2024年1月2日・3日に第100回大会を迎える箱根駅伝。今企画では、かつて選手として箱根路を沸かせ、第100回大会にはシード校の指揮官として箱根路に立つ3人の監督に、あらためて箱根駅伝に対する思いを語ってもらった。第2回は、法政大の坪田…
2024年1月2日・3日に第100回大会を迎える箱根駅伝。今企画では、かつて選手として箱根路を沸かせ、第100回大会にはシード校の指揮官として箱根路に立つ3人の監督に、あらためて箱根駅伝に対する思いを語ってもらった。第2回は、法政大の坪田智夫監督。76回大会(2000年)にはエース区間の2区で区間賞を獲得するなど活躍を見せ、卒業後も世界選手権10000m日本代表として活躍した。現役引退後の2010年にコーチとして母校に復帰し、2013年からは監督として箱根駅伝と関わり続けている。
2013年から法政大学駅伝部の監督を務める坪田智夫監督
Photo by Makino Yutaka
【 "黄色のジャケット"の悔しさをバネに】
箱根駅伝デビューは1年時(1997年)。いきなり山上りの5区に起用され、区間14位と苦戦。2年目はケガで予選会に出場できず、チームも落選したが、3、4年時は予選会で2年連続個人全体5位の走りでチームをけん引し、本戦ではエース区間の2区を担当。チームはシード権獲得こそならなかったが、それぞれ区間3位、区間賞とその名を箱根路に刻んだ。しかし、神戸甲北高校(兵庫)出身の坪田智夫監督は、大学入学まで「箱根駅伝に興味はなかった」と言う。
(以下、一問一答)
――大学進学の際には、箱根駅伝はどのように捉えていたのですか。
「もちろん知ってはいたのですが、それほど興味はありませんでした。県立高校でしたし、そのまま関西に残るつもりでした。たまたま近所に私の兄と同じ小中学校だった方で法政に進学した人がいて、そうした縁で、声を掛けていただいていました。親からも(関東行きを)強く勧められましたし、法政の校風にはそれほど強いイメージがなかったので、地方から出て行って、4年のうち1回くらい箱根を走れればいいかな、法政ならチャンスはあるかな、というくらいの気持ちで入学しました」
――入学後は、箱根駅伝を強く意識したのですか。
「前年度にシード権を獲得していたチームに入ったので、入学前よりは意識しましたが、正直訳のわからないうちに箱根駅伝に出場していた感じです。1年生がやるべき寮の雑用に追われているうちに夏が来て、合宿に行って、そうこうしていたら(10月の)出雲駅伝のメンバーに選ばれ、いつの間にか箱根駅伝になっていた」
――気づいたら、小田原(5区のスタート地点)にいた、みたいな。
「そんな感じです(笑)。あれ、箱根を走れるんだ、みたいな」
――いきなり山上りで、実際走ってみた感想は?
「沿道からの声援が絶えず続いていましたし、大きな大会なんだと実感しました。私自身、インターハイには出ましたが、全国高校駅伝には出たことがなかったので、正直(応援のすごさに)何が起こったのか分からず戸惑った部分もありました。高校時代までは楽しく走っている感じで競技してきた人間なので、そこに立ったときの衝撃はすごい大きかったのは覚えています」
――結果は、区間14位と苦しい結果になりました。
「当時の出場校は15校、後ろの選手が脱水症状だったから14位になったような感じでしたが、あれだけ走れなかったのは、たぶん緊張していたんだと思います」
――1回走ったら、箱根駅伝への考え方は変わりましたか。2年目はケガで予選会に出場できず、チームも本戦出場を逃しました。
「1回走れてしまったので、今度もスムーズに行けるものなのか、みたいに考えていたのが、2年目の失敗につながったと思います。予選会の厳しさや本戦でシードを取ることの大変さなど全く分からなかったので、2年目以降も普通にやればいけるくらいに感じていました。最初の2年間は、申し訳ないんですけど、遊びの延長のような捉え方でした。ただ、2年目に予選会に出られず、チームも落ちてから意識は変わりました」
――悔しさが沸いてきた。
「今の選手たちにも話すんですけど、2年目の時は、本戦で黄色のジャケットを着て補助員をやったんです。鶴見の中継所(1区→2区)だったと思いますが、日本大の山本佑樹(明治大前駅伝監督)とかが目の前を走っていく。同じ道路にいるのに、同期のライバルが全力で走っていて、自分は補助員で立っている。本当に悔しい思いをしました。競技人生の中で最初の分岐点は、その時だったと思います」
――3、4年時は本戦でエース区間の2区を走り、区間3位、そして区間賞です。
「もう2年生の冬が終わった段階で、自分が2区を絶対走る、それだけの力をつけて、チームを押し上げる。任される、というより自分が走ることしか考えていませんでした」
――3年時は5人抜きを果たして区間3位でした。
「走っていてすごく気持ちよかったですね。2年前の5区では良くなかったですし、私自身、高校時代は県の駅伝大会ではすベて1区でしたので、駅伝で走者を抜く経験がこの時初めてだったからかもしれません」
――4年目は、茶髪にサングラスとその風貌でも目立った1区の徳本一善選手(現・駿河台大監督)が周囲を驚かせる"一人逃げ"で区間賞。タスキをもらった坪田監督も2区で快調な走りを見せて区間賞と、法大が大いにレースを沸かせました。
「正直、徳(本)があんなことをする(スタート直後から一人抜け出しての単独走。レース終盤に後続につかまるリスクのある走り方)とは思っていなかったです。ただ、大会前の雑誌や新聞などの展望記事では、駒大だ、順大だ、といろいろ書いてあるのを見て、くそー、と思い、2人でずっと『絶対やってやろう』と言い合ってはいました。野心しかなかった。徳(本)は12月の調子もすごく良かったので、区間賞を取ると思っていましたし、予想以上のリードを作ってタスキを渡してくれたので、単独走の方が好きな自分としては、すごく走りやすかったです」
――順大や駒大が優勝候補として名前があがる中、相当なインパクトを残したと思いますが、それでも総合10位で当時はシード圏内の9位以内に入れませんでした。
「4区の途中までトップで逃げているのに、シードを落とすか......と(笑)。今だからこそ笑い話にはなりますが」
――当時の法政大はどういう雰囲気だったのですか。
「学生主導で、比較的のんびりしていました。私の前任である成田道彦さんが監督として戻ってこられたのが、私が4年の時でした。それまでの1年半くらいは指導者が不在の状態で主将が練習メニューを作っていたので、3年時の箱根駅伝が終わってからは私が担当しました。今考えると、あと1年ぐらい成田さんが早く戻ってきていたら、最後の年はシード権を取れていたんじゃないかと思います。成田さんがいたことで自分のことだけに集中できたので、区間賞も取れたと思っています。ただ、当時のチームの状況や戦力面からすれば、やるだけのことはやった結果でした。今振り返ると、徳(本)の1区一人逃げのようなことって、その後では2007年の佐藤悠基君(当時・東海大、現・SGホールディングス)くらいしか1区で大逃げした記憶にないので、インパクトは強かったですね」
――大学の4年間は、箱根駅伝とはほど良い距離感を保ちながら過ごせた印象を受けます。
「箱根駅伝は大きい目標ではあれど、チーム内でギスギスした、メンバーが誰になるのかみたいな環境下に私は置かれることはなかったですね。チームとしての目標がありつつ、自分のペースで、自分の力をつけていけた。主将として練習を組み立てる経験も、実業団に入ってからは確実に役に立ったと思います」
【9区まで3位の背中が見えたことが光明】
卒業後は当時、トップレベルの実力者ぞろいのコニカミノルタで競技活動を継続。正月の全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)のみならず、実業団3年目の2003年にはパリ世界選手権10000m日本代表になるなど、日本のトップレベルの選手として活躍した。5年目以降はケガに悩まされたが、現役生活の終盤を迎えていた2010年に母校にコーチとして戻り、2013年から監督を務めている。
――指導者として戻ってきた時のチームの印象はいかがでしたか。
「ずっと実業団の日本一のチームにいたこともあり、競技に対する意識のギャップに衝撃を受けました。当時の法政大は予選会を突破できるかできないかのレベルでしたので、その部分に対応するのに2年くらいかかりました」
――指導面ではいかがですか。
「私も未熟だったので、最初は自分のやってきたことをそのまま練習の内容に反映していたのですが、それが選手に合わずに予選会で大ゴケしました。夏合宿もしっかり走れて9月も調子が良かったのに、10月の予選会では失敗する。そこで、実業団時代のチームメイトで、東洋大の指導者として箱根駅伝で優勝も経験していた酒井俊幸監督にお願いして、8月初旬の合宿に参加させていただきました。そしたら、その時の内容が想像しているよりも負荷が軽かったんです。400mを40本くらいやっているのかと思ったら、400mは10本だけ。その翌日に30km走もやるんですが、ペースはそこまで速くない。酒井監督から『夏には夏の負荷があるから、1年間トータルで考えないとダメなのでは』と言われて、そうだなと。私自身、現役時代は体が強い方だったので、合宿でも初めからガンガン飛ばして、インターバル練習の翌日に30km走を入れるなど平気でやっていたのですが、それが学生には合わなかったことを自覚しました」
――現在の法政大は、シーズン前半にはそれほど記録会や競技会に出ない傾向にありますが、そうした経験が基になっているのですか。
「8月はジョグの延長程度の負荷でやっています。他大学さんと合宿場所が一緒になったりすると、うちは大丈夫かな? と不安になるくらいです。ただ、やはりケガがありますから。それとピークを合わせる観点から見ると、あまり記録を狙うためにいろいろ出ていくわけではありません。もちろん選手の意向を聞いた上で判断しますが、ここ数年でようやく実業団時代にやってきたことも少しずつ反映できる段階に入ってきました。あと帝京大の中野(孝行)監督や麗澤大の山川(達也)監督などいろいろな工夫を凝らして強化に当たっている指導者の方に話を聞いたりしています。私自身、チームが継続して箱根駅伝に出れるようになり、シード争いにも絡めるようになってきたと思いますが、そこに固執しては成長がないという考えがあるからです」
――監督就任から今季で11年目になりますが、指導者として箱根駅伝で記憶に残るシーンはありますか。
「前回大会ですね。9区の地点で3位の背中が見えた光景は忘れられません。青学大の岸本君はあっという間に彼方へといってしまいましたが(笑)、4位グループは集団でした。1区以降は3位の背中が見えない展開でしたので、初めてのことだったんです。トラック種目(5000m、10000m)の自己ベストで見れば、うちは他チームに劣りますし、強豪チームに少しでもミスが出ることが前提になりますが、それでも1年間しっかり準備していけば、強豪校と比べて限られた環境にあるうちのチームでも勝負することができる。そのことは日頃から選手に言い聞かせてきたことですが、実際に上位争いできる可能性があることを証明できた上での総合7位だったと思います」
――東京五輪には3000m障害の青木涼真(現・Honda)、5000mの坂東悠太(現・富士通)の2選手が出場。長距離選手としては法大初のオリンピック代表になりました。
「大学時代は充実した環境ではなかったとも思いますが、本当に頑張ってくれました。彼らのように上を目指す選手もいますが、基本は、しっかりタスキをつないでいくことを中心に指導に当たっています。あと、選手に求めるものはやっぱり『やらされるのではなく、考えてやる』ということです。これは指導者になって以降、ずっと言ってきたことです。選手の方から練習を持ってきなさい、という意味です」
――最後に。昔も今も、変わらない箱根駅伝の魅力とは、どういう部分にあると感じていますか。
「一度離れてから戻ってみると、大きなコンテンツになったなとは感じますが、私のイメージで言うと、走っている選手の姿にすべてが出ているからではないでしょうか。選手一人ひとりがその日まで積み上げてきたものが応援する人たちの目にもはっきりと映し出されていると思いますし、200人以上の走者それぞれに違いがある。もちろんメディアに多く露出していることも大きな要因ですが、陸上競技も駅伝もめちゃくちゃシンプルな競技であることも、そうした個々に魅了されるのではないでしょうか」
●プロフィール
坪田智夫(つぼた・ともお)/1977年6月生まれ。兵庫県出身。神戸甲北高校(兵庫)。法大時代は4年間のうち3回箱根駅伝に出場し(2年時はチームが不出場)、3年時(1999年)、4年時(2000年)はエース区間の2区を任され、それぞれ区間3位、区間賞と存在感を示した。トラック10000mで強さを発揮し、実業団(コニカミノルタ)時代の2002年にはアジア競技大会10000m7位、2003年パリ世界選手権に出場。現役引退後の2010年に母校コーチを経て、2013年4月に監督に就任。以降、2015年の1回を除き、箱根駅伝に出場し、5回のシード権を獲得。指導方針は、精神面の強さを強調するスタイルである一方、学生たちの主体性を重視して指導に当たっている。今年は出雲駅伝9位、全日本大学駅伝への出場は逃したものの、9年連続出場となる箱根駅伝では3年連続のシード権獲得を狙う。