上田二朗氏が苦しんだ1979年…ブレイザー体制となり登板機会が激減 1973年に阪神で22勝を挙げたアンダースロー右腕の上田二朗氏(野球評論家)は、プロ10年目(1979年)のオフに南海へ移籍した。金銭トレードだった。阪神がドン・ブレイザー…

上田二朗氏が苦しんだ1979年…ブレイザー体制となり登板機会が激減

 1973年に阪神で22勝を挙げたアンダースロー右腕の上田二朗氏(野球評論家)は、プロ10年目(1979年)のオフに南海へ移籍した。金銭トレードだった。阪神がドン・ブレイザー監督体制になって、登板機会が激減。この年はすべてリリーフの15登板で0勝0敗、防御率4.05に終わっていた。同時期に安仁屋宗八投手が広島に、谷村智啓投手が阪急に移籍したが「私たち3人は(首脳陣から)全然、相手にもしてもらえませんでした」と無念そうに話した。

 上田氏にとって、苦しい時期だった。トレード前年の1978年は3勝10敗、防御率5.72。後藤次男監督率いる阪神は41勝80敗9分で、5位・中日から10.5ゲーム差をつけられて球団初の最下位に沈んだ。「この年は他のピッチャーもみんな勝てない年だったんじゃないかと思う。厳しい年でした」。2桁勝利は11勝の江本孟紀投手だけ。逆に2桁敗戦投手は13敗の江本も含めて、5人も出る惨状だった。

 オフには元南海ヘッドコーチで、1978年は広島ヘッドコーチを務めていたブレイザー氏が監督に就任。主砲の田淵幸一捕手は古沢憲司投手とともに、真弓明信内野手、若菜嘉晴捕手、竹之内雅史内野手、竹田和史投手との2対4の交換トレードでクラウンから変わったばかりの西武へ移籍した。11月22日のドラフト会議では1位指名で南海、近鉄、ロッテとの4球団競合の末、抽選で江川卓投手(作新学院職員)の交渉権を獲得した。

 江川はその前日の11月21日に協約の盲点をつく形となる“空白の1日”を活用して巨人と契約。セ・リーグ事務局はこれを認めず、巨人がドラフトをボイコットしたなかでの阪神1位だった。その後も騒動は続き、最終的には翌1979年2月、江川の代わりに巨人から小林繁投手が阪神に移籍することになった。その加入も含めて、最下位から巻き返すべく阪神の戦力は変わっていったが、上田氏には“逆風”になった。「これまでみたいには全然、使ってくれなかったです」。

先発を外れ救援で15登板のみ…オフに南海へ金銭トレード

 1979年の上田氏は先発組から外れ、リリーフで15試合に投げただけ。それもほとんどが負け展開での出番だった。シーズン5登板目の5月9日の大洋戦(横浜)では0-20の7回から5番手でマウンドに上がり、2回1失点。超大差負けでの登板は悔しかったことだろう。「あの年は安仁屋さんと谷村と私の3人が相手にしてもらえなかった。ですから(投手コーチの)藤江(清志)さんのところにみんなで聞きに行ったんですよ。『どういう考えで私らを見ているのですか』ってね」。

 意を決してのアクションだったが「投手コーチが言うには『俺はブレイザーに投手コーチをやれ、と言われてやっている。だからブレイザーの言うことがすべてや』と……。別に私らをかばってほしいと思っていたわけではないんですが、投手のことをこう思っているとかはなかった。『知らないなぁ』って……。それでもう何もなしでしたね」。上田氏は6月26日の中日戦(甲子園)で4-8の9回に5番手で投げて1回無失点。それがそのシーズンの最終登板となった。

 2軍落ちし、以降は1軍に呼ばれることはなかった。「あの時、2軍監督が藤村隆男さんでね、『そういう年もあるよ』って、よう言われましたけどね。その後、トレードになったんですよね、私も、安仁屋さんも、谷村もね。ブレイザーなのか藤江さんのか知らないけど、ホント、私たち3人はよっぽど(当時の首脳陣と)相性が悪かったんでしょうね」と上田氏は少し表情を曇らせながら話した。

 金銭トレードで南海へ移籍した上田氏は心機一転。新天地で全力を尽くした。1980年は11先発を含む30登板、6勝6敗1セーブ。全盛期とは比べられないが、直近2年間よりは巻き返した。「でもね、また……」。1981年から今度は南海がブレイザー監督体制になった。これも運命だったのか。「考えられないですよね」と上田氏は苦笑する。それがまた阪神復帰への道を作る形にもなる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)