文武両道の裏側 第6回内山咲良(東京大学) 前編陸上女子三段跳の内山咲良選手。現在、東京大学医学部6年生 東京大にひとりのジャンパーがいる。内山咲良、現在医学部6年生だ。昨年9月の日本学生陸上競技対校選手権(インカレ)女子三段跳を制した才媛…
文武両道の裏側 第6回
内山咲良(東京大学) 前編
陸上女子三段跳の内山咲良選手。現在、東京大学医学部6年生
東京大にひとりのジャンパーがいる。内山咲良、現在医学部6年生だ。昨年9月の日本学生陸上競技対校選手権(インカレ)女子三段跳を制した才媛だ。彼女は今、2月の医師国家試験合格と、3度目となる6月の日本選手権出場を見据え、日夜、トレーニングと勉学にいそしんでいる。
神奈川県出身の内山は、筑波大学附属中・同高(東京都文京区)を経て、東京大理科三類に現役で合格した。国内最難関と言われる熾烈な受験に挑みながらも、中学時代に都中学通信の女子走幅跳で入賞し、高校3年の時には同種目で全国高校総体(インターハイ)出場を果たしている。
指折りの国立進学校から最高学府へと進んだ今も、内山はスポーツと学業の両方でトップを走り続けている。連載企画「文武両道の裏側」第6回は、文と武の頂点を極める彼女の真髄に迫ってみたい。
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【文武両道は「ピンとこない」】
ーー昨年のインカレ女子三段跳の優勝は、東大女子選手として初の快挙でした。まさに「文武両道の鑑」だと思います。実際そのように言われることについてどのように感じていますか?
内山咲良(以下、内山) 自分のなかでは文武両道というほどでもないというか、もっと頑張っている人はいっぱいいると思っちゃうんですよ。自分がそうなのか、なかなかピンとこないです。はたして、どちらも極めているんだろうかって。たしかに陸上は頑張ったけれど、とくに勉強のほうは極めているのだろうかみたいな気持ちになったりして、複雑ではあります。
一方で、私にとっては陸上も学業もすごく大事なものではあります。どちらかを先送りにすることなくここまできているところを文武両道って呼んでもらえるのは、ありがたいと受け取っていいのかなって。そういうふうに最近、整理されている感じですね。
ーー自己評価は厳しいようですが、東大医学部に通いながらインカレで勝つのは大変なことだと思います。
内山 大学で陸上を生活の中心にするかどうかは、けっこう迷いがありました。大学入学時に、全学の陸上部(運動会陸上運動部)と医学部の陸上部(鉄門陸上部)の両方に所属してしまった。それがどういうことか、どれくらい大変なことなのかをあんまりわからないままにスタートしてしまいました。結果、部活に取られる時間があまりに長いと感じて。体力も時間も、そんなに労力をかけてまで陸上をする必要はあるのかなって、少し迷っていた時期はありましたね。
ーー体力面と時間のやりくりに悩みながらも、陸上を続けてこられたのはどうしてですか?
内山 大学2年でケガをして、長い期間練習をできない時期があったんです。それが練習を見直す大きなきっかけになった。それまで高校の延長で「根性練」を繰り返していたのを、陸上に重要な体幹に近い筋肉を意識して鍛える練習に変えて、競技力が上がりました。ケガをすごくポジティブに捉えられたのは大きかったですね。
それに、自分が大学生活で本当にやりたかったことって何だったんだろうということを考えるようになって、意識も変わりました。そもそも全学の陸上部に入った理由は、インカレに出たいからだったなと思って。もうそこへ向けて本気にならなきゃいけないって。悩んでいる暇はないというか、しっかり腹を据えなければいけないと思うようになりました。
ーーケガで苦しんだ時期にトレーニングを見直せた、そして入学当初の目標に立ち返れた、と。
内山 はい、インカレで戦いたいという気持ちに素直になれた気がします。陸上について自分は才能ないってずっと思っているんです。最初からできるって人はいないのかもしれないですが、才能がないなりに強い選手に勝ちたいっていう気持ちもあったりして。それがインカレに出たい、東大生という肩書きじゃなくて、ジャンパーとして他大学陸上部と戦いたい気持ちにつながった。それが、続ける理由だったのかなと思います。
【高校時代は「スポ根」部活から塾へ直行】
ーーさかのぼって中学・高校生の頃の陸上に対する気持ちはいかがでしたか?
内山 中学で部活として始めた時は、陸上は今のように大事ではなかったんです。けれど、中学3年時に都大会で思いがけず初入賞できて、もうちょっといけるかもしれないと思って、高校でも続けよう、と。
ーー中学ではどのような環境で練習をしていましたか?
内山 中学は部活にものすごく力を入れているところではなかったんです。たとえば、冬は午後3時半くらいから活動を始めますが、校門が閉まる4時40分には帰らないといけない。追い出されてしまう感じなので、あんまり学校で練習はしていませんでした。放課後は中学1年の時から通っていた英語の塾や、中学2年からは数学のために鉄緑会(東大受験指導専門塾)に行っていました。
ーー高校時代はいかがですか?
内山 高校に入ってからは、週4日しか練習はなかったんですけど、辛い練習をいっぱいやったと思っています。部員が少なかったので、競技特性を考えてっていうよりは、400mを専門とする短長距離の人でも駅伝を走ったし、600m・400m・200m・100mのインターバル走をしたり、いっぱい走れば速くなれるといった考え方でした。「スポ根」ぽい感じでしたね。
ーー顧問の先生が指導を行なっていたのですか?
内山 はい。筑波大で7種競技をされ、日本選手権でも勝っている体育の先生がいらして。ただ、練習内容は自分たちで考えていたんですよね。短長距離を走る人がいっぱいいたので、メニューも過酷なインターバル系になっていったという......。
ーー部員自らメニューを組むのですね。どんなメニューが記憶に残っていますか? 一番きつかったのはどんな練習でしたか?
内山 高校時代、一番きつかったのは夏合宿でやった階段走ですね。クロスカントリーのコースで一直線なんですけど600mからスタートして、50mずつ縮めていく。戻って次は550m、全部あわせると10本くらいで最後は50m走って終わりだったかな。2年生の時には途中で倒れてしまいました。ちょっとつらすぎて。ここで倒れたらやめられるなって思った瞬間、目の前に草があって。「あれっ、なんか無理」ってなったような記憶があります。
ーー400mを専門とする部員が多かったということですが、みんなだいたいこなせるメニューなのですか?
内山 いやぁ、倒れるまでやっている人はいなかったと思います。私は、その前の練習で体が追い込まれすぎてしまっていたかもしれないです。途中で心も折れてしまったような気はします。
ーー高校時代、部活動では辛い練習をこなしながら、勉強はどのようにしていましたか?
内山 受験だけに向けて頑張ろうという学校では明らかになくて、部活をたくさんしてもいいし、本当に自由な校風でした。だから、逆に受験に対してのケアは、もしかしたら学校だけだとちょっと足りない可能性もあるかもしれない。私の周りでも塾に通っている人が大半でしたね。
ーー内山さんも中学時代に引き続き、高校の時も塾に通っていたのですか?
内山 高校2年までは学校の勉強を中心に頑張っていました。塾にも行っていたんですが、宿題の答えを写しちゃったり、あんまり真面目にやっていなくて、学校が8で塾が2くらいのレベルだと思います。ただ中学1年から続けていた英語の塾のほうは割と頑張っていて、高2で英検1級を取りました。
当時は海外で学ぶことに興味があって、留学をしてみたいなと頑張っていました。単純に言えば新しい言葉を学ぶのが好きで、英語にハマっていたというところはありますね。1級を取ったあとは、受験勉強にシフトしようとZ会に。
ーー高校2年で英検1級に合格ですか。恐れ入ります。
内山 それにプラス、高2の冬から理科の1科目を生物に変えたので、生物の塾を増やしたり。高3からは理科と数学を鉄緑会で勉強しました。
ーーそうなるとスケジュールは塾でびっしりですよね。部活が終わってからの塾は、体力的に大変ではなかったですか?
内山 すごく大変でしたね。スケジュールをけっこう考えながら組んでいました。高校の時、部活は5時40分までで、それなりに練習時間を取れたんですけど、2年の冬は確か5時50分過ぎの電車に乗らないと塾に間に合わなくて。そうすると、練習でサーキットトレーニングや筋トレをガンガンやって、もう休む暇もなく、Tシャツだけ着替えて塾に行くみたいな日々でした。
【不器用で負けず嫌いな人間】
ーー部活にのめり込んでいても受験への情熱は揺らぎそうにないですね。その反面、陸上を続けることへの両親や周囲の反対はなかったのでしょうか?
内山 その頃、両親はスポーツに対して特別な思いはなかったように思います。父は柔道やバスケをしていたらしいんですけど、母は別にスポーツが好きでも何でもなくて。私自身も陸上を始めた時に、こういうふうに続けるとは思っていなかったです。なので、高校で陸上をしている時は、母から「別に全国大会で優勝するわけじゃないんだからほどほどでやめてもいいんじゃないの」って言われたりしたことはありましたね。それでも陸上が自分のなかですごく大事になっていくにつれて、両親もだんだん理解を示してくれるようになっていったところはあります。
ーー話をうかがっていて、頑張り方がすごいと感じます。その原動力はどこからきているのでしょうか? 小さい頃は、どんな子どもでしたか?
内山 小学校の時は、負けず嫌いという言葉が一番しっくりくるかなと思います。わりと不器用なところがあって、最初からはあんまりできないというか。できないことがいっぱいあるほうでした。それが悔しくって、できるようになりたいと思って頑張っていました。
塾に通い始めてからは、テストの点が悪かったらすごく悔しくて頑張りました。でも、頑張ってある程度いいところまでいけても、一番を取れない。なので、自分はきっとそういう人間なんだなって思うようになっていきました。
一番を取れるような人間じゃない、才能ある人には勝てないかもしれない、けれど努力でいけるところまでは到達できるかもしれないと、小学5年、6年くらいで考えていましたね。
【陸上は「変化を恐れない」、勉強は「続ける」のが大事】
ーーその後、陸上でも学業においても、心折れずに成績を伸ばしてきました。勉強や陸上に臨むにあたって、大切にしてきたことはありますか?
内山 陸上に関して言えば、変化を恐れなかったのが大きかったと思っています。練習法は高校時代にやっていた内容とはかなり変えていますし、そもそも走幅跳から三段跳に競技を変えました。そういうところの決断を、要所でしっかりできました。
それまでの方法でうまくいかなかった時に、変えるって怖いことじゃないですか。失敗しちゃうかもしれないので。私はそういう時でも、失敗するかもしれないけれど、このまま同じことをして下がるくらいだったら、失敗してもいいから変えてみたほうが前に進めるというふうに思うんです。変化を恐れずにやりたいって思い続けるというのが、大事にしてきたことなのかなと思います。
ーー勉強のほうではどうでしょうか?
内山 勉強と陸上のつながりは、自分のなかでちょっと見えないです。競技面ではいろいろと冒険しているんですが、勉強では冒険をあんまりしてない。むしろ、勉強するうえで大事なのは続けることだと思っています。
たとえば、計画を立てるとしたら、「きょう1000問解きます」と言って、1000問解けなかったら失敗になってしまう。そういうふうではなく、ある程度の遊びを持たせながら計画を立てるようにしています。
何があっても絶対にこなせる量を設定して、そのうえで、もしできたらこれをやろうという感じで。量がかっちりと決まっている内容よりは、やればやるほどいいみたいなものを入れておくのがいいと思います。
ーー計画に余裕を持たせておく、と。
内山 そうですね。必ずできる範囲を終わらせたあとに余力で取りかかるものについては、解く問題の数などを決めておかない。1問でもいいし、10問でもいい。その時に残っている力や時間でできることをする。そういうふうにうまいこと、自分が続けられる方法を模索するっていうところですかね。
ーー内山さんはどのようにしてその取り組み方にいきついたのでしょうか?
内山 誰かの方法をマネしたというよりは、自分で自分ができる方法を見つけてきたというのが近いような気がします。大学2年で疲労骨折した時、自分のなかでいろいろと無理をしすぎていたなって反省もしたので。
そのなかで、無理をして壊れるよりは続けられる方法で、毎回100%まで自分を追い込めてなくても、9割でやめて次の日も9割できるんだったらそのほうがいいよね、と思うようになりました。
ーー大学時代のケガをきっかけに無理をしすぎない境地に至ったのですね。では、高校生で受験を控えた頃というのは?
内山 やっぱり受験が近づけば近づくほど、特に高校3年の時は、100%頑張っていたと思います。その時は本当に必死だったからですかね。やっぱり自分が明らかに(勉強が)遅れていると思ったので、このままだと絶対に落ちると、すごく頑張りました。
ーーそれでもインターハイに出場したあと、現役で最難関の理三に合格するというのは驚きです。自身の進路に対して必死になれたのは、なぜですか?
内山 確かに、なんでそんなに頑張ったんだろう。不思議ですよね。高校3年が始まる時に、自分のなかで覚悟を決めていた部分があった気はします。インターハイに出たいって。本気で目指したい、と。でも、インターハイに出ても大学に落ちたらなんかカッコ悪いと思っちゃって。両方やりきることが、すごくこだわりとしてあった。そのこだわりを貫き通したっていうのが高3だったような気がします。
ーーカッコよくありたい、と。
内山 誰もやったことがないことをしてみせたい、みたいなところはありました。
(後編につづく)
<profile>
内山咲良 うちやま・さくら
1997年、神奈川県生まれ。東京大医学部医学科6年。筑波大附属中・高を経て、2016年に東京大理科3類に現役合格。陸上競技は中学時代からスタートし、高校3年時には走幅跳で全国高校総体(インターハイ)出場。大学入学後に三段跳を始め、昨年9月の日本学生対校選手権(インカレ)女子三段跳で自己新記録13m02を出して優勝した。