連載第45回 サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。 今回は、プレミアリーグ…
連載第45回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、プレミアリーグ優勝間近のリバプールについて。20年前の2005年チャンピオンズリーグ(CL)決勝は今でも語り草。1970年代の黄金時代は日本でも『ダイヤモンドサッカー』で見ることができました。
20年前のCL決勝。リバプールは歴史に残り一戦を制して優勝している
photo by Getty Images
【20年前のCL決勝を見た】
イングランドのプレミアリーグでは、2位につけていたアーセナルが4月12日に行なわれたブレントフォード戦で引き分けたため、リバプールが優勝に大きく近づいた。
リバプールが優勝すれば、2019-20シーズンに次いでプレミアで2度目の優勝。プレミア結成前のフットボールリーグ(FL)時代の18回を加えればトップリーグで20度目のタイトルとなり、マンチェスター・ユナイテッド(FLで7度。プレミアで13度優勝)と並ぶ。
さて、僕にとってリバプールに関するいちばん大きな思い出は、2005年のCL決勝だ。
トルコのイスタンブールで行なわれた決勝でリバプールはイタリアのミランと対戦したが、開始直後のFKからパオロ・マルディーニに先制ゴールを許し、さらにエルナン・クレスポに2ゴールを決められ、0対3とリードされてハーフタイムを迎えた。
イタリアの「守備の文化」がまだ健在だった時代だ。「3点差」はミランにとって十分なリードだと誰もが思った。
僕もハーフタイムには「なんで、こんな試合をわざわざ見に来たのだろう」といささか後悔していた。
実は、僕はCL決勝を見に行ったことがあまりない。
というのは、たとえば準々決勝とか準決勝を観戦に行けば、火曜日と水曜日に2試合観戦できるし、木曜日には他のカップ戦も行なわれており、さらに前後の週末には終盤を迎えている各国リーグの首位攻防戦も観戦できる。
しかし、決勝戦はシーズン最後を飾る試合だから(昇格プレーオフなどを除いて)他には試合があまりない。しかも、両チームのサポーターが押しかけるので、開催都市のホテル代も高くなる......。
だから、CLを観戦に行くのは準々決勝か準決勝と決めていたのだ。
【歴史に残る一戦】
ところが、2005年の準決勝が終わった時、何故か、急に、どうしても決勝を見たくなったのだ。そして、悩んだ末にイスタンブール行きを決めた。
市内のホテルからスタジアムまでバスが出るというので会場のアタテュルク・オリンピアト・スタドゥに向かった。約8万人収容の巨大な陸上競技場で、記者席はメインスタンドのいちばん上にあったので、ピッチまで遠くて細かいプレーはよく見えなかった。
そして、試合自体も一方的なものになってしまった。それで、後悔してしまったのだ。
ところが、後半に入るとリバプールがとんでもない反撃を見せる。
ラファエル・ベニテス監督はそれまでやったことがないスリーバックに変更。54分にスティーブン・ジェラードがヘディングで1点を返すと、2分後にはウラディミール・シュミチェルがミドルシュートを突き刺し、さらに60分にはジェラードが倒されてPKを獲得。シャビ・アロンソのキックはミランのGKジーダに止められたが、跳ね返りをアロンソが自ら決めて、リバプールはわずか6分間で同点にしてしまったのだ。
そして、その後ゴールは生まれなかったが、リバプールはPK戦に勝利してビッグイヤーを獲得した。
こうして、イスタンブールファイナルは歴史に残る一戦となった。試合は見にくかったし、試合終了後には集団スリの被害にも遭ったが、僕は"歴史の目撃者"になれたのである。
2005年チャンピオンズリーグ決勝のチケット(画像は後藤氏提供)
決勝戦が5月25日で、6月3日にはドイツW杯アジア最終予選のバーレーン対日本戦があったので、僕は1週間ほどイスタンブールに滞在してハギアソフィアやブルーモスク、トプカプ宮殿などの世界遺産を堪能してからバーレーンに向かった。
イスタンブールという都市は、1週間滞在してもとても観光し尽くすことができないような、すばらしい街だった。
【1970年代の黄金時代は日本でも見られた】
僕がリバプールFCというクラブに出会ったのは、東京12チャンネル(現テレビ東京)の「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組の画面を通じてだった。1960年代に始まった、イングランドを中心に欧州の試合映像を見ることができる日本唯一の番組だった。
同番組が始まった1960年代後半は、1959年に就任してから15年間にわたってリバプールを指揮した名物監督ビル・シャンクリー時代の後半で、その後、愛弟子のボブ・ペイズリーが引き継いで、リバプールは1970年代に黄金時代を迎えることになる(1972-73シーズンから18シーズンの間になんと11回優勝!)。
つまり、当時の日本のサッカーファンは画面を通してリバプールの黄金時代を見て過ごすことになったのだ。
「ダイヤモンドサッカー」は解説の岡野俊一郎さん(元日本サッカー協会会長)と実況の金子勝彦アナウンサーの掛け合いが名物だった。サッカーの技術・戦術的な解説はもちろん、そのクラブの、あるいはその国のサッカー文化などが軽妙な語り口で紹介された。
たとえば、「コップスタンド」の由来が日本で初めて紹介されたのもこの番組だったはずだ。
スパイオンコップは南アフリカにある標高1500メートルほどの小山で、1899年に始まった「ボーア戦争」の時に激戦地となった。南アフリカで勢力を拡大する英国と、16世紀以来土着していたオランダ系白人の間の戦争だった。そして、「スパイオンコップの戦闘」では英国側だけで約1500名の死傷者が出た。
この故事にちなんで、フットボールグラウンドの大きな(山のような)スタンドを「コップスタンド」と呼ぶようになったのである。そして、とくにシェフィールド・ウェンズデーの本拠地ヒルズボロと並んで、リバプールの本拠地アンフィールドの「コップスタンド」が有名だった。
なぜなら、この時の英国軍はリバプールやマンチェスターを含むランカシャー州の部隊だったからだ(現在はマージーサイドとグレーター・マンチェスターはランカシャー州から独立した自治体になっている)。リバプール出身の兵士も数多く犠牲になったことだろう。だからこそ、「コップスタンド」はリバプールの人たちにとって特別な意味を持っていたのだ。
【金子アナとリバプール】
それから数十年の時を経たある日、僕は解説者として金子アナウンサーと一緒に仕事をするという貴重な経験をした。それも、リバプールの試合だった。
黄金時代のリバプールの試合を数多く実況したためか、金子アナウンサーは自他ともに認める大のリバプールファンだった。
控室で、金子さんは黄金時代のリバプールの資料を見せてくれた。僕が「昔のことを知っている人」だと思ったので、ご自宅からわざわざ持ってきてくれたのだ。
すべて手作りの資料だった。
現在では海外の試合の映像などいくらでも見ることができるし、インターネットで検索すれば様々な情報も手に入る。また、番組制作会社には「データマン」と呼ばれる人たちがいて、様々なデータやエピソードを集めてまとめておいてくれるから、解説者や実況アナウンサーはそうした資料を見ながらしゃべることができる。
だが、「ダイヤモンドサッカー」の時代はそうではなかった。
もちろんインターネットなどなかったし、同番組以外に試合の映像を見ることはできなかったのだ。ビデオテープ自体が貴重品だったから、放映された映像も保存されていなかったことだろう。
だから、金子アナウンサーはご自分で実況した時に見た選手の特徴などをメモしたり、新聞や雑誌から様々な情報を抜き出して手書きで資料を作っていたのだ。
控室で貴重な資料を見ながら話が盛り上がったのはいいのだが、その後、実況の仕事が始まってからも金子アナウンサーはついつい昔話が多くなってしまった。それで、僕が目の前の試合に話を戻す役割を果たすことになった......。
とにかく、金子アナウンサーと一緒にリバプールの試合の解説ができたことは、僕にとって一生の思い出となったのである。
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