ついに、東京六大学野球に帰ってきた応援団。9月19日。曇り空の下、開幕を迎えた秋季リーグ戦において舞台を通常の応援席から外野席に移し、グラウンドの選手に熱いエールを届けている。なかでも、強い想いとともに声を枯らす1人の応援部員がいる。 …

 ついに、東京六大学野球に帰ってきた応援団。9月19日。曇り空の下、開幕を迎えた秋季リーグ戦において舞台を通常の応援席から外野席に移し、グラウンドの選手に熱いエールを届けている。なかでも、強い想いとともに声を枯らす1人の応援部員がいる。

「私たちは応援のプロとして、野球部を勝たせるために神宮に伺っている。せっかく、このような状況でいただいた応援の機会。野球部も大変な状況を乗り越え、頑張っている。なんとしても、この秋に勝利の喜びを分かち合いたいです」

 こう語ったのは、東京大学運動会応援部の菅沼修祐さん(4年)。終戦からまもない1947年に創部、74年という歴史ある部を率いる主将として、未曾有の感染症を経た“特別な秋”を過ごしている。
 

秋のリーグ戦で外野席から声援を送る東大応援部主将・菅沼修祐さん【写真提供:東京大学運動会応援部】

 一度は諦めかけた舞台だった。

 新型コロナウイルス感染拡大により、春から活動を自粛。「正直、これからどうすればいいのか」と、先が見えない状況に漠然とした不安が覆った。春季リーグ戦は8月に行われたが、応援団の活動は認められず。一般客として足を運んだ神宮で見た光景は歯がゆかった。

「心にぽっかりと穴が開いた気分でした。いつもはここで『不死鳥』が流れたんだろうなとか、劣勢の時はこうやって応援席を盛り上げられたんだろうなとか、感じてしまって。仕方ないこととはいえ、やっぱり少し寂しさはありました」

 それでも、応援部としての矜持があった。「応援部は“応援のプロフェッショナル”である。呼ばれたら常にパフォーマンスをする団体。チアリーダーならダンスなり、リーダーならテクなり、プロとして自制心を持って『準備を怠らないように』と部員に言い続けてきました」と振り返る。

 リーダー、チアリーダーズ、吹奏楽団の3部それぞれが工夫してオンラインで練習を重ね、8月から対面での練習もできるようになった。そして、東京六大学応援団連盟で今年の当番校を務める早大応援部の尽力もあり、秋のリーグ戦で“復活”が決まったのは同月下旬のこと。

「このような状況で応援を許していただいたことが本当にありがたく、関係者の方に感謝したいです」と菅沼さん。開幕戦となった19日の法大戦は左翼席から。試合前に幹部が下級生にゲキを飛ばす「全体集合」で訓示した。

「改めて、神宮球場で応援できることを誇りに思おう。物理的な距離が空いたとしても、今の神宮で声を出して応援できるのは応援部だけ、我々しかいないので。精いっぱいの声を出して、選手に想いを届けよう」

 例年通りとはいかなくても、体を動かして大きく見せる、太鼓をより大きく叩く、何より一人一人が大きな声を出す。「自分にできる最高のことをして、頑張っている野球部を力になる方法をそれぞれで考えて行こう」と意思統一し、選手の背中を押した。

19日の開幕戦、左翼席から応援歌を奏でた東大応援部【写真:荒川祐史】

 グラウンドとの距離はあったが、三塁側内野席では応援歌に合わせ、何人ものファンがメガホンを叩き、想いを応援部に重ねた。「多くの方が一緒に応援していただき、本当に嬉しかったです」と菅沼さん。

「どういう形であれ、自分たち応援部が神宮に伺えるのが心から嬉しかったです。もう応援できないかもしれないと覚悟していたので。そして、改めて応援は楽しいと感じました。分かっていたつもりでしたが、春のリーグ戦が失われて気づかされました」

 もともと“白球の絆”に導かれ、くぐった赤門だった。

 東京の私立名門校、武蔵高の出身。高校時代は野球部に所属し、外野手として活躍した。「神宮で戦う」を掲げた青春の日々、2年夏は「9番・右翼」で東東京大会16強進出。しかし、8強以上が立てる目標の舞台にあと1勝届かず、3年夏は初戦敗退した。

 当時の同級生が今、東大野球部に所属し、ブルペン陣を支える小宗創投手(3年)だ。高校の野球部を引退する時、小宗は「この借りは大学で返します」と宣言し、東大で神宮の舞台に立つことを誓った。その想いを知って、菅沼さんも胸が熱くなった。

「野球は下手くそだったけど、自分も東京六大学で何か熱い青春を送りたいと思いました。野球を終えて、これからどうしようと思った時に新たな目標ができた感じ」。自分も東大を目指し、神宮の舞台に立とうと決意した。

 それまで部活が忙しく、勉強は「怒られない程度に」こなしていたが、以降は半年間の猛勉強で東大に現役合格した。当初、興味を持ったのはマネージャー。「勝利の瞬間を選手と一緒に分かち合える」というのが、理由だった。

 実際に問い合わせをして迎えた1年春の開幕カードの明大戦。本来なら1年生もいきなり裏方業務に参加できるはずだったが、高校時代は制服がなく、マネージャーが着用しなければいけない学ランを持っていなかった。

「菅沼君はとりあえず客席で試合を見ていて」。先輩から言われたひと言が運命を変えた。この日、応援部のリーダーを務める高校の先輩から「応援席に見に来いよ」と誘われており、それならばと足を運んだ。その場所で、実際に見た光景が衝撃だった。

「リーダー幹部が凄くカッコ良くて、入学したての自分には凄くオーラがあるように見えて……。仲間の勝利を信じて、みんなの先頭に立って、声を張り上げる姿に胸を打たれました」

 雨の中で、しかも0-13という大差をつけられた試合。にもかかわらず、9回に「絶対、逆転するぞ!」と叫ぶ。「衝撃が走りました。なんなんだ、この人たちはって」。しかし、リーダーへの憧れが相まって、徐々に「衝撃」は「興味」に変わっていった。

 東大を志すきっかけをくれた小宗は東大には縁がなく、慶大に合格したが、それでも浪人を決意していた。「応援部なら選手と勝利を分かち合えるし、応援もできる。来年、小宗なら必ず合格するから、ここで待っていよう」と菅沼さん。

 こうして学ランはマネージャーではなく、応援部員として青春を捧げるために買った。

 遅れること1年。小宗も合格し、高校時代と同じ「神宮での勝利」を求め、戦うことになった。「もちろん、試合中は応援部としてチームを応援しているので小宗だけを応援できませんが、試合が終われば、友人として『ナイスピッチングだったな』と連絡を取り合っています」と笑う。

 厳しい応援部生活。なかでも、記憶にこびりついているのが「大出走」と言われ、下級生に課される夏合宿の最終日恒例の練習だ。通常は学校を飛び出し、走りながら応援練習を繰り返す「出走」と言われる練習を山道で、しかもフルマラソン並みの距離で行う地獄のメニューである。

「つらい」「逃げたい」と思うことはあったというが、投げ出すことはなかった。「厳しいところで自分で鍛えたい、そういう場所と知って自分が選んだものだから」。3年間の下積みを経験。最高学年になった今年、託されたのが、応援部主将という大役だった。

 しかし、声援を送り続ける野球部の現実は厳しい。

 最後の勝利は17年10月8日、エース・宮台康平(4年)を擁して連勝した法大2回戦。実に15年ぶりという勝ち点「1」を獲得して以来、続く連敗は「51」まで伸びた。外野からは「東京六大学に東大は必要なのか」なんて無責任な声がたびたび上がる。

 それでも、声を枯らす理由は何なのか。菅沼さんに聞くと、明確な答えを明かした。「東大野球部はロマンの塊だと思うんです」と。

「もちろん、文武両道の素晴らしさもそうですし、他大学のプロに行くような150キロを投げる投手、ホームランをバンバン打つ打者に対して、同じ大学の仲間が勉強も一生懸命に頑張り、そういう強敵を倒そうとしている。そんな姿に凄く胸が熱くなり、ロマンがあると私は感じています」

 応援席はそんな風景を一番近くで見られる場所。「だから『今日こそ勝つぞ』と毎試合思って臨みます。それが私のモチベーションです」と言う。

 他の5大学にはない魅力もある。調子が良い時、人間は一人の力でも前に進めるもの。しかし、壁にぶち当たった時、人間は苦しくなり、背中を押す存在が力になる。受験戦争を勝ち抜いた学生が、スポーツエリートに挑み続ける東大。だからこそ、応援がもたらす価値は大きいのではないか。

「本当にその通りだと思います」と菅沼さんは頷き、東大応援部という意義を語る。

「難しいことを成し遂げようとしている人を応援することは、応援部冥利に尽きると思っています。野球部に限らず、辛く苦しい思いをしている選手はたくさんいる。それを支え、励まし、勇気づけて、最後に勝利の瞬間を一緒に味わう。もちろん、東大ではすべてがハッピーエンドで終わるわけではありませんが、応援していて本当に良かったと感じられる瞬間があります。

 それを仲間と喜びを分かち合える。そこは他大学にはない、東大ならではの魅力だと思います。いろんな部活で野球部と同じくらいの熱量で、同じくらいの強い相手に立ち向かって戦っている人がたくさんいる。みんなと知り合って、熱い想いを共有し、一緒に喜びを分かち合えるのが応援部の良いところであり、特権。そういう部分が応援部の楽しさではないでしょうか」

26日の慶大戦は雨の中から声援を送った東大応援部【写真:荒川祐史】

 東大を志すきっかけをくれた小宗は東大には縁がなく、慶大に合格したが、それでも浪人を決意していた。「応援部なら選手と勝利を分かち合えるし、応援もできる。来年、小宗なら必ず合格するから、ここで待っていよう」と菅沼さん。

 こうして学ランはマネージャーではなく、応援部員として青春を捧げるために買った。

 遅れること1年。小宗も合格し、高校時代と同じ「神宮での勝利」を求め、戦うことになった。「もちろん、試合中は応援部としてチームを応援しているので小宗だけを応援できませんが、試合が終われば、友人として『ナイスピッチングだったな』と連絡を取り合っています」と笑う。

 厳しい応援部生活。なかでも、記憶にこびりついているのが「大出走」と言われ、下級生に課される夏合宿の最終日恒例の練習だ。通常は学校を飛び出し、走りながら応援練習を繰り返す「出走」と言われる練習を山道で、しかもフルマラソン並みの距離で行う地獄のメニューである。

「つらい」「逃げたい」と思うことはあったというが、投げ出すことはなかった。「厳しいところで自分で鍛えたい、そういう場所と知って自分が選んだものだから」。3年間の下積みを経験。最高学年になった今年、託されたのが、応援部主将という大役だった。

 しかし、声援を送り続ける野球部の現実は厳しい。

 最後の勝利は17年10月8日、エース・宮台康平(4年)を擁して連勝した法大2回戦。実に15年ぶりという勝ち点「1」を獲得して以来、続く連敗は「51」まで伸びた。外野からは「東京六大学に東大は必要なのか」なんて無責任な声がたびたび上がる。

 それでも、声を枯らす理由は何なのか。菅沼さんに聞くと、明確な答えを明かした。「東大野球部はロマンの塊だと思うんです」と。

「もちろん、文武両道の素晴らしさもそうですし、他大学のプロに行くような150キロを投げる投手、ホームランをバンバン打つ打者に対して、同じ大学の仲間が勉強も一生懸命に頑張り、そういう強敵を倒そうとしている。そんな姿に凄く胸が熱くなり、ロマンがあると私は感じています」

 応援席はそんな風景を一番近くで見られる場所。「だから『今日こそ勝つぞ』と毎試合思って臨みます。それが私のモチベーションです」と言う。

 他の5大学にはない魅力もある。調子が良い時、人間は一人の力でも前に進めるもの。しかし、壁にぶち当たった時、人間は苦しくなり、背中を押す存在が力になる。受験戦争を勝ち抜いた学生が、スポーツエリートに挑み続ける東大。だからこそ、応援がもたらす価値は大きいのではないか。

「本当にその通りだと思います」と菅沼さんは頷き、東大応援部という意義を語る。

「難しいことを成し遂げようとしている人を応援することは、応援部冥利に尽きると思っています。野球部に限らず、辛く苦しい思いをしている選手はたくさんいる。それを支え、励まし、勇気づけて、最後に勝利の瞬間を一緒に味わう。もちろん、東大ではすべてがハッピーエンドで終わるわけではありませんが、応援していて本当に良かったと感じられる瞬間があります。

 それを仲間と喜びを分かち合える。そこは他大学にはない、東大ならではの魅力だと思います。いろんな部活で野球部と同じくらいの熱量で、同じくらいの強い相手に立ち向かって戦っている人がたくさんいる。みんなと知り合って、熱い想いを共有し、一緒に喜びを分かち合えるのが応援部の良いところであり、特権。そういう部分が応援部の楽しさではないでしょうか」

菅沼さんが東大を目指すきっかけとなった野球部の小宗創(中央)【写真:荒川祐史】

 そんな東大ならではの応援の魅力に憑りつかれた応援部生活も残りわずか。

 1~3年生は野球部の勝利を知らない世代。経済学部に在籍し、卒業後は大学院進学予定で、将来はマスメディアの仕事に興味を持っている菅沼さんは「4年間で一番印象深いのは1年秋の法大戦で勝ち点を取ったこと」と言い、同じ経験を後輩たちに味わってほしいと願っている。

「勝ち点を取る難しさを聞いてはいましたが、実感としては分かっていませんでした。お客さんが皆さん喜んで、先輩方もみんな泣いている。凄い瞬間に居合わせたんだな、と。それが応援部を続ける原動力になっています」。あの日の記憶を胸に刻み、残り3カード6試合に全力を尽くす覚悟だ。

 平成生まれの若い応援部員が生きる時代は変わり、令和となった。昭和から続く応援団という文化は“古いもの”の象徴に見られやすい。「なんで、応援部なんて入ったの?」と友人に聞かれることもある。

 しかし、断固たる決意を持って応援部を全うする菅沼さんは言う。その言葉には、力があった。

「自分たちの大学はあまりこういうものに興味ない人が多いかもしれません。でも、誰かを応援したい想い、何かに打ち込む熱さというものは時代に関係なく、普遍的なものだと思います。そういう想い、熱さから生まれる応援席の一体感は、どの時代も人間の根本的なところで惹かれるもの。だからこそ、もっともっと応援というものの魅力を発信できたらと思っています」

 東大野球部にロマンを感じ、神宮に捧げた4年間の青春には、一点の曇りもない。


<Full-Count 神原英彰>