Jリーグの歴史を紐解けば、外国籍選手の存在を抜きには語れない。規格外のパフォーマンスで今季のJ1を席巻する柏レイソルのオルンガのように、いつの時代も強烈な"助っ人たち"がチームの浮沈を左右する影響力を放っている。 開幕当初はジーコ、リトバ…

 Jリーグの歴史を紐解けば、外国籍選手の存在を抜きには語れない。規格外のパフォーマンスで今季のJ1を席巻する柏レイソルのオルンガのように、いつの時代も強烈な"助っ人たち"がチームの浮沈を左右する影響力を放っている。

 開幕当初はジーコ、リトバルスキー、リネカー、ブッフバルトら、すでに峠を過ぎていたとはいえ、世界的な知名度を備えたスター選手たちで賑わった。しかし"バブル期"は長く続かず、各クラブは身の丈に合った補強にとどまり、ワールドクラスの獲得はほぼなくなった。



東京V時代のフッキはJリーグレベルを超えていた

 近年になってようやく、親会社が世界戦略を打ち出すヴィッセル神戸がアンドレス・イニエスタ、ダビド・ビジャ、ルーカス・ポドルスキとビッグネームを次々に獲得し、大きな話題を振りまいた。もっとも、巨大なマーケットを備える欧州には太刀打ちできず、全盛期にある世界的名手は今なおJリーグの舞台でお目にかかることができていない。

 とはいえ一方で、来日時には無名であっても、Jリーグで下積み生活を送り、のちに世界に羽ばたいていった選手も存在する。今回はその中から、Jリーグで研磨を積み、母国の代表にまで上り詰めた選手たちを紹介していこう。

 その筆頭は、リーグ黎明期にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に在籍したアモローゾだろう。

 1992年7月にブラジルのグアラニからの期限付き移籍で加入した19歳のストライカーは、サテライトリーグで結果を出しながらも、当時最強を誇ったV川崎の分厚い選手層に阻まれた。外国籍選手枠の影響も受け、ついにJリーグの舞台に立つことがないまま、帰国の途についている。

 その意味ではJリーグの経験がのちの成長を促したとは言い難いが、日本一のタレント軍団のなかに身を置いた日常が、伸び盛りのティーンエイジャーのポテンシャルを開花させたことは想像に難くない。

 グアラニに復帰した1994年、アモローゾはブラジル全国選手権で得点王となると、ついには欧州移籍を実現。イタリアではウディネーゼで、ドイツではドルトムントでそれぞれ得点王に輝いている。

 1995年からはセレソンにも名を連ね、1999年のコパ・アメリカの優勝に貢献。Jリーグの試合にも出られなかった選手が世界的な名手に成長を遂げるとは、これ以上ない出世物語だろう。

 同じブラジル人選手では、フッキの存在も忘れてはならない。

 来日したのは18歳だった2005年。獲得したのは川崎フロンターレである。もっとも、川崎では4人目の外国籍選手の扱いで、出場機会は限られた。

 ブレイクを遂げたのは、当時J2のコンサドーレ札幌にレンタル移籍した2006年。強烈な左足を武器にゴールを量産し、リーグ2位の25ゴールをマークした。さらに東京Vにローンで出た2007年は37ゴールで得点王を獲得するとともに、チームのJ1昇格の立役者となった。

 ともにJ2とはいえ、2シーズンで62得点。フッキは圧巻のパフォーマンスを見せつけた。

 翌年に川崎に復帰するも、2試合出場しただけですぐさま東京Vに再加入。11試合で7得点とJ1でも驚異的なペースでゴールを量産したが、夏にポルトへと移籍した。

 超人的なフィジカルを備え、左足から放たれるシュートは驚愕の弾道でネットに突き刺さった。そのパワフルなプレーはJリーグレベルを超えていたが、一方でレフェリングに文句をつけ警告を受けることも多く、試合後に「Jリーグ、ムリ」とカメラに向かって不満を爆発させることもあった。

 その振る舞いから悪童のイメージがついたものの、フッキが欧州に渡ったあとに東京Vは大きく低迷し、1年でJ2に降格したことからも、その影響力は絶大だった。

 Jリーグの枠に収まり切らなかった男は欧州でもその力を見せつけ、2009年にブラジル代表に選出。母国で開かれた2014年のワールドカップにも出場している。

 このふたりとも劣らないシンデレラストーリーを歩んだのは、京都パープルサンガでプレーしたパク・チソンだろう。

 韓国の大学に在学していた2000年に京都に加入すると、J2に降格した2001年にレギュラーに定着。豊富な運動量と高い攻撃センスを駆使し、1年でのJ1復帰に貢献した。

 翌2002年はウイングにポジションを移し、松井大輔、黒部光昭と強力な3トップを形成。同年の天皇杯優勝を置き土産に、オランダのPSVへと旅立った。

 PSVを経て加入したマンチェスター・ユナイテッドでの活躍は、周知のとおり。献身性と汎用性を武器に7シーズンに渡って主力としてプレーし、大事な試合で結果を出す勝負強さも光った。

 2000年から2011年まで名を連ねた韓国代表キャップ数は100。アジアサッカーの歴史にその名を刻む偉大なプレーヤーの原点もまた、Jリーグにあったのだ。

 コートジボワール代表に上り詰めたドゥンビアも、Jリーグからのし上がったワールドクラスのひとりだ。

 2006年、19歳の時に来日し、柏レイソルでプレー。切れのあるドリブルを駆使してガムシャラにゴールに向かうアタッカーは、一方でプレーに波があり、在籍2シーズンで主軸とはなりえなかった。

 しかし、2008年に徳島ヴォルティスにレンタル移籍すると、16試合で7得点とゴールを量産。そして同年には日本で行なわれたキリンカップでコートジボワール代表デビューを果たしている。

 6月にはスイスのヤングボーイズに移籍したことで、日本では大きなインパクトを放ったわけではない。だが、本田圭佑と同僚となったCSKAモスクワでは2度の得点王に輝き、のちにイタリアやイングランドでもプレー。2010年のワールドカップにも出場するなど、輝かしいキャリアを歩んでいる。

 ここで紹介した4人が、Jリーグ経由で世界に羽ばたいた"出世頭"だろう。変わり種では、浦和レッズでブレイクし、のちに国籍を取得したカタールで代表となったエメルソンもいる。だが、当時のルールでは資格がないとことが明らかとなり、代表での実績よりも、その騒動のほうが話題となった。

"出世頭"の4人に共通するのは、若くして来日したこと。そして、試合経験にかかわらず、そのポテンシャルを刺激する文化や土壌がJリーグにはあったのだろう。

 現在のJリーグにも、浦和のレオナルドをはじめ、二十歳前後で日本にやって来た選手は数多く在籍する。Jリーグで揉まれた彼らが今後、ワールドクラスになる可能性も十分にあるはずだ。今のうちにその雄姿を焼きつけておくことをオススメする。