世界2位の快挙から20年......今だから語る「黄金世代」の実態第9回:中田浩二(2) 1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で、日本は勝ち進み、ついに決勝進出を果たした。 中田浩二は、その要因のひとつ…

世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第9回:中田浩二(2)

 1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で、日本は勝ち進み、ついに決勝進出を果たした。

 中田浩二は、その要因のひとつとしてチームの一体感がより増したことを挙げたが、その中で大きな役割を果たしたのが控え組の選手だった。



ナイジェリアでの激闘について語る中田浩二

「あのチームの強みって、試合に出ている選手と出ていない選手が、本当に仲が良かったことなんですよ。純粋に競争しながらも、試合に出られない選手が、チームが勝つためにいろいろやってくれた。普通、チーム内の競争って、一歩間違えるとギスギスしてしまうんです。でも、そういうのがまったくなかった。口では『早く帰りてぇー』って言っていましたけど(笑)。試合に出ている選手はサブ組のサポートに感謝して、ひとつでも多くの試合をみんなで、という気持ちで戦っていた。本当にいいメンバーでした」

 選手はそれぞれ目標や目的が異なるが、試合に出て活躍して高い評価を得たいと思っている。それゆえ、日本代表といえどもひとつにまとまるのは簡単なことではない。だが、このチームは徐々に目標が全員共通のものになり、そのためにひとつになっていった。そのキッカケは、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦に勝ったことがもちろん大きいのだが、それだけではなかったという。

「同世代というのが大きかったですね。みんな、しっかりとコミュニケーションが取れていたし、サッカー観が似ているのもあった。本当に楽しくサッカーができた。もちろん、ポルトガル戦に勝って自信がついて、目標が明確になったのも大きい。上を狙えるようになったので、優勝という同じ画を描いていけるようになった。ただ、その中心に(小野)伸二がいたのが、すごく大きかった」

 中田を始め、この世代の選手はみな小野伸二の存在の大きさを語る。小野は、チームにとってどういう存在だったのだろうか。

「伸二は、僕らの中じゃ飛び抜けた存在だったけど、それを態度に出すんじゃなくて、みんなでやっていこうという姿勢でチームを引っ張ってくれた。もちろんサッカーだけじゃなく、人間性もすばらしく、ひとりの人間として尊敬していた。だから、僕らは伸二を信じてついていった。ただ、伸二に負けたくない、追いつき、追い越したいという気持ちもあった。『伸二、すげぇ』っていうだけじゃなく、いかに伸二を超えていくか。伸二が僕らの目標であり、最大のライバルだった。そういう選手ってなかなかいないですよ」

 小野は、このチームのシンボルだった。

 どんな世代にも必ず一人は、チームの選手たちが認める絶対的な選手がいる。96年アトランタ五輪の前園真聖、98年フランスW杯の中田英寿、最近で言えば大迫勇也だろう。チームの勝敗に最も影響する選手だが、ナイジェリアでの小野はまさにそういう選手だった。

 しかし、小野は準決勝ウルグアイ戦で、スローインの際の遅延行為でイエローカードを受けた。その結果、累積警告となり、決勝戦は出場停止になってしまった。

 日本は小野不在でスペインと戦わなくてはならなくなったのである。

「決勝まで勝ち上がっていくにつれて力がついてきたけど、僕らには運もありました。ポルトガルもベスト16、しかも日本相手じゃなければメンバーを落としてこなかっただろうし、アルゼンチンとブラジルが負けて、準々決勝、準決勝の相手がメキシコとウルグアイになったのも運です。ロナウジーニョがいたブラジルとはやりたくなかったですからね(笑)。でも、スペイン戦は、伸二が出られなくなった。それはチームにとって大きかった。そういう意味では、最後は運がなかったのかなと思いましたね」

 決勝、日本の運は尽きたようだった。

 小野が不在の中、開始5分で失点し、その後はスペインにいいようにボールを回され、試合の主導権を握られた。

 後半6分に4点目を奪われてトドメを刺され、日本は0−4でスペインに敗れた。

「正直、決勝に行ってちょっと満足してしまった部分があった。それは今、思い返してももったいなかったですね」

 中田は、苦い表情で当時を振り返った。

 その後、中田は2002年日韓W杯の決勝トーナメント1回戦、トルコ戦前も同じような空気を感じたという。

「99年のスペイン戦と02年のトルコ戦の入る前の雰囲気はまったく同じでした。スペイン戦は当日の朝から2時間もハードにトレーニングして、決勝を戦うような雰囲気じゃなかったし、トルコ戦は(フィリップ・)トルシエ監督が『ボーナス』って言っていましたからね。また、スペイン戦は伸二の代わりにウジくん(氏家英行)が出て、トルコ戦はヤナギ(柳沢敦)の代わりにアレックス(三都主アレサンドロ)を出した。新しい選手が入ってくるのを僕らがしっかりと準備できていたらよかったけど、当日まで誰を使うのかがまったくわからなかったし、決まってからもそのままなんとなくぼんやりと試合に入ってしまった。そこは経験のなさが出て、すごくもったいなかったです」


決勝ではスペインに完敗し、準優勝に終わった

 photo by Yanagawa Go

 ワールドユースでは、トルシエ監督自身も世界大会初の決勝で、慣れていない部分があったのかもしれない。不可解な選手起用は、試合を難しくすることで選手の伸びた鼻をへし折り、世界には上があることをわからせたかったのかもしれない。

 だが、FIFA主催の国際大会の舞台で決勝に進出することは、当時の日本にとっては奇跡的なことだった。それまでワールドユースはベスト16が最高位で、前年に初めて出場したフランスW杯は3戦全敗だった。そして、この99年以降、日本男子はコンフェデ杯以外、カテゴリー別の世界大会を含めて決勝進出を果たしたことがない。

「今は世界で勝つことがどんどん難しくなっています。だからってわけじゃないですけど、あの時に優勝したかったなという思いはあります。スペインに負けたけど準優勝して、ここまで戦うことができたうれしさはあったけど、やっぱり悔しかった。じつは、高校選手権も準優勝だったんですよ。鹿島ではたくさんタイトルを取っているけど、逃したタイトルもたくさんある。その悔しさがあるからこそ、優勝したときの喜びってすごく大きいんです。それが99年の時にわかっていればと思いましたね」

 そう言って中田は、苦笑した。

 準優勝の表彰の時は中田は笑顔を見せ、仲間と史上初の快挙について健闘をたたえ合っていた。だが、日本に帰国すると負けた悔しさが募り、あの時こうしておけばよかったと考えることが増えた。自分の今後についても意識が変わったという。

「この大会を経験するまでは正直、日本代表とか、海外移籍とか考えていなかったです。98年にフランスW杯に日本が出たばかりだったし、海外でプレーしていたのはヒデ(中田英寿)さんしかいなかった。日本人が海外移籍とか考える時代じゃなかったんです。でも、大会を通じてできないことが多かったし、差も感じたけど、こういうところ(世界)でやれると楽しいなって思ったんです。もっと上を目指すキッカケになったので、自分にとってはこの大会は大きな転機になりました」

 中田は、その後、00年シドニー五輪で主力選手としてプレーし、02年日韓W杯でも"フラット3"を担う一人として全試合に出場した。99年のワールドユースから一貫して同じポジションで起用され続け、この3つの大会すべてにレギュラーとしてプレーした選手は中田しかいない。そこには、トルシエ監督の中田に対する確固たる信頼を垣間見ることができる。

「トルシエの信頼は感じていました。僕もトルシエの期待に応えようとずっとやってきたし、それを評価してくれたと思います。僕はワールドユースで"フラット3"について学んでいたので、他の選手よりもアドバンテージがあったと思うし、チームに戦術を落とし込んでいく役割も担っているのかなって勝手に思っていました。トルシエ監督は、メディア上ではメチャクチャな人だったけど、実際は選手の表情を見てコンディションを探ったりと繊細な部分があったし、選手のマネジメントがうまかった。あの時代、トルシエは僕らに合っていた監督だったと思います」

 トルシエ監督によって、中田はその後のサッカー人生の転機になる経験をさせてもらった。そして、ワールドユースのスペイン戦後から6年後、中田はそのトルシエ監督が指揮するフランスリーグのマルセイユに移籍することになる。

(つづく)

中田浩二
なかた・こうじ/1979年7月9日生まれ、滋賀県出身。2014年シーズン限りで現役を引退し、2015年より鹿島アントラーズのクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。帝京高→鹿島アントラーズ→マルセイユ(フランス)→バーゼル(スイス)→鹿島アントラーズ