「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#84「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信す…

「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#84

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。今回は陸上男子400メートルリレーで代表に選ばれたデーデー・ブルーノ(東海大)を育てた恩師の指導論。惜しくも出番はなかったものの、本格的に陸上を始めてわずか5年で代表入りした急成長ぶりは将来の活躍に大きな期待を抱かせた。恩師で松本国際高(長野)陸上部の山﨑豊茂顧問に当時の育成法を聞いた。(取材・文=THE ANSWER編集部)

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 金メダルが期待された400メートルリレー決勝は、まさかの結末になった。日本は1走の多田修平(住友電工)と2走の山縣亮太(セイコー)の間でバトンがつながらず、途中棄権。桐生祥秀(日本生命)、小池祐貴(住友電工)に回ることなく、無念の終戦となった。

 その様子を、スタンドで見つめていたのがブルーノだった。ナイジェリア人の父と日本人の母を持つ。6月の日本選手権では100メートル、200メートルともに2位。特に100メートルでは桐生や山縣を抑える健闘ぶりで、陸上界の新星としてその名を轟かせた。

ブルーノは創造学園高(現松本国際高)1年までサッカー部に所属。秋口に退部し、2年生から陸上部の門をたたいた。最初は陸上部の生徒から紹介を受けたが、山﨑監督は拒否。4月になって、ブルーノ自身が希望してきたため、受け入れた。

 そのときブルーノは「友達と一緒に部活やりたいです」と話していた。全国大会どころか、県大会も夢のまた夢。山﨑監督はサッカー部を辞めたブルーノに、空白期間があることを考慮し、「半年、スポーツをやっていなかったので、のんびりやろう」と声をかけた。

 サッカースパイクしか持っていなかったブルーノに、陸上の基礎を教えることからスタート。競技で結果を出すよりも、残り2年間、最後までやり遂げることをまずは目標に据えた。陸上のイロハを同級生や先輩を通じて教えさせ、早く部活になじんでもらうことを心掛けた。

 指導を押し付けることはなかった。山﨑監督の指導法はおおらかで、褒めて伸ばすことが根幹にある。尊敬する指導者は、シドニー五輪金メダルの高橋尚子氏を育てた同じ千葉出身の小出義雄さんだった。

「小出さんの本を何冊も読んでいて、すごく憧れましたね。小出さんが『自分は選手としては全然だったけど、選手にはすごい可能性があって、褒めれば伸びる、強くなる』とコメントを残していたときに、すごいいい言葉だな、褒められた人間はやる気になるよなと思っていました」

選手としては補欠、それでも陸上を続けてこられた理由は

 自身も長距離の選手だった山﨑監督も、高校時代、大学時代ともに胸を張れる成績ではなかったという。小出さんに重ねる部分があった。

「高校時代は2軍みたいな選手だったんです。八千代松陰(千葉)で長距離をやっていました。10人目の選手でした。駅伝は7人ですよね。レギュラーじゃなかったんです。国学院大では30人、40人いたら、後ろから3人目か4人目。一番後ろかな? というくらい遅かった」

 それでも、陸上を続けることができ、指導者になったのは、当時の恩師の支えがあったからだ。

「高校のときの先生も大学の先生も監督も、誰も『おまえ遅いから部活やめろ』とか『マネジャーやれ』とか言わなかった。最後まで面倒を見てもらった。そんな私からすると、陸上をやりたくてやっているなら高校時代はやらせてあげたい。そういう子たちの可能性を広げてあげるのが私の仕事であり、私の役目だと思いました」

 さらに、松本に赴任したときに苦い経験があった。血気盛んだった山﨑監督は、陸上部を指導するや、いきなり失敗してしまう。

「みんな陸上をやりたいと言って陸上部に来たわけじゃないですか。でも、私が長距離しか知らないから、じゃあみんな10周走れってやらせたんです。そしたら……みんな辞めますよね。先生としてもそのときは素人でした」

 このとき、残った部員は1人だけ。「その1人が残ってくれたおかげで今がある」。自らも挫折を経験した山﨑監督との出会いが、サッカーで目標を失ったブルーノのわずかな可能性に光を当てたのかもしれない。

 ブルーノが課題に向き合い、やる気を見せれば、全力で後押しした。専門外の短距離のことは他校の指導者にも助言を仰ぎ、ブルーノに落とし込んだ。すべてを詰め込もうとせず、長所を伸ばし、伸びしろを残した。サッカーで挫折したブルーノは陸上の楽しさに気づき、日々の努力が結果に結びつくことを学んでいった。

 ブルーノは、東海大進学後、松本国際高の後輩たちに、次のようなメッセージを送っている。

「開花したのは父がナイジェリア人だから」の声を恩師は否定

「顧問の先生からの『苦しくなってから勝負だ』という言葉は今でも自分を励ましてくれます」

 この言葉は、山﨑監督自身の座右の銘。父から教えてもらった言葉だった。「苦しくなってないときは勝負でもなんでもないよ。苦しくなったときにようやく自分がその舞台に立った、本当に戦う場面になってくるよ」。ブルーノの素直な心に響き、ひと回りもふた回りも成長する原動力になった。

 ブルーノの父はナイジェリア人。陸上で開花したのは父譲りの身体能力という声に、山﨑監督は反発する。

「みなさんいかに彼が身体能力でやっているかという話になっちゃう。でも、そうじゃないんですよ。彼のすごさはその劣等感というか、諦めたことを、何かに挫折したことをハネ返してきたことが強さじゃないかな。

 サッカーをやって全然ダメだった。サッカーの技術なのか、人間関係なのか、それは聞けない。でも、ブルーノは陸上に救われ、友達に救われた。ずっと続けていたスポーツで挫折したってハネ返すことができる、人生変わることができるとは私は思っている」

 実は松本国際高では、競技変更によって思わぬ好成績を出した生徒はほかにもいる。

「種目さえ変えれば、こっちがびっくりするような結果を出す子がいるんです。ブルーノと同級生で、野球部を辞めてやり投げをやったらインターハイに行った子がいる。女の子で100メートルをやらせたんですけど、うまくいかないなと思ってハンマー投げに転向したら県2位の成績を挙げた子がいる。そう思うと、いろんな可能性があるんです」

 彗星のごとく現れ、陸上界のスター候補生になったブルーノ。東京五輪で走ることができなかった悔しさをぶつける舞台は、また訪れる。(THE ANSWER編集部)