佐藤寿人インタビュー@後編 2003年と2007年。異なるクラブで2度のJ2降格を経験した佐藤寿人だったが、その悔しさと…

佐藤寿人インタビュー@後編

 2003年と2007年。異なるクラブで2度のJ2降格を経験した佐藤寿人だったが、その悔しさと、エースとしての責任を背負い、そこからストライカーとしての能力をさらに研ぎ澄ませていくことになる。

 2008年にはJ2とはいえ、28ゴールをマークして1年でのJ1復帰の立役者となり、2009年にはJ1で15得点を奪って、サンフレッチェ広島のクラブ史上初となるACL出場権の獲得にも貢献した。

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佐藤寿人氏に引退後の活動について聞いた

 そして2012年には、森保一監督の下でJ1初優勝。自身は22ゴールを挙げ、得点王とMVPに輝く活躍を見せた。さらに2013年には連覇を成し遂げ、2015年には3度目の優勝も手にする。まさに右肩上がりのキャリアを築いていった。

 もっとも佐藤自身は、「全然、順調だったわけではないですよ」と当時を振り返る。栄光の日々の裏にも、人知れず苦しんでいたというのだ。

 2010年には「キャリアで一番大きいケガ」により、2カ月間戦列を離れた。ペトロヴィッチ体制最後の年となった2011年には、李忠成の台頭もあって自身は11得点と満足のいく結果を残せなかった。

「出場機会が奪われたわけではなかったんですが、得点の数が減ったので、はたから見たら、これから下降線をたどっていくと思われていたかもしれない。あの時はもう30歳の手前だったので、そういう見方をされているのは、ひしひしと感じていました」

 そしてその年のシーズンオフ、佐藤は初めての減俸を経験する。クラブの経営状態がよくないことは理解していたが、広島に移籍以降、毎年ふたケタ得点をマークしてきた自負があっただけに、厳しい現実を思い知った。

「厳しいな、とは思いましたよ。ふたケタ取っていたので。ほかのクラブの選手にも『そんなことあるんですか』って驚かれたくらい(笑)。

 もちろん、ミシャ(ペトロヴィッチ監督)との契約を更新できないほどクラブの経営が厳しかったのはわかっていましたし、実際にクラブからもパフォーマンスの評価だけではないとも言われました。でも、チームのなかでは減額されていない選手もいたわけで、評価が下がっていることは感じていました」

 実はその年、佐藤はあるクラブからのオファーを受けていた。

「2011年のシーズンが終わった時に、ジェフ(千葉)の当時の社長がわざわざ広島まで会いに来てくれて、2012年にジェフがJ1に上がったらオファーを出すからと言われたんです。純粋にうれしかったですよ。古巣の社長直々に、戻ってきてくれと言ってくれたのは。

 そのことは家族以外、誰にも言っていないです。(兄の)勇人にも言わなかったですね。広島を離れる気持ちはなかったですけど、もしジェフが上がっていたら、真剣に考えなければいけないと思っていました」

 結果的に2012年、千葉はプレーオフで大分トリニータに敗れて昇格を逃した一方、その翌日に広島はJ1初優勝を成し遂げた。もし、千葉がJ1に復帰し、広島が優勝を逃していれば、佐藤は古巣へ復帰していたかもしれないのだ。

「さすがに優勝した次の年に移籍はできなかったですし、ジェフもJ1に戻れなかったので、オファーはありませんでした。でも、2011年の僕が懐疑的に見られていた時に、J1に上がってオファーを出したいと熱く誘ってくれた。そういう想いをもって接してくれたのは、すごくありがたかったですね」

 ちなみに、広島時代の佐藤には、ほかにもオファーがあったという。実現しそうだったのは、2010年の夏のことだ。クロアチアのディナモ・ザグレブからの誘いだった。

「僕はイタリアが好きなので、イタリアには行きたかったんですよ。セリエBのクラブでもいいから行きたかったですね。だから、ディナモからオファーがあった時、ディナモで活躍して、隣の国のイタリアに行こうと考えたこともありました。でも、その時はまだ広島で優勝してなかったですし、その少しあとくらいにケガをしてしまったので。そう考えると、僕の運命は広島にあったのかなと思います」

 減俸されながらも初優勝の立役者となった2012年。翌2013年も最終節の奇跡の逆転劇で連覇を成し遂げた。すでに30歳を超えていた佐藤だが、その時、まさにキャリアのピークを迎えていた。

 しかし、その時間は長く続かなかった。2014年、3連覇を狙った広島は8位に低迷。佐藤自身もエースの立場が揺らぎつつあった。

「あのシーズンは、年齢を重ねてきてなかでチーム内の競争もあって、出場機会も満足いくものではなかった。世代交代を意識させられた年でしたね」

 2014年の夏、佐藤はある"事件"を起こしている。アウェーでの鹿島アントラーズ戦。前半で交代を命じられた佐藤は怒りの感情を抑えきれず、森保監督に食ってかかってしまったのだ。

「交代を告げられた時に握手を拒否しましたし、受け入れられない態度を取ってしまいました。後半に臨むメンバーが気持ちを高めている横で、士気を下げてしまったかもしれません」

 エースとして、ましてやベテランとして、あるまじき行為である。佐藤は次の試合から2試合連続でベンチ外となった。しかしその事件は、その後のキャリアを歩むうえでの大きなターニングポイントとなったという。

「あれがあったから、21年間もやれたのかなと思います。ギラギラとしたものがなくなったら、ストライカーとしては終わりだと思っていましたから。あのあとに森保さんともゆっくり話をして、『そういう気持ちがあるなら、お前はまだまだ伸びるな』と言ってもらえました。信頼関係があるから、ああいうことになったのかなとも思います。

 それまでに森保さんは常に向き合ってくれましたし、その後も変わらず向き合ってくれた。仙台時代に選手同士で同じピッチに立った経験もありますが、本当に森保さんはすごく気を遣う人。僕にとって特別な監督ですね」

 その事件は、翌2015年の優勝につながることになる。すでに33歳となっていた佐藤は、自身の立場が危うくなっていることを感じていた。

「シーズンを通してレギュラーとして出るのは、もしかしたら厳しくなるかなと思っていました」

 成長著しい浅野拓磨の存在もあった。実際に開幕1週間前の練習でも、サブ組に組み込まれるほどだった。しかし、佐藤がクサることはなかった。

「サンフレッチェでプレーできるのであれば、どんな役回りでもやりたい」

 自らの立場を理解し、チームのためにすべてをささげる覚悟で2015シーズンに臨んだ。

 そのひたむきな姿が指揮官の心を動かしたのだろうか。佐藤は開幕戦でスタメン出場すると、見事にオープニングゴールを決めている。結局その年、全試合にスタメン出場し、前年を上回る12ゴールを決めた。しかし、出場時間は2191分。1試合あたり62分程度にすぎなかった。

「あの年は僕が60分出て、拓磨と交代するというパターンでした。だから自分は、与えられた60分のなかで全力を出すことを考えていました。90分でやっていたものを、60分のなかでいかにやり切るか。拓磨とふたりで90分を戦っている感じでしたね。

 よく、『毎回、途中で代えられてストレスにならないの?』って聞かれましたけど、まったくそんなことはなかった。森保さんは僕を信頼して、スタートから使ってくれた。その想いに応えたいという気持ちしかなかったですね。それはやっぱり、2014年のことがあったから。気持ちが整理できていましたね」

 3度目の優勝を成し遂げた佐藤だったが、一方でキャリアの終焉を徐々に感じ取っていたという。34歳で迎えた2016シーズンを振り返り、佐藤は「そろそろ終わりに向かおうかなと考えていた」と明かした。

「常にメンバーには入っていたんですが、ピッチに立つ時間がどんどん減ってきた。筋肉も張りやすくなっていて、身体の部分の変化を感じた年でしたね」

 引退を意識し始めた頃、佐藤は同じストライカーとしてリスペクトし、信頼を寄せていた播戸竜二に会う機会があった。

「バンさんとは昔から話をすることが多くて、その時も自分の想いを伝えたんです。そしたらバンさんは『わざわざ自分でやめる方向に向かわなくてもいいんじゃない? 選手だったら、どうピッチで勝負するか。結果的に引退する時が来るわけだから、わざわざ自分からそっちに向かわなくていいんちゃう?』って。それを聞いて、たしかになと。自分から行く必要はないなと思ったんです。あの時はバンさんが思いとどまらせてくれましたね」

 本音を言えば、広島で引退をしたかった。2005年に加入し、降格の悔しさも優勝の喜びも味わってきた。2016年に広島一筋で引退した同い年の森崎浩司の引退セレモニーを見ながら、ちょっとうらやましくさえ思った。「来年は、自分がセレモニーをやってもらえる立場になるかもしれない」と。

 一方で、「まだピッチの上で点を取りたい」という想いも湧いていた。そんな折に届いた名古屋グランパスからのオファー。「選手として必要と言ってもらえるのは幸せだな」。そう思った佐藤は、12年間在籍した広島を離れる決断を下した。

「広島が大好きで、離れたくなかったですね。ましてや、広島で引退したいと、ずっと言ってきましたから。あの時も、広島から残ってほしいと言ってもらいました。でも、戦力というよりも、これまでに残してきたものを含めたトータルの評価だったと思います。

 名古屋は純粋に戦力として見てくれた。一選手としてもう一回ピッチで勝負したいと思ったんです。あとは風間(八宏)さんの指導を受けてみたい、という気持ちもありましたね」

 名古屋での2年間は「あらためて学ぶことが多かった」と振り返る。

「今までは自分がゴールを奪う役割でしたけど、風間さんの下では、若い時は拒絶していたであろう2列目もやりました」

 一方で、ピッチ外でも佐藤は精力的に動いた。

「僕が移籍する前年に名古屋はJ2に落ちたんですが、選手とファン・サポーターの距離ができてしまったと聞きました。なので、キャプテンとして、その距離を戻す、新しいものを作るという役割も求められていました。名古屋の時はがんばらないといけないことが多かったし、無理しているところもあったと思います。

 広島時代は千葉(和彦)ちゃんが率先してやってくれましたけど、名古屋では僕が引っ張っていくしかなかった。試合に出てないのに、試合後にビブスのままスタンドに向かって盛り上げ役をやっていましたよ。『36歳にもなって、なにやってるの』って自分でも思いましたけど、殻を破ってやれることをやろうと」

 名古屋には2年間在籍し、ピッチでは思ったような結果を残せなかったが、"殻を破った"佐藤の努力もあって、観客動員数は飛躍的に向上したという。

 そして2019年、最後のクラブとなったのは、自身の原点である千葉だった。しかし、J1昇格というミッションを果たせないまま、スパイクを脱ぐことになった。

「難しい2年だったかなと思います。兄と一緒にJ1復帰のために戦ってきましたが、兄が10年間向き合って成し遂げられなかったものは、やはり簡単ではなかったなと。

 そもそも、上げるも何も、上がるかどうかの勝負にさえたどり着かなかった。J2で一番悪い時期になってしまいましたし、立て直せないまま自分はやめる決断を下すことになってしまった。育ててくれたクラブをJ1に戻せなかったのは、やっぱり心残りですね」

 それでも、心残りはあっても、やり残したことはないという。

「プロの世界に入った時は、正直こんなに長くやれると思わなかった。引退会見でも言いましたけど、恵まれたサッカー人生だったと思います。とくに人との出会いに恵まれた、幸せな21年間でしたね」

 引退後は、指導者の道を目指すという。最大のミッションは「ストライカーを育てる」ことだ。

「いろんなカテゴリーのストライカーを見ていきたいですね。自分は選手として21年間を歩んできただけなので、まずは指導者になるための勉強をしっかりとやらないといけない。将来的に監督をやるのか、マネジメント側に行くのかはまだ決めていませんが、まずはストライカーをしっかり育てていきたい。僕はいろんな人に育ててもらって、ここまで来られた選手ですから」

 人に恵まれた21年間の、プロサッカー選手としての人生。酸いも甘いも噛み分けたその経験を、今度は伝えることが使命となる。Jリーグ史に残るレジェンドストライカーは、第二の人生でも"多くのゴール"を生み出していくはずだ。

【profile】
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、出場機会を求めてセレッソ大阪、ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。ポジション=FW。身長170cm、体重65kg。