「史上最強」と称された日本代表--第7回2000年アジアカップ。日本は圧倒的な強さを見せて2度目のアジア制覇を遂げた。当時、その代表チームは「史上最強」と称された。20年の時を経て今、その強さの秘密に迫る--。         歴史を越えて…

「史上最強」と称された日本代表
--第7回

2000年アジアカップ。日本は圧倒的な強さを見せて2度目のアジア制覇を遂げた。当時、その代表チームは「史上最強」と称された。20年の時を経て今、その強さの秘密に迫る--。

    

    

 歴史を越えて、史上最強の日本代表を選ぶ作業は難しい。身もふたもない言い方をすれば、選者の好み次第。何を基準にするかで、結果はまるで異なる。

 だが、アジアの並み居る強豪を衝撃的なスコアで次々に下したという意味において、2000年アジアカップで優勝した日本代表ほど強烈なインパクトを残したチームは、他に見当たらない。

 2000年大会での日本の総得点数は全6試合で21。これは日本の最多記録である。出場国枠が16から24に拡大され、決勝までの全7試合を戦った2019年大会でさえ、総得点は12にとどまっているのだから、それがいかに驚異的な数であるかがわかる。

 はたして、その強さはいかにして作られたのか。

 その大きな要因のひとつが、日本代表監督のフィリップ・トルシエであったことは間違いないだろう。



トルシエ監督について語る山本昌邦氏

 このフランス人指揮官の下、約4年間、日本代表コーチを務めた山本昌邦には、印象に残っている言葉がある。

「若い選手たちのほうが技術的な才能があるっていうのは、トルシエがずっと言っていたことです。こいつらのほうが断然うまい、と。だから、彼らを鍛えようとしていましたよね」

 トルシエがその才能を見初めた若い選手たちは、1999年ワールドユース選手権で準優勝を成し遂げ、2000年シドニー五輪ではベスト8進出。しかも、トルシエはその過程で早くから彼らを日本代表(A代表)に引き上げ、鍛えた末の最初の成果が、このアジアカップでの優勝だった。山本が続ける。

「当時のチームは、崩しのときの動き出しが速くて、ワンタッチプレーがうまかった。対戦相手がついて来られないほどの、あのスピード感やパスのテンポは、間違いなく練習で引き出されたものでした。あとは、思考のスピード。このチームは、それが抜群に速かったんです」

 では、実際にプレーしていた選手たちは、当時のサッカーをどんなふうに感じていたのだろうか。

 このチームの中心的役割を果たし、大会MVPにも選ばれた、名波浩が語る。

「あの頃"ウェーブ"って言葉を使っていたんだけど、縦にボールを入れて起点を作り、視野のいい人が前向きにボールを運んだら、トルシエは『何度もウェーブをかけて、後ろの選手がボールを追い越していけ』ってことを言っていた。ボランチだろうが、3バックのサイドだろうが、出ていけるタイミングがあったら見逃すな、と。そういうところでは、"今風なサッカー"をやっていたと思います」

 明神智和もまた、当時トルシエが志向していたサッカーに、現代に通じるものを感じている。

「今で言う、縦に速いサッカー、ですよね。角度を作ってしっかりパスをつないでいく、というよりも、前にボールを運んで、スプリントして追い越していく。そういう意味での、"今っぽさ"はあったかもしれません」

 とはいえ、フラット3に代表されるトルシエ流の3-5-2は、彼の在任期間を通じて懐疑的、というより、批判的な見方をされることも多かった。それと同時に、トルシエの、ときに場所を選ばず激高する性格も、好意的には受け止められなかった。

 しかし、そんな破天荒な振る舞いにも「彼なりの計算があった」。山本はそう見ている。

「選手に対しても、おまえのせいで負けたんだ、と個人攻撃が徹底していました。でも、トルシエが選手とぶつかったあとに話を聞くと、たいてい『あいつはガッツがあるな』ってことを言うんです。だから、あえて挑発していたところはあったと思いますよ。練習で『おまえは帰れ!』って怒鳴られたような選手は、次の試合でだいたいスタメンだったというのが、僕の印象です」

 これには、明神も同意する。

「選手をモチベートするのはうまかったですよね。(腕で相手を押すような仕草で)こういうことはよくないですけど(苦笑)、ミーティングの話し方でも、感情を出しながら伝えるのか、冷静に伝えるのか、そういうところのうまさは自分が指導者になった今、改めて感じますね」

 五輪代表での活動も含め、トルシエとの付き合いが長かった明神は、「性格的には、みなさんが思うままの監督というか(苦笑)、正直、えっ?って思うこともありました」。だが、それらはみな、微笑ましい思い出でもある。

「最初のほうはストレスになったりしましたけど、合宿や遠征で一緒に生活する時間が長くなればなるほど、ああ、そんな感じね、ってわかってくる(笑)。大勝した試合の次の日の午前練習とかは、気を引き締めるためなのか、監督は怒鳴ったりすることが多いんですけど、それはもう選手もわかっていて、みんなで、『おい、今日は気をつけろよ』って。そういうのも、チーム内のいい雰囲気につながっていたと思います」

 そして、もうひとつ。このアジアカップでの優勝において見逃すことができないのは、名波という"影のリーダー"の存在である。

 山本は、そのリーダーシップについてこう語る。

「(年長者の中でも)特に名波は経験値が違いましたから。1997年にジュビロ磐田のJリーグ初優勝があって、日本代表では1998年ワールドカップの主力。実力があって、チームの中心であることは確かだけど、名波はプレーになったら、みんなを生かしてやろうっていう意識が強いので、周りの選手にすごく気を使うんです。だから、(中村)俊輔がストレスを溜めているなと思ったら、ポジションをちょっと変わったり。トルシエとの意見の相違みたいなところは、僕をうまく使って、僕からトルシエに言わせたり(苦笑)。そういうところもうまかったですよね」

 実際、一緒にプレーしていた明神は、「名波さんたちが中心になって、自分のことで精いっぱいの若い選手をチームにどう融合させていくかを考え、言ってしまえば、シドニー組が気持ちよくプレーできるようにしてくれたことが、チームをいい方向へ向かわせたんだと思います」と語る。



アジアカップ優勝とトルシエ監督との関係について語る名波浩氏

 とはいえ、このアジアカップで際立つ存在感を示した名波も、実はこれがおよそ4カ月ぶりの日本代表選出。加えて前回の招集以前にしても、必ずしもトルシエと良好な関係が築けていたわけではなかった。

 1999年6月、パラグアイで開かれたコパ・アメリカに、日本が招待出場したときのことである。

 0-4と大敗したパラグアイ戦で、名波は先発出場しながらハーフタイムでの交代を命じられた。自身のパフォーマンスは悪くなかったと感じていただけに、本人にとってはおよそ納得し難い交代である。

 それでも名波はくすぶった不満を抑えつつ、試合後はドーピング検査の対象となっていたため、ひとりドーピングルームに詰めていた。すると、壁一枚を挟んだ名波の背中で、たまたまトルシエの囲み取材が始まった。

 記者の質問にあれこれと答えるトルシエ。そのなかのひと言に耳を疑った。一般に「名波は一生リーダーになれない」と言ったと伝えられる発言である。

「そんな言い方じゃなかった気はするけど、あいつを中心にはチームを作れない、作らない、みたいな。もうちょっと強い言葉だったけど、そんな感じの話でした」

 それを聞いたときは、もちろん腹が立った。しばらく怒りは収まらなかった。

 だが、このアジアカップに必要な戦力として呼んでもらったときには、もう引きずるものはなかった。それどころか、再び選んでくれたことに感謝すらしていた。

 イタリア・セリエAのベネツィアで1999-2000シーズンを過ごし、その後もヨーロッパでプレーできる道を探していた名波。ところが、移籍先は見つからず、アジアカップの登録メンバーに加えられたのは、古巣の磐田との契約を済ませて間もない頃だった。

「あのときはアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)で、香港のクラブ相手に1試合出ただけで、ほぼ公式戦に出ていなかったからね」

 実質3カ月も試合から遠ざかっていたにもかかわらず、トルシエはアジア制覇を目指すチームに名波を加えた。前年にトルシエが地球の裏側で口にした言葉が、どこまで本気のものだったかは知る由もないが、その事実だけで本心はうかがえた。

 一方で、選ばれた名波にとっても、このアジアカップが貴重な舞台となったのは間違いない。セリエAを経た自身の成長と同時に、その成長が日本代表の強化へと直結することも確認できたからである。

「特に守備のところは、楽をしなくなりましたよね。連続で追えるようになったり、最短距離でボールまでいけるようになったり。日本に戻ってトレーニングをしていても、ジュビロの選手の動きがゆっくりに見える感じがありましたから。

 もともと、(守備で)自分がボールを取るのが好きじゃないというか、得意じゃなかったけれど、それが(ボールを取りに)いけるようになって、実際に(ボールを)取れるシーンが、あのアジアカップはすごく多かった。そこはもう圧倒的に成長した部分だったと思います。この大会で6試合やって、体が一番しんどいときでも頭はすごくクリアだったのは、イタリアでの1年のおかげはあったと思います」

 日本を代表するテクニシャンが泥臭い役割をもいとわなくなったとき、彼が大会MVPに選ばれるのも、そして日本がアジアの頂点に立つのも、必然の結果だった。

 うれしそうにカップを掲げたフランス人指揮官には、それがわかっていた、のかもしれない。

(おわり)