2024年1月2日・3日に第100回大会を迎える箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)。今企画では、かつて選手として箱根路を沸かせ、第100回大会にはシード校の指揮官として箱根路に立つ3人の監督に、あらためて箱根駅伝に対する思いを語っても…

 2024年1月2日・3日に第100回大会を迎える箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)。今企画では、かつて選手として箱根路を沸かせ、第100回大会にはシード校の指揮官として箱根路に立つ3人の監督に、あらためて箱根駅伝に対する思いを語ってもらった。

 第1回は、今季の駅伝シーズンで存在感を増している城西大の櫛部静二・駅伝部監督。1990年代前半に「早稲田大の三羽烏」の一角を形成するトップランナーとして注目を浴び続け、指導者としては2001年創設の新興チームを常連校に押し上げる手腕を発揮。同時にトラック種目におけるトップ選手の育成に力を注ぎ、オリンピックには2大会連続でOB選手を輩出している。櫛部監督にとっての箱根駅伝とは?



2009年より城西大の監督を務める櫛部静二監督 Photo by Makino Yutaka

箱根駅伝を初めて意識した1年目の大失敗

 宇部鴻城高(山口)3年時に3000m障害でインターハイ優勝、高校記録樹立と全国トップクラスの選手だった櫛部静二は、高校生2年生として日本人初の5000m13分台をマークした武井隆次、1500mを得意としていた花田勝彦(現・早稲田大競走部駅伝監督)と共に早稲田大に入学。当時、3人は「早大の三羽烏」と呼ばれ、4年間注目を集め続け、3年時の箱根駅伝では総合優勝を果たした。
 
 だが、櫛部は当初、箱根駅伝を意識して早大に進学したわけではなかった。

――高校時代から全国のトップ選手でしたが、早大に入るきっかけを教えてください。

「エスビー食品の監督を務めていた瀬古(利彦)さんが早大のコーチも兼務することになり、ほかのふたり(花田、武井)も含めて4年間、指導いただけるというのが一番の決め手だったと思います。最初は瀬古さんから『マラソンで世界を目指そう』と言われて、その通過点としてトラック競技、箱根駅伝に取り組んでほしいと。サンショー(3000m障害)は高校の先生に勧められて取り組んでいましたけど、大学では結局2回くらいしか出ませんでした」

――当時、箱根駅伝への意識や印象は?

「正直、全くなかったですね。もちろん、大きな大会であることは知っていましたが、私の地域は電波上、あまりテレビの映りが良くなかったですし(笑)、それほど興味を持っていたわけではありません。もちろん部全体では1年間、箱根駅伝のためにすべてを注ぐ選手の方が多かったことは間違いありません」

――箱根駅伝には4回、出走しました。しかも1年目から、いきなりエース区間の2区を任されました。

「花田、武井、私の3人はそれまでの早大のカラーとは異なるタイプの選手だったとはいえ、チームとしては総合優勝を目標に掲げていました。1年生の時は、花田はまだ適性が1500mから5000m、武井はケガが多く、長い距離(2区は全10区間で最も長い23.1km)に対応できるのが私しかいなかったというチーム事情(高校時代に10000m高校記録29分11秒をマーク)もあり、早くから2区候補に挙がっていました。それでも前向きにというより、無理にやらされているような気持ちで、走るまでは2区がどういう世界なのか、エース区間で2学年上にはオツオリ選手(山梨学院大、1989年から3年連続2区区間賞を獲得)のような強い留学生がいるくらいの認識しかありませんでした」

――本番では区間の終盤に足元がおぼつかないくらい、厳しい状態となりました(区間14位)。

「実際に走って、大失敗して、皆さんの期待を裏切った。そこで初めて多くの人に期待されていたことに気づいたんですね。周りの方やチームメイトにどれだけ支えられていたのかを身に沁みて感じました」

――食当たりが原因だったと言われていますが、どのような経緯だったのでしょう?

「ちょうどレース2日前の大晦日でした。差し入れでいただいていたナマ物を自分だけ食べていなかったので、食べないと失礼だと思い朝食時に食したら、という感じでした。その日の夜にはかなりひどい症状だったので、病院に行って、点滴も打ちました。元旦には調子が戻っていると感じて、レースでも前半から飛ばして行ったのですが、17km、18kmくらいから一気に体調に異変を感じて......その経験からは本当に学びました」

――2年目は同じ2区で区間9位、そして3年目は1区で区間新記録での区間賞を獲得しチームの総合優勝、4年目は9区区間3位でチームは総合2位でした。

「2年目は、1年目の経験を基にしっかり準備していったのですが、私の中ではやはり失敗でした。前年の雪辱を果たそうというプレッシャーがあったのかもしれません。3年目は1区で、4年目はチーム内で花田、2学年下の渡辺康幸(現・住友電工陸上競技部監督)など強い選手がそろい、2区の候補争いが激しくなり、練習で力を使った記憶があります。結果的に9区を任されたのですが、やはり早大は常に総合優勝への期待を寄せられるチームでしたので、区間賞を取らないと失敗という認識でした。中心選手として結果を残さないとチーム成績に影響を与えることを年々、感じていました」

――でも、3年生の時は1区を区間新記録の区間賞で総合優勝に貢献していますが。

「自分のなかでは、それでいい、とは思えなかったんですね」

――それだけ1年目の失敗は大きな経験だった。

「その後、自分が実業団選手として活動していた時にも引きずりました。早大の時の印象もあり多くの方々から応援をいただいていたのですが、時にプレッシャーとなって、なにかうまくいかなくなるとマイナスの方向に考えてしまうような、トラウマ的な出来事にもなりました」

――選手として、箱根駅伝で学んだことは何でしょうか。

「端的に言えば、走るという行為は個人競技だけど、駅伝は団体競技という難しさがあることです。駅伝は走る人間だけじゃなく、応援する方々や走者以外の立場で支えてくれるチームメイトも含めて成り立っている。一方で、一人の成績がチームに大きな影響を与える競技でもある。批判ではなく、日本以外では成り立っていない独特な競技であり、特に将来を嘱望されている選手にとっては、走るというシンプルな競技をより難しいものにする大会でもあったと思います」

世界基準の視点で取り組む選手育成と駅伝強化

 櫛部監督は卒業後、名門・エスビー食品で競技を続けたが、「ずっと走ってきて今のままでいいのか、強いチームゆえにここに居続けていいのかという思いがあった」と98年に退社。その後は競技者としてマラソンに出走しながら、指導者への道を模索し始めた。そして2001年に創部した城西大駅伝部のコーチに就任。2009年からは監督として指揮を執っているが、箱根駅伝には2004年の初出場以降、13年連続を含む計17回の出場で、総合6位の最高順位2回を含む5回のシード権獲得を果たしている。同時に、卒業後も継続して指導した選手が、2大会連続でオリンピック日本代表に名を連ねた。

――指導者の立場となり、箱根駅伝の見方は変わりましたか。

「指導者になってあらためて感じるのは、将来どんな選手になりたいか、そのためにどうすればいいか信念を持つべき、ということです。大学側は当然、箱根駅伝での結果を求めます。一方で、陸上の指導者としてはそれだけを目指していては行き詰まる。そこをうまく連動して考えるようになりました。箱根を含めた駅伝で結果を残さなければ、有望な高校生は来てくれませんし、選手を伸ばしていかなければ駅伝は強くならない。そうした事情から両立できるよう心がけながら指導にあたっています」

――入学してくる選手でも、それぞれ目標は異なると思いますが、その点は選手ごとにアプローチを変えている。

「私自身、特に監督になって以降は、将来的な競技生活を視野に入れている選手たちには、そういう(日本代表レベルの)未来像を想像してもらうことを心がけてきました。その一方で箱根駅伝に競技人生の全てを賭ける選手には、その目標が達成できるように接するようにしています」

――指導し始めた頃と現在では、選手の意識で変わってきている部分はありますか。

「今の選手はトレーニングに関する情報をよく集めていますね。一方で、間違った情報やいろいろ知りすぎて自分のやりたいものばかりに目が行きがちな部分もあります。その部分は私自身も新しい取り組みを学び、選手の指導に当たるようにしています」

――駅伝と個人競技の両立という面では、卒業後も指導をした選手を2大会連続でオリンピック代表に送り出しています(2016年リオ五輪の村山紘太/現・GMOインターネットG、東京五輪の3000m障害の山口浩勢/現・加藤学園高コーチ)。

「そうですね。村山は大学時代から日本選手権5000mで2位に入賞し、アジア大会にも出場していました。あと、ちょうど私が監督になった頃、高橋優太(ヱスビー食品⇒DeNA)が世界ジュニア選手権(現・U20世界選手権)やユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームズ)、日本インカレなどで好成績を残しながら駅伝でも活躍してくれたのはうれしかったですね」

――100年以上の長い歴史の中で、変わらず人々が箱根駅伝に魅了される理由は何だと思いますか。

「メディアへの露出が高くなったこと、高校野球のような学生スポーツであること、母校愛、さらに言うと選手の出身高校の地域性にも波及する魅力があるからだと思います。時代が変わりゆく中で変わらない魅力、また選手にとってもお金では買えないロマンがある」

――一方で、日本代表の国際競争力という視点から見ると、近年では少し変わってきた印象はありますが、箱根駅伝が弊害になっているといった批判もあります。

「特にトップクラスに成長しそうな選手に対しては、そうならないような指導をずっと心がけています。もともと箱根駅伝の創始者である金栗四三さんは当初、アメリカ横断駅伝などの案を立てたように、世界で戦える選手の育成が箱根駅伝の本来の目的です。その本質を忘れないよう、今は世界で戦う前提での箱根駅伝にはなっていないと感じていますので、出場するチームすべてが世界基準を目指す場になってほしいです。オリンピックや世界選手権に学生時代から目指す選手が増えていけば、自然と箱根駅伝自体のレベルも上がっていくはずです。本来の本質を理解し、忘れないようにしなければと思います」

――100回目という節目の大会に出場することについては、どのように捉えていますか。

「100年も続いている大会の節目に、出られるのは純粋にうれしいです。1年前、前回大会の出場権を獲得する前から意識してきました。100回大会に出場することは、それ以降のチームに大きな影響を与えると考えていたので、前回大会は初めて学生たちに『3位以内』という目標を明確に出しました。それに賛同してくれたかどうかわかりませんが、頑張ってくれた結果としてシード権を手に入れられました」

――昨年出走した10人は、全員が3年生以下でした。5区区間賞の山本唯翔選手(4年)、2年目のビクター・キムタイ選手、斎藤将也選手も順調に成長を遂げ、今季は出雲駅伝3位、全日本大学駅伝5位と共にチーム史上最高成績を収め、箱根駅伝でも過去最高成績の6位を上回る成績が期待されています。

「正直、トップクラスの学校と比較すれば、地力(トラック種目を含めた自己ベスト)は劣るかもしれません。でも前回の箱根駅伝では、地力面で強豪校に及ばなくても戦う駅伝を実践できましたし、戦える実感も得ました。選手たちも順調にトレーニングを積んでいますので、昨年以上に戦えると信じています」

PROFILE
櫛部静二(くしべ・せいじ)/1971年11月11日生まれ(52歳)。山口県出身。早大時代には、入学1年目から主力として活躍。箱根駅伝に4回出走し、3年時は1区区間賞の快走を見せ総合優勝、4年時は9区区間3位で総合2位に貢献する。2001年に創部したばかりの城西大のコーチに就任。並行して競技も続けていたが09年から監督となる。選手育成の基本は学生の目的に合わせた指導の中、トラック競技(五輪種目)での競技力向上、また卒業後を見越した指導を心がけ、2016年リオ五輪には村山紘太(10000m)、2021年東京五輪には山口浩勢(3000m障害)と、卒業後も継続して指導にあたっていた選手をオリンピックに2大会連続で輩出している。