150年にひとりの天才--。これは日本ボクシング史に残る才能のひとつ、大橋秀行を形容する際にたびたび使用された言葉だ。

 リカルド・ロペス、崔漸煥(チェ・ジョムファン)といった、今なお語り継がれる伝説のチャンピオンたちと拳を交え、2団体(WBC、WBA)のミニマム級世界王座を獲得。そのDNAは大橋ジムのボクサーたちに引き継がれ、川嶋勝重、八重樫東、井上尚弥、井上拓真(暫定チャンピオン)という4人の世界王者を輩出してきた。

 本来であれば現地時間4月25日、WBA・IBF世界バンタム級王者の井上尚弥が、WBO王者ジョンリエル・カシメロ(フィリピン)との3団体統一戦で”ラスベガスデビュー”を飾るはずだった。新型コロナウイルスの影響で延期になったその一戦はいつ行なわれるのか。また、国内の興行も軒並み中止になるなか、ボクシング界はどうあるべきなのか。大橋秀行会長がインタビューに応じた。



統一戦は延期になったが、トレーニングは順調に続けているという井上 photo by Hiroaki Yamaguchi/AFLO

--井上尚弥選手の3団体統一戦が延期された、現在の心境からお聞かせください。

「本音を言えば、残念であることは間違いないです。ただ、3月頭くらいから今のような状況になる可能性は覚悟していました。尚弥にも、『なかなか経験できることではないから、ポジティブに捉えよう』と話しています」

--井上選手の現在の状況は?

「尚弥はすでに気持ちを切り替えて、いつもと同じ精神状態でトレーニングを積めていますよ。私が考える彼のすごさは、技術や身体能力もそうですが、その強靭なメンタルにあります。普通の選手なら、これだけのビックマッチが延期になれば、気持ちがダレたり不安を隠せなかったりする。しかし尚弥は、延期が決まった翌日にはジムに顔を出し、顔色ひとつ変えずに練習していましたから。調子はキープできていますし、体調もいいですよ」



インタビューに応じた大橋ジムの大橋秀行会長 photo by Kurita Shimei

--アメリカのボクシング興行再開に向けた動きはいかがでしょうか?

「アメリカではボクシング再開に向けて、プロモーターもすでに動いています。無観客、少人数の観客という形になる可能性も高いですが、6月、7月の再開が現実的でしょう。ボクサーは試合間隔が空きすぎると試合勘も鈍る。多くのボクシング関係者が早期の再開に向けて尽力しており、こちらが得ている情報から判断すると、そう遠くないタイミングで再開できると見ています」

--井上選手のマッチメイクを担当する、トップランク社のボブ・アラムCEOとはどのような話しをしていますか。

「ボブ・アラムとしては『早く井上にやらせてあげたい』というのはあると思いますよ。パウンド・フォー・パウンド(選手の体重を同一と考えて強さを計る仮想ランキング)の順位はアメリカでの評価の基準になっています(井上は現在3位)。WBSSの活躍を受けて尚弥の評価はうなぎのぼり。バンダム級でメインを張り、試合のチケットも売れていましたから。

 3月下旬からアメリカでコロナウイルスの感染者数が一気に増え、一時は日本での統一戦の実施も検討されていましたが、日本で緊急事態宣言が出されたことでそれもなくなりました。トップランク社としては、渡航制限の兼ね合いで尚弥が日本から出国できるのかということと、日本政府の対応を注視していますね。国際情勢も含めて『井上がラスベガスに来ることができるのか』という点を懸念しています。それがクリアできれば、夏頃には統一戦が実現すると見ています」

--対戦相手のカシメロ陣営は、井上選手との試合の前に1戦挟む可能性がある、との報道もありましたが。

「実際には夏の実現に向けて具体的な話も進んでおり、大橋ジムとしても7月、もしくは8月での実施で考えています。すでにラスベガス入りしているカシメロ陣営も、早く尚弥とやりたいでしょうし、こちらもカシメロ戦を最優先に考えている。ファンの皆さんにお伝えしたいのは、楽しみに待っていてくださいということです」

-- 一方で、国内ではボクシングの興行を行なうことが難しい状況が続きそうです。

「日本では6月末までの自粛が決定しており、興行を行なうことが難しいことは間違いないです。ただ、どのジムの会長さんも、ボクサーに試合をやらせてあげたいのが本音なんですよ。ボクサーにも旬はありますし、『いつ試合ができるのか』という不安はありますから。

 大橋ジムとしては7月13日に、清水聡(OPBF東洋フェザー級王者)と井上浩樹(日本スーパーライト級王者)のダブルタイトル戦を、後楽園ホールで行なう予定です。現在コミッションと協議中ですが、仮に無観客試合になっても開催したい。特にロンドン五輪銅メダリストである清水は、プロ入りが遅かったこともあり世界戦を戦うために残された時間が限られている(現在34歳)ので、早く試合をさせてあげたいです。浩樹も、防衛戦に向けてモチベーションは高いですよ」

--誰かが率先して動かないと、この状況を打開できないということですね。

「そうですね。こういう状況だとみんな二の足を踏みますが、誰かが最初の1歩を踏み出さないといけない。閉塞感があるなかで、ボクシング界が再び盛り上がるきっかけにしたいという思いもあります。当然、感染予防に細心の注意を払いますし、状況の変化にも対応しないといけないですが、ジムの会長としてはボクサーに試合の場を作るのが仕事。興行としては、大きな赤字になることは目に見えています。運営的にはかなり厳しいですが、それでもやらないといけないと考えています」

--あらためて、井上選手の今後のマッチメイクについての考えを教えてください。

「デビュー前から一貫して変わらないのは、井上兄弟が本当に強い相手とやりたいということなんですよね。それは2人のトレーナーであり、父である井上真吾さんの考えでもある。実際に真吾さんからは、『負けて伸びることもあるし、本人達のためにも強い相手とマッチメイクをしてほしい』と言われています。拓真が昨年11月のWBC世界バンタム級王座統一戦で(ノルディーヌ・)ウバーリに敗れた際も、『この経験が拓真を強くする』と話していました」

--ご自身の現役時代の経験からも、強者との戦いは得るものが大きいと。

「仮に敗れても強いボクサーとやることで、ボクサーの価値が見直される部分があります。トップランク社のボブ・アラムも最初は私のことを知らなかったんですが、リカルド・ロペスと戦ったことを伝えたら『君はあのフィニート(リカルド・ロペスの愛称)とやったのか!』と打ち解けたくらいですから(笑)。

 現代ボクシングは、4団体の王者制になってから『一番強いのは誰なのか』が非常に見えにくくなりました。尚弥の場合も、デビュー後は強すぎてマッチメイクを避けられ、相手を圧倒して勝利を重ねていったのに一般の方への知名度がなかなか上がらなかった。そのことは本人も気にしていましたね。ただ、『強い相手とやり続けることで必ず評価される』と言い続けて、ジェイミー・マクドネル戦(WBA世界バンタム級の王座を獲得)以降は取り巻く環境が変わった。そしてWBSSの優勝で評価は最上級のものになり、これまでやってきたことが間違いじゃなかったと感じることができました」

--まずはカシメロ戦に注力することになりますが、それ以降の対戦相手として、ウバーリ、ギジェルモ・リゴンドー(WBA世界バンタム級王者)、エマヌエル・ナバレッテ(WBO世界スーパーバンタム級王者)などの名前が挙がっています。

「WBSSから、対戦相手探しに対する苦労がなくなったのでホッとしてます(笑)。現在、マッチメイクはトップランク社に一任していますが、尚弥の意向を汲み取ってくれているので、その点も安心しています。今の尚弥に勝てば一夜にして人生が変わるわけですから、世界中のボクサーの標的になった。ただ、今名前が挙がったようなボクサーとやることも一切恐れていないです。

 たとえばリゴンドーも苦手なタイプではないし、尚弥のスピードについてこられるとは思えません。唯一、『嫌な相手だな』と考えていたのは井岡一翔ですね。非常に技術が高いボクサーで、尚弥でもポイントを獲られる可能性があると見ていた。ともあれ、WBSS決勝の(ノニト・)ドネア戦がそうであったように、尚弥は”魅せる”ことができるボクサーです。主戦場をアメリカに移していくなかで、尚弥の強さを引き出せる相手とやりたい、というのはあります」

--最後に今後のボクシング界の展望を聞かせてください。

「あるジムの会長が、『今後は本物しか残れない時代になり、淘汰が進んでいくだろう』と話していて、その点に関しては私も同じ考えです。WBSSでの尚弥の活躍がキッカケで、ボクシングに興味がなかった層も、競技の魅力に気づいてくれた方が多くいるんですよ。ボクシングの原点である”強さ”に引き寄せられる人がたくさんいることも、あの祭典で確認できました。しばらく興行の数は減るでしょうし、資金繰りに苦しむジムがほとんどでしょう。ボクシング界は厳しい状況が続くと予測されますが、それでも”本物”は生き残っていくと思いますね」