上田二朗氏は1969年の全日本大学選手権優勝に貢献…総長のゲキに応えた 元阪神、南海右腕の上田二朗氏(野球評論家)は1969年、東海大4年の時にエースとして全日本大学野球選手権初制覇に大貢献した。前年(1968年)の明治維新百年記念明治神宮…
上田二朗氏は1969年の全日本大学選手権優勝に貢献…総長のゲキに応えた
元阪神、南海右腕の上田二朗氏(野球評論家)は1969年、東海大4年の時にエースとして全日本大学野球選手権初制覇に大貢献した。前年(1968年)の明治維新百年記念明治神宮大会でも首都大学選抜のエースとして優勝。しかし、東京六大学選抜の選手が「こんなのお祭り」と発言し、東海大・松前重義総長が激怒。「来年(1969年)の大学選手権は絶対に獲れ」との猛ゲキに応えた日本一だった。
東海大入学後に上田氏は素質を開花。アンダースローエースとして大学球界を代表する投手になった。大学3年時には明治維新百年記念明治神宮大会(1968年11月1日~4日)が開催。大学の部には東京六大学、東都大学、首都大学、神奈川五大学、愛知大学、関西六大学、広島六大学、九州六大学の各連盟選抜8チームが出場した。
首都大学選抜は1回戦で愛知大学野球選抜に5-0、準決勝では東都大学選抜に4-3で勝利した。上田氏は首都大学選抜のエースとして活躍。1-0で勝った東京六大学選抜との決勝戦では完封勝利を収めた。ところが、この後に“事件”が起きた。「東京六大学の連中が負けた腹いせか知らないですけど“特別記念大会だからこんなものお祭り、俺らはリーグ戦で目一杯やって力を出し切っていた”みたいな発言をして、それが新聞に載ったんですよ」。
これに松前総長が激怒した。「総長は『こんなの学生にあるまじき発言だ』と言ってものすごく抗議したんです。そして私ら(東海大ナイン)を全員集合させて『いいか、君たち。こういう発言は絶対やってはいけない言い訳、負け惜しみだ。絶対言ってはいけない言葉だよ』と言った上で『来年の大学選手権は絶対獲れ!』と言われたんです」と上田氏は言う。誰からも日本一と認められるためにも、という熱いゲキだった。
「来年(1969年)というのは(東海大などが)東都リーグを脱退して首都リーグを立ち上げてから5年目。松前総長が『5年以内に日本一になるチームを作る』と言ってから5年目だったので、それもあったと思う。本当の日本一は大学選手権を獲ること。だから『何が何でも獲れ!』ってね」。上田氏自身も東海大入学の際に岩田敏監督に「松前総長が言う5年以内に日本一になるためにお前を獲った」とハッパをかけられており、なおさら奮い立った。
大学日本一で意識したプロ「もしかしたら行けるのかな」
迎えた1969年、上田氏は春季リーグ戦の成城大戦で完全試合を達成するなど絶好調。「パーフェクトは初めてでした。ノーヒット・ノーランは大東文化大戦でやっていたんですけどね。大学では緩いカーブを覚えました。それにもともと持っていたスライダー。僕の場合、沈むんじゃなくてグワーンと上がっていくんです。右バッターだと外に空振り、打ちにきてもスーッと逃げていった。左バッターにはシンカーとシュート。それが武器でした」。
春季リーグ戦を制した東海大は6月の全日本大学野球選手権に臨んだ。1回戦は福井工大に7回コールドの9-2、2回戦は明大に5-4、準決勝は神奈川大に5-0、決勝は日大を破り初優勝を成し遂げた。エースの上田氏は4試合すべてに完投勝利の大ヒーローになった。「(2回戦で)明治にかろうじて勝って、これで行けるぞとなった。決勝の日大戦では三振もけっこう取ったと思いますよ」。
松前総長の熱いゲキに応えての日本一だった。「総長は球場の上の方でずっと観られていたんですけど、決まった時にはグラウンドまで降りてこられて、もう抱え上げてくれるほどね、喜んでくれたんですよ」。もちろん、今回は誰も東海大の優勝にケチをつける者はいなかった。首都大学リーグの発展にも貢献する日本一。同時に上田氏へのプロ球団の注目度もアップしていった。
「大学選手権を獲ってからですかね。プロにもしかしたら行けるのかなと思いはじめたのは。それまでは全く考えていませんでした。東海大出身のプロ野球選手は誰もいなかったので、どれくらいがプロの基準かわかっていなかったんです」。上田氏はその“壁”もブチ破る。1969年ドラフト会議では阪神に1位指名され、東海大初のプロ野球選手となる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)