今年3月のびわ湖毎日マラソンに続き、12月5日の福岡国際マラソンも第75回大会で、その長い歴史の幕を閉じる。12月開催で平坦コースだったこともあり記録が出やすい大会で、世界選手権が開催される前の東西冷戦時代には"事実上の世界一決定戦"とも…

 今年3月のびわ湖毎日マラソンに続き、12月5日の福岡国際マラソンも第75回大会で、その長い歴史の幕を閉じる。12月開催で平坦コースだったこともあり記録が出やすい大会で、世界選手権が開催される前の東西冷戦時代には"事実上の世界一決定戦"とも言われていた。



2000年のシドニー五輪に出場できなかった悔しさを福岡にぶつけて優勝をした藤田敦史

 1967年には世界最高記録を2分23秒更新する、初の2時間10分を突破する2時間09分36秒4をデレク・クレイトン(オーストラリア)がこの大会で叩き出している。

 その長い歴史の中でも強烈な印象として残っているのは、"日本男子マラソン最強時代"を作りあげた瀬古利彦と宗茂・猛兄弟たちの熾烈な優勝争いだ。その幕開けとなったのは1978年。

 1966年に大会名が「国際マラソン選手権」と変更になって以来、日本人の優勝は1970年の宇佐美彰朗のみのなか、3回目のマラソンだった当時大学3年の瀬古が優勝、喜多秀喜が2位、宗茂が3位と表彰台を独占したのだ。

 翌1979年は、1980年モスクワ五輪の代表選考も兼ねた大会で、そこにかける瀬古と宗兄弟の競り合いは熾烈だった。持ちタイム最高記録は1978年2月の別府大分毎日マラソンで、当時世界歴代2位だった2時間09分05秒6を出していた茂だった。

 1978年は瀬古に敗れたとはいえ、最初から5km15分10秒前後のハイペースで突っ走り、中間点は1時間04分12秒で通過。35km過ぎまで先頭を守っていた。

 だが、1979年は5km15分30秒程度のスローペースに。茂は「あの時は体調が悪かったので、自分が突っ走る印象を利用し、スタート直後に先頭に立ってからスローペースの展開に持ち込んだ」と明かす。

 その作戦はハマった。30kmから再びペースを上げると、35kmすぎにはペース展開についていけなくなった日本勢が後退し、40km通過は瀬古、宗兄弟、バニー・フォード(イギリス)の4人に。そこから猛がスパートして10mほど差をつけたものの、それ以上は離せない。35kmくらいからきつかったという瀬古は、「そのスパートにはつけなかった」と振り返ったが、先頭の猛が後ろを振り向いたのを見たことで、「疲れているのかもしれない」と、気持ちは切れなかった。

 猛が振り向いたのは、後ろに下がった茂の姿を確認したかったからだ。その視線に応えるかのように、瀬古の後ろにいた茂は猛に追いつき、ふたりの並走に持ち込んだ。

 しかし、ともにそれ以上ペースは上げられず、瀬古との差は10mほどのまま。そしてジワジワ距離を詰めてきた瀬古は、ラスト200mでスパートかけた。先頭に立ち2時間10分35秒でゴール。茂が2秒差で続き、猛は5秒差。最後まで競り合って表彰台を独占した3人は、そのままモスクワ五輪代表に選ばれた。

 出場すれば表彰台独占も可能だったと思われるモスクワ五輪は、日本のボイコットにより出場できなかった。だが、モスクワ大会で五輪連覇を果たしたワルデマー・チェルピンスキー(ドイツ民主共和国)を迎えた1980年の福岡国際で、3連覇を果たした瀬古が猛とともに2時間9分台を出し、伊藤国光が3位、茂は5位と日本勢が五輪王者を退けた。

 さらにロサンゼルス五輪代表選考会を兼ねた1983年では、ジュマ・イカンガー(タンザニア)と競り合った瀬古が2時間08分38秒で優勝し、茂と猛は2時間9分11秒と17秒で3位と4位に入り、再び3人が五輪代表になった。この大会でデッドヒートを繰り広げる3人から目が離せなかった。

 2つ目に記憶に残っているのは、翌年のソウル五輪代表選考を兼ねる1987年の大会だ。優勝した中山竹通が氷雨の降る中で、ただ1人突っ走った姿は鮮烈だった。

 当時は、「五輪代表をこのレース一発で決める」という暗黙の了解があった時代。しかし1987年大会で、その「福岡一発勝負」が揺らいだ。有力候補だった瀬古が左足腓骨の剥離骨折で欠場したのだ。

 無名のサイモン(タンザニア)が、最初の5kmを14分30秒という超ハイペースで飛び出した。中山は追走集団を先頭で引っ張って14分35秒で通過すると、そこからの5kmは14分30秒でカバーしてサイモンに迫る。それに続く選手は日本人4人を含めて5人のみになったが、中山がそのハイペースを維持すると、徐々に離れていき、14kmでサイモンを突き放して完全な独走状態を作った。

 中間点通過は1時間01分55秒。当時の世界最高記録だったカルロス・ロペス(ポルトガル)の通過タイムを上回っていた。ちなみに2021年2月に2時間04分56秒の日本記録を出した鈴木健吾の通過タイムは、その時の中山より41秒遅い1時間02分36秒。ペースメーカーがついていない当時で、その走りは今考えても驚異的だ。

 並走する報道バスから見える、順位が落ちてきた選手たちは、みぞれ混じりの冷たい雨に打たれて疲労感を纏(まと)っていた。そんな彼らを尻目に中山の走りは、出場しなかった瀬古に自分の強さを見せつけんとする気迫さえ感じさせるものだった。

 しかし、徐々に冷たい雨は中山の体力を奪っていく。それでも35kmまでは15分10秒台から15分22秒までのペースを維持し、35km通過は世界最高より49秒速いタイムだった。スタート時よりさらに気温も下がって5度を下回ると力尽き、35~40kmは16分20秒にタイムを落とし、世界最高の夢は消えた。

 それでも中山は1985年に出していた自己記録に3秒まで迫り、当時の世界歴代12位に相当する2時間08分18秒でゴール。伝説と言える圧巻の走りを見せた。
 
 森下広一が銀メダルを獲得し、3選手全員が8位以内だった92年バルセロナ五輪以降は低迷期に入り、福岡でも1991年の森田修一以来、日本人選手の優勝者を出せていなかった。

 しかし、1999年9月に初の2時間6分台(2時間06分57秒)を出した犬伏孝行がその厚い世界の壁を切り崩し、変化が起き始めていた2000年。シドニー五輪代表を逃していた藤田敦史が、2時間06分51秒の日本新で9年ぶりの日本人優勝を果たしたレースは、その強さを見せつけるものだった。

 ペースメーカーが最初の5kmを14分54秒で入り、その後の20kmまでは15分0秒台で引っ張って中間点通過は1時間03分28秒だった。参加選手は前年優勝で、シドニー五輪王者のゲザハン・アベラ(エチオピア/01、02年も優勝)のほか、前世界記録保持者のロナウド・ダ・コスタ(ブラジル)や、ゲート・タイス(南アフリカ)、フレッド・キプロプ(ケニア)、李鳳柱(韓国)など、錚々たる顔ぶれだった。

 だが藤田は、そんな選手たちにも臆することはなかった。25kmをすぎて15分10秒台のペースを維持するなか、28kmすぎの給水でペースアップすると、5人の集団をアベラとタイスの3人に絞り込んだ。そして31km手前でタイスが遅れてアベラと一騎打ちになると、1km3分ペースを維持しながら、なかなか前に出ようとしないアベラを牽制して蛇行したり、33kmすぎには一瞬止まって、アベラを前に出すような走りもした。

 そんなレースが動いたのは37.5kmだった。なかなか前に出ようとしないアベラが藤田に近寄ってくると肘が当たった。「『なんだ?』と思ったけど、その途端に後ろに下がったので、きついからペースを落とすためにぶつかってきたんだと思った」と話す藤田は、アベラが遅れ始めたのを確認して35.8kmからスパートをかけた。そこからの100mで一気に4秒差まで広げると勝負をつけた。

 藤田が"勝つためのマラソン"と考えていたのは、終盤勝負のスタイル。「自分はラスト100mで勝負する瀬古さんのようなレースをしていたら絶対に負けてしまう。それで勝つために考えたのが、ラスト5kmからのロングスパートだった」と話す。

 どのレースを見ても日本人選手は、35~40kmが15分台中盤以降に落ちてしまっている。「日本人が勝つためにはそこのペースを上げること。その区間やラスト37kmからの5kmを14分台に上げれば勝てるだろう」と考えた。

 そんなマラソンを作り上げて実践したのが福岡だった。40kmまでを14分44秒に上げてアベラを完全に振り切ると、ラストの2.195kmは6分23秒でカバー。同年世界ランキング2位で世界歴代11位の記録で初優勝をもぎ取った。

「シドニーに出られなかった悔しさを、この福岡にぶつけるんだという気持ちで走った。それにシドニーでは日本勢は振るわなかっただけに、このチャンスを絶対にものにしたいと思っていた」

 こう言って笑顔になった藤田が見せたのは、圧倒的な強さを持つマラソンだった。

 長年続いてきた大会が終わっていくのは寂しいことだが、最後の福岡国際マラソンで、どんなレースが見られるのか。しっかりと目に焼きつけたい。