北口榛花は、指導者不在の大学2〜3年は苦しみながら技術の探究に努めた photo by YUTAKA/AFLO 女子やり投で日本の投てき種目、フィールド種目で歴史的偉業を次々と成し遂げ続けている北口榛花(JAL)。昨年のブダペスト世界陸上選…


北口榛花は、指導者不在の大学2〜3年は苦しみながら技術の探究に努めた

 photo by YUTAKA/AFLO

 女子やり投で日本の投てき種目、フィールド種目で歴史的偉業を次々と成し遂げ続けている北口榛花(JAL)。昨年のブダペスト世界陸上選手権で初の金メダリスト、世界の強豪が集うダイヤモンドリーグの年間女王となり、記録面でもシーズン世界ランキング1位と文字どおり世界のトップスロワーに。そして迎えるパリ五輪では金メダル獲得に向け、自他ともに大きな期待を寄せている。5回に渡り、その北口の成長を直近で見てきた人たちの証言をもとに、これまでの歩みを振り返っていく今連載。

 第3回は北口が日大進学後、主に記録が伸び悩んだ大学2・3年時について、恩師、同学年のライバルの視点から振り返る。

「北口榛花」目撃者たちの証言 第3回

第1回〉〉〉「やり投」に誘った高校時代の恩師の指導と「最初の約束」とは
第2回〉〉〉高3で「世界一」へ飛躍 恩師、ライバルが見た衝撃の潜在能力

【リオ五輪出場を逃すも海外で北口らしさを発揮】

 北口は進学先に日大を選んだ。男子ではインカレ総合優勝争いの常連チームだが、女子のトップ選手はほとんど所属していない。インカレの対校得点争いをベースに競技生活を送るのではなく、世界だけを見て成長の歩みを進める道を選んだ。

 当時の日大コーチングスタッフのひとりは、「男子のなかで練習していれば、それは外国に行ってやっているようなものです。自分より強い選手たちと常に練習しているのですから、感覚も意識も女子レベルではなくなっていく」と話す。

 実際、入学直後の2016年5月の関東インカレには出場せず、4月の織田記念、5月のゴールデングランプリと、リオ五輪の選考競技会への出場を優先した。どちらもリオ五輪代表となる海老原有希に敗れたが、織田記念は1m65差、ゴールデングランプリは75cm差と好勝負を演じた。

 自己記録もゴールデングランプリで61m38と2m48も更新し、リオ五輪参加標準記録の62m00に迫った。北口の高校時代からの同級生ライバル、山下実花子はテレビでその北口のパフォーマンスを見ていたが「鳥肌が立った」と言う。高校を卒業して1カ月ちょっとの選手が61m台を投げたことは、やり投の女子選手にとっては衝撃だった。

 その後の北口はヒジを痛めて苦しんだが、7月に地元・北海道で行なわれた南部忠平記念でも、60m84と自己2番目の好記録で優勝した。北海道の試合ということで、北口の旭川東高時代の恩師、松橋昌巳氏もその様子を近くで見守っていた。

「前年58m台だった高校生がオリンピックを目指すこと自体、普通では考えられないこと。悔しさもあったかもしれませんが、それほど落ち込んだ様子はなかったですね。ただ、南部記念でヒジを悪化させてしまったんです」

 南部記念の9日後にはポーランドで開催された世界ジュニア選手権(現・U20世界選手権)に出場。予選は56m16でB組1位、予選全体でも3番目の記録で通過した。しかし決勝は52m15で8位。かろうじて入賞したが、本来のパフォーマンスは影を潜め、54m89で6位だった山下にも初めて敗れた。

 山下は世界で戦えたことと、初めて北口に勝ったことがうれしく、自信になった試合ではあった。だがそれよりも、北口の海外での食事の摂り方、審判や招集所の競技役員に話しかける様子に感銘を受けた。

「私は何を食べていいかわからず迷っていましたが、北口さんは火を通したモノを選んだり、体力を落とさないために、食べられるときに食べておこうとしたりしていました。慣れない外国でも役員と積極的にコミュニケーションをとり、競技しやすい環境で試合を進めようとしていました」

 前年の世界ユース選手権(U18世界選手権)で金メダルを取っていたとはいえ、海外で力を発揮するための行動が大学1年時に普通にできていた。競技成績がよくないなかでも、国際大会で期待できる選手であることを示していたのである。

【普通にできていたことができなかった大学2年時】

 しかし、北口が大学2年の時、日大のやり投コーチが辞職してしまい、コーチ不在が北口の成績に影を落とす。北口自身にもケガや体重管理の失敗などの理由はあったが、2年時、3年時と自己記録を更新できなかった。

 2年時(17年)は世界陸上代表入りを逃したが、学生の世界大会であるユニバーシアード(8月、台北開催)に出場した。しかし56m30の10位で入賞もならず。斉藤真理菜が62m37の自己新で2位。斉藤は同年の世界陸上ロンドンにも出場し、学生第一人者のポジションを固めつつあった。

 コーチがいなかったため、台北には松橋氏がコーチ役として帯同した。

「調子自体は悪くなかったのですが、試合で力を出すという、高校時代は普通にできていたことができなくなっていた。本人は、毎日見てくれるコーチがいないことへの不安を口にしていました。斉藤さんをはじめとするライバルたちは、投てきの専門のコーチがしっかりと見ていましたから」

 それでも9月の日本インカレ(学生選手権)は優勝した。斉藤が2回目の60m24でリードし、山下が3回目の57m11で2位につけていた。北口は3回目終了時点では53m06の5位と振るわなかったが、5回目に58m54で2位に上がると、最終6回目に60m49を投げ、斉藤を逆転した。10月の国体も5回目の61m07で、山下を逆転して優勝している。

 山下はその頃の北口を振り返り、「助走が投げにつながるようになっている」と感じていた。

「単純に見て助走距離が伸びていました。やりの引き方を変えたり、試行錯誤をしたりしていることが見ていてわかりました。自分が目指すものを見据えて、リスクを負ってでも変化を怖れず行動できる。その姿勢が今の北口選手の強さにつながっています」

 北口本人にとっては納得できるシーズンではなかったかもしれないが、苦しみながらも技術を追求し続ける姿勢が、その後につながるシーズンとなった。

【周りが「声もかけづらかった」という大学3年時】

 大学2年時は記録的に見ても60m台を2試合で投げ、客観的には低迷とは言えなかった。しかし大学3年時(18年)6月の日本選手権は、最悪とも言える結果だった。49m58で12位。斉藤の優勝記録は60m79だったので、気象条件が悪かったわけではない。

 松橋氏は「心の問題。自分の不安との戦いだったと思う」という見方をしている。

「男子は指導者がいなくても平気な選手が多いけど、女子はいないと不安になる。実際、ちょっと何か歯車が狂った時、しっかり見てくれる指導者がいれば、修正してもらえることもある」

 2年時のユニバーシアード前後は、松橋氏がその役割を果たした。3年時は何人かのやり投指導者とコンタクトしたが、北口にピンとくるものがないことが多く、師弟関係が成立しなかった。その頃から、自身の投てきにプラスとなる指導者を見つけたい気持ちが強かったのだろう。

 日本選手権前には食事がとれなくなり、体重が5キロも激減した。当時の北口が悩んでいた様子は、ライバルの山下にもわかるほどだった。

「ヒジにサポーターを巻いていることもありましたし、調子が悪いんだ、と誰もが感じていたと思います。基本的にフレンドリーで話しかけやすい選手ですが、その頃は声もかけづらかったですね」

 9月の日本インカレは60m48で、前年に続いて優勝した。山下が指摘したように技術的な部分で、手応えを感じられていたのかもしれないが、精神面が日本選手権の頃より落ち着いていたのは間違いない。一番辛かった3年時のシーズン前半を終え、シーズン後半には2~3年時に記録を伸ばせなかったことを、冷静に分析することができていた。

【指導者に頼らないアスリートに】

 大学2~3年時の低迷を反省し、北口は3年のシーズン後にふたつのことに取り組んだ。

 ひとつは下半身のトレーニングに、それまで以上に力を入れること、そして自分に合った指導者を探すことだ。

 オフに入ると北口は、混成ブロックで練習を始めた。選手は男子ばかりである。1、2年時にも日大コーチ陣から提案されていたが、北口自身が「逃げ回っていた」。北口にとっては脚の動きをスムーズに行なう目的で、「20種目くらい」をサーキット形式で行なうトレーニングなどを行ない始めた。

「自分の(武器である)振り切りに頼ると限界がある。上半身だけでなく、下半身も使えるようにしたい」(北口)

 山下が感じたように、北口はその部分を試行錯誤していた。だがそのための下半身のトレーニングは、そこまで積極的に行なわなかった。北口自身は「笑ってごまかせなくなった」と冗談を交えて説明したが、2シーズン記録が伸びなかったことで、そこに取り組む覚悟を固められた。

 指導者探しは、運命的な出会いがあった。現在もコーチを務めるチェコ人のデイビッド・セケラック氏と、11月に交流することができた。出会いについては次回連載で詳述するが、北口は指導者との関係性について松橋氏と話していたことがあるという。

「北口は毎日見てくれるコーチがいなくても、ちゃんとやらなければいけない、ということをまず決めたのだと思う。大学2年、3年とうまくいかないことが続き、自立することが大前提だという考えをまず持ったと思います。それでもひとりでやっていくのでは難しい部分があると判断し、世界トップクラスの技術やトレーニングなどの部分をチェコのコーチに頼る形で行ったのでしょう」

 大学3年のシーズン後、いよいよ、北口が自立したアスリートなって世界へのステップを上がり始める。

つづく