにもなっているのでます。先輩や後輩同期や周囲 から励ましの言葉をもらうこともよくあります」と深谷氏は東京六大学野球がもたらしてくれた、かけがえのない財産を熱っぽく噛み締めるように語った。

 プロ野球の審判員となり、日本シリーズとオールスター戦もそれぞれ2度経験した深谷氏。今では昼間に東京六大学リーグが行われ、夜に自分が受け持つプロ野球の試合がある時は早めに神宮球場入りし、スタンドで六大学野球を観戦するのが楽しみのひとつとなっている。「母校の試合では、7回の攻撃時に合唱する校歌やチャンスに奏でる吹奏楽団の演奏を聴くと体中が熱くなり、『自分もこんな中でプレーしていたのか』って鳥肌が立ちます。これこそ東京六大学の魅力ですね」

 深谷氏には大学3年の長男、同1年の二男、高校1年の三男がいて2人が野球選手だ。首都大学野球2部リーグに所属する長男の試合は、応援団もブラスバンドもチアガールもいない。「本当に同じ大学野球なのかと思いました。東京六大学が特別な存在であることに改めて驚かされますが、もっと学生が集まって賑やかな神宮球場が作れると、一般の方も集まるし、そういう場所でやりたいと言う子供たちが増えてくると思う」

子どもたちの夢を叶えてあげたいという親心を知った今だからこそ、家族による経済的なサポートの大切さを実感するようになり、野球を続けさせてくれた親には感謝が尽きないという。「学費、寮費、生活費を合わせれば年間100万円では足りません。ほかに1、2万円もする木製バットが1回で折れたこともありますし、スパイクや革のグローブの買い替えなどの用具費もかかる。当時は寮生以外のほとんどの選手がアルバイトをしていたようですが、私はアルバイトができなかったので小遣いまでもらい、当たり前のように野球ができる生活を送っていましたが、親になってお金の負担はやっぱり大きかったと感じるようになりました」

親子で東京六大学リーグや都市対抗予選を観戦しながら、将来について語り合うと2人の息子さんはそろって大学と社会人を経験した後、プロ野球選手になる大きな夢を口にし、父親を喜ばせる。「うれしいですねえ。三男は神宮球場に行きますと、試合と同じくらいスタンドの熱気や応援に注目しています。法政でプレーすることを希望していますが、努力して努力して先方から誘っていただけるような選手になりなさい、と話しています」

 -神奈川を代表する強豪校に通う三男が父と同じ六大学へ進み、父が果たせなかった社会人での大活躍とプロ選手という目標をかなえる-。

東京六大学リーグは、そんな夢を見させてくれる舞台でもある。

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