2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※ ※ ※ ※パリ五輪を…
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第8回・今井正人(順天堂大―トヨタ自動車九州)前編
今井正人は順天堂大学時代、箱根駅伝に4度出場した
昨年の大阪マラソン・びわ湖毎日マラソン統合大会で6位となり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・2023年秋開催)の出場権を獲得。"ベテラン健在"を示した今井正人(38歳)にとって、五輪への挑戦はパリが最後になるという。前回のMGCは25位に終わったが、来年のMGCには17年間の実業団での経験をベースにどのように立ち向かおうとしているのだろうか。
今井は、福島の原町高校から順天堂大学(以下、順大)に進学するが、そこには明確な理由があった。
「陸上を始めた高校時代の恩師が、順大が4連覇した時に在籍した畑中(良介)先生なのですが、練習の組み立てなどは順大の流れをくんでいたんです。その練習で自分は結果を出せたので、より高いレベルのところに行くというよりは高校の時と変わらない練習のなかでやりたかったんです。それに指導者になりたかったので教員免許を取れること、同年代の長門(俊介・現順大駅伝監督)、清野(純一)、松瀬(元太)ら力のある選手が入学してくるという情報を聞いたのも大きかったですね。みんな全国で活躍していましたが、彼らには絶対に勝つという思いがありました」
箱根駅伝に出走することを目指して入学早々、春から一生懸命に練習に取り組んだ。だが、1年目のトラックシーズンは、思うように結果を出せず、苦しんだ。
「高校時代、自宅から通っていたので、まず寮生活に慣れるのが大変でした。それに順大には全国の高校からキャプテンとかエース級の選手が集まってくるのですが、そういう選手と自分を比較し、意識しすぎてしまっていたんです。走ってもまったく結果が出なくて、7月までは半泣き状態で走っていました」
トラックシーズンは自信を持ってレースに臨むことがなかなかできず、気持ちが空回りして終わった。何の手応えも感じられないまま、焦りだけが募った。そんな時、今井に救いの手を差し伸べてくれたのが、当時、「順大クインテット」と呼ばれていたメンバーのひとりである野口英盛(現積水化学監督)だった。
「自分の自信なさげな雰囲気に気がついたのか、野口さんが部屋に来てくださって、『なんか悩んでいることでもあるの?』『今、どういう感覚で走っているの?』など聞いてくださったんです。いろいろ話をしていくなかで、『自分は自分、という感覚でやってごらん』『集中するところのポイントはこうだよ』とか、いろいろアドバイスをいただいてスッキリしました。それから夏合宿に入ったんですが、自分らしく、地に足がついたなかで練習に集中できました。憧れであり、目標の先輩からアドバイスをいただけたことは、すごく大きな力になりましたね」
箱根5区で3年連続区間賞
夏から猛烈な巻き返しを見せた今井に大きなチャンスが訪れる。当時の順大は4年生が少なく、3年生で箱根のメンバー入りしたのがひとりだけで、2年生と1年生が主力だったが、今井は1年生ながら2区に指名されたのだ。
「指名された時はうれしかったですね。4年間、2区を走れるチャンスを得たと思いましたし、絶対に4年間走り続けるんだと心のなかで決めていました。高校時代、自分は思うようなところ(全国高校駅伝)に行けなかった。でも、順大では全国大会を経験したメンバーのなかで重要な花の2区をまかされたので、他の選手と張り合って、区間賞を獲って力を見せたいという気持ちがすごく強かったです」
今井は、出雲駅伝で駅伝デビューを果たしていたが、1年生ながら箱根の2区に指名された。気持ちが高ぶり、スタートしたが、「雲の上を走っているようで何もつかめない」という状態で10キロが過ぎていった。
「襷をもらったのが18番目ぐらいで、いきなり苦しい展開で......。自分も最初、まったくペースをつかめず、今じゃ信じられないですけど、10キロを29分50秒ぐらいで行ったんです。そこでひとつ順位を落としてしまったので、さすがにこれはダメだと思っていたらそのあたりから上り坂が始まって。権太坂もあり、ようやくしっくりきたなぁと思って走っていたんです。最後の3キロ、前の集団に5、6人いたんで、そこをかわして襷を渡せて少しはインパクトを残せたかなと思いました」
箱根デビューは2区10位という成績ながらラスト3キロの上り坂での走りが評価され、今井は注目されるようになった。当然、2年生になっても2区を走るつもりでいた。しっかりと結果を出し、外れる理由はないと思っていた。ところが2年生の箱根で指名された区間は、5区だった。
「きたか、という感じでしたね(笑)。監督のなかには、1年の時から5区の構想はあったと思います。1年の夏合宿中に上り坂をジョグしていたら澤木(啓祐)総監督が『おまえは5区だ』と言って走り去っていったんですけど、最初は自分に言ったのか、誰に言ったのかわからなかったんです。1年の時に権太坂で平坦を走るような姿を見て、やっぱり5区だなっていう話になったんじゃないかな。もちろん2区じゃない悔しさもありましたけど、せっかく箱根を走るんなら山がおもしろい。ちょうど中間地点で、そこを軸としてしっかり押さえられたらチームはもっと上の順位に行けるんじゃないかと思ったので」
2年時、箱根駅伝の5区、スタートラインに立つ前に周囲をチラッと見ると、残っている選手は5人しかいなかった。「これ(こんなうしろの順位)は、やばいな」と思いつつ、15番目で襷をもらった。快晴のなか、初めて山に入り、今井は前を追った。
「前に人がいたので追いやすかったですね。ひとり抜くごとにあそこまでという感覚を持って攻めることができたし、ずっと平坦な道を走っていくような感覚で走れました。正直、時計を見た時、ボタンを押し忘れたのかな、どっかで止めたのかなと思うぐらいの感覚でしたね。これは、本当に自信になったし、自分がアピールできるポイントが増えたなと思いました」
今井は、11人抜きを実現し、区間新の走りでチームを往路4位に押し上げた。5区を快走し、その名前は一躍、全国区になり、山のスペシャリストとして名を馳せた。だが、この快走がその後の今井を少し苦しめるようになる。
3年時、今井は9月中旬に疲労骨折をし、駅伝シーズンを前に精神的に少し不安定になった。ロードに戻ってきたのは11月、なんとか調整して箱根を迎えた。
「ギリギリ間に合わせたという感じでした。でも、この時、ラッキーだったのは、3年時になって5区の距離が伸びたので、前年度の自分と比較しなくてよくなったことでした。それで肩の力を抜いて走ることができて区間賞が獲れたんだと思います。もし、変わっていなかったら通過ポイントでタイムが出ていないとか、自分の感情として今年は動いていないなと焦っていたと思うんですよ」
4年生になり、主将になった今井は、3年連続で5区を走り、順大の総合優勝に貢献した。4年間で4度箱根を駆けたわけだが、もっとも印象に残る箱根はどのレースだったのだろうか。
「自分のなかできっかけを作ることができたな、一番いい走りができたなと思うのは、2年生の時ですね。でも、一番うれしかったのは4年時の優勝です。レースは、スタートは北村(聡・日体大/現日立女子監督)君と一緒だったこともあり、意識しすぎて前半に力んでしまい、上りで力を使いすぎて......。下りになってからは左のふくらはぎが軽い肉離れになって、全開で下れなかった。前年のケガあがりの状況から25秒しかプラスを出せなかったので個人的な走りはもうひとつでしたけど、優勝はやっぱり全然うれしさが違いました」
3年連続での5区区間賞、4年では区間新を出し今井の走りに日本中が沸いた。そうして、今井は「山の神」という称号を得ることになる。その後、柏原竜二(東洋大)、神野大地(青学大・現セルソース)があとに続き、今井は「初代山の神」として世間に認知されていった。
「『山の神』は、一緒に走った北村君が、そう言ってくれたおかげで、そのように呼ばれるようになっただけで、自分自身は『山の神』だと思ったことはないですね(苦笑)。ただ、そうみなさんに呼ばれ、名前と顔を覚えてもらえたのはよかったですし、北村君からはいまだに『今井さん、感謝してくださいよ』って言われます(笑)。でも、今はもう柏原君や神野君に抜かれているし、それは16年前のこと。『マラソンの今井』『トヨタ自動車九州の今井』ではなく、今も『山の神』と呼ばれ、それを超えられていない悔しさがずっとありました。そういう意味では箱根駅伝は自分にずっと試練を与えてくれているのかなと思います。でも、諦めていません。絶対に『山の神』を超えてやろうと思っています」
「初代・山の神」──。あまりにインパクトが強い名称は、今井の陸上人生に光だけではなく、重たい影も落としてきた。今、今井の視線の先にあるのは、MGCで結果を出し、「マラソンの今井」として力を見せつけることである──。
後編に続く>>「もうマラソンはダメだな」からの復活劇。なぜ引退覚悟のレースで結果を出せたのか