新型コロナウイルスの影響により、多くのアスリートが競技ができない状況のもと不安や焦りと闘う中、幾度のケガや病気を乗り越え、さらに進化を遂げながら水泳界で数々の日本新記録をたたき出してきた男がいる。アテネ五輪をきっかけに「オリンピックに出るこ…
新型コロナウイルスの影響により、多くのアスリートが競技ができない状況のもと不安や焦りと闘う中、幾度のケガや病気を乗り越え、さらに進化を遂げながら水泳界で数々の日本新記録をたたき出してきた男がいる。アテネ五輪をきっかけに「オリンピックに出ること」を目指して競技を続けてきた塩浦慎理は、一年後の延期となった特別な舞台・東京五輪へ向けて、現状をどう乗り越えるのか――。
(インタビュー、構成=阿保幸菜[REAL SPORTS編集部]、写真提供=イトマンスイミングスクール)
「日本新記録」はオリンピックに出るための通過点
塩浦選手は日本を代表するスイマーとして、学生時代から数々の大会で優勝や日本新記録を成し遂げてきましたが、競技生活の中で特に印象に残っていることは?
塩浦:高校3年生の時にインターハイ(全国高等学校総合体育大会水泳競技大会 男子50m・100m自由形)で優勝した時とか、初めて(2013年)日本選手権(水泳競技大会)で優勝した時ですかね。あとは初出場した(2016年リオデジャネイロ)五輪も特別な大会だったし、その時々で印象に残る出来事はあります。
その中でも、自身にとってターニングポイントとなった出来事はありますか?
塩浦:中学1年生の時に(2004年)アテネ五輪を見て、オリンピックに出たいと強く思うようになったのが一番かなと。そのためにまずは代表選手になることを目指そうと思った瞬間でした。
競技生活における最初の目標が、オリンピックだったんですね。
塩浦:そうですね。そこに向けてどうしていくか考えていって、例えば世代では絶対に負けられないし、次の段階では自分より上の選手たちを倒していかなきゃいけない。じゃあ、何年頃までに日本一になっていなきゃいけないなとか、そういうことを逆算しながら考えてえてやってきました。
アテネ五輪を見た時から、ご自身の目標をかなえるための計画をスタートしたんですね。すごいですね。
塩浦:オリンピックは4年ごとに開催されるので、2008年の時は高校2年生だったのでまだ間に合わないと思って。現実的にはその次の2012年ロンドン五輪の時に代表に入ると考えたら、前の年には日本で一番になっていたいなと。日本は特に自由形の選考が厳しく、日本一になるだけじゃまだまだ足りないと考えていましたね。
その過程において、学生時代から日本新記録を樹立してきていますが、記録を更新することがモチベーションというわけではなく、その先の目標へ向けた通過点として、日本一を取らなきゃいけないという意識だったのですね。
塩浦:そうですね。2012年の五輪に出るために最低でも日本一になって、できたら日本新記録を出しておきたいなっていうのがありました。それぐらいのレベルでようやくオリンピックに届くかなと思ったので。
ふるいに“残る側”にもう一度行きたい
そんな中、ケガの影響で代表を逸してしまい水泳から離れた時期があったそうですね……。そこから立ち直って、翌年の日本選手権で日本新記録を樹立して世界水泳選手権大会の代表メンバーに選出されましたが、すごい切り替え力ですよね。
塩浦:最近、世界ジュニア(水泳選手権大会)にも一緒に行った先輩と話していて思ったことがあって。例えば中学生以上を対象とした競泳選手の強化制度があり、中学生から高校生あたりのトップ選手が男女150人ぐらい集まって合宿を行います。そこでは「必ずこの中からオリンピック代表選手が出る」という説明があって。そりゃそうなんですよね、トップ選手が集まってるわけですから。でも結局その中でオリンピックに行けたのは男女合わせて数人でした。その年の日本トップレベルの高校生たちが参加した遠征とかでも、その先に進めるのは一握り、毎年ふるいにかけられるっていうことをずっと言われ続けていました。
実際「そこに勝ち残らないと」という意識でやってきたんですけど。2012年のロンドン五輪に関しては、ふるいにかけられた時に“残れなかった側”に自分はなってしまったと思ったらそこで一気に気持ちが冷めてしまい、もう水泳をやることはないなって思ってたんですけど。スポーツは0か100みたいなところがあるので、“残る側”にもう一度行きたいという思いが湧き上がって、また頑張ってこれたんだと思います。
壁にぶち当たったのは、それが初めてだったのですか?
塩浦:それが一番大きかったですけど、そこに至るまでにいろんな壁はありました。例えば、中学生の時には中学年代の日本記録も出して、当時日本で一番強かった湘南工科大学附属高校に進学したんですけど、高校1年生のシーズンは全然活躍できなくて。その時は、インターハイで決勝に残れない種目とかもあったので、すごく壁にぶち当たったのを感じましたね。
毎回毎回ふるいにかけられるプレッシャーって、普通に生活をしているとなかなかないことですよね。そういう時、水泳が嫌いになったりしなかったのですか?
塩浦:なんだかんだで水泳は好きなんですけど、オリンピックに行けなかった時とかは、「僕は行けない側の人間だったんだ、もう水泳はいいや」って思ってました。
水泳から離れていた時期はどういうふうに過ごしていたのですか?
塩浦:大学生だったので、遊びに行ったり酒飲んだりとか、そういう大学生らしい過ごし方をしてましたね。あとは就職活動する年だったので、いろんな説明会に行ったり(笑)。水泳をやらないってことは仕事をして生きていかなきゃいけないので。
でも結局水泳に戻って、翌年の日本選手権で日本新記録をたたき出したのはまたすごいことだと思います。改めて自信を取り戻す出来事だったのでは?
塩浦:はい。こんなに水泳を続けるとは思わなかったですけど、やっぱり水泳が好きです。
もう一つのターニングポイントとして、2018年秋に扁桃周囲膿瘍の手術で2回入院された後に、翌年4月に行われた日本選手権で日本新記録を樹立、そして7月の世界選手権で日本人18年ぶりの決勝進出を果たしています。療養中は体重も筋肉もだいぶ落ちると思うんですけど、復帰後わずか数カ月でむしろ進化したような印象を受けました。普通に考えたらネガティブに捉えられるようなピンチをチャンスに変えてこられたのは、なぜだと思いますか?
塩浦:入院生活で2カ月ぐらい泳げない期間があって、その期間はやっぱり泳ぎたいっていう気持ちがすごく出てきて。2014年から社会人になり、泳ぐことでお金をもらうという生活になって当時は「社会人としてお金ももらっているし頑張らなきゃ」という感覚もありました。でも、泳げない時期に「やっぱり水泳が好きだな」というのが再認識できたんですよね。そこから前向きに競技に取り組めるようになったのは大きかったと思います。
今も新型コロナウイルスの影響で泳げない時期ですけど、ここから復帰するのは簡単ではないけど、健康な状態の今なら、あの時に比べれば簡単だろうと前向きに捉えられますし。
なかなか好きなことだけをしていくというのは難しいですけど、自分がやっている仕事を好きになるっていうのはすごく大事なことだと思うし、ワクワクするようなことを今後も続けていきたいなと思っているので。仕事として何かやるなら、それを好きになるというのがすごく大事なのかなと僕は思いますね。
スポーツ選手に限らず、どんな人でも仕事を毎日こなすだけになってしまったら面白くなくなってしまいますよね。
塩浦:もったいないですよね。生活のためだと考えると簡単な話ではないんですけど……。
「好きなことを仕事にできる人は恵まれている」というような意見もありますが、仕事のモチベーションを上げるにはどうしたらいいと思いますか?
塩浦:うーん……やっぱり好きになる努力ですかね。あとは、今目の前にある仕事をとにかく頑張ってやってみるっていうのも大事かなと思います。頑張ってみないと分からないですよね。意外と好きだったっていうこともあるかもしれないし。
一生懸命取り組んでいるうちに気づくこともあるかもしれないですね。
<了>
PROFILE
塩浦慎理(しおうら・しんり)
1991年11月26日生まれ、神奈川県出身。イトマン東進所属。2歳から水泳を始める。湘南工科大学附属高校3年次に全国高等学校総合体育大会で男子50m・100m自由形で優勝、全国JOCジュニアオリンピックカップ水泳競技大会で高校生日本新記録を出して優勝。中央大学へ進学後、2013年日本選手権水泳競技大会で男子50m自由形で日本新記録を樹立し、初出場を果たした世界水泳選手権大会では400mメドレーリレーで銅メダルを獲得。2014年には50m自由形で日本人初となる21秒台へ突入を果たす。2016年日本選手権 100m自由形で日本新記録を更新し、リオデジャネイロ五輪出場を勝ち取った。手術入院を乗り越え復帰後の2019年日本選手権では50m自由形優勝・100m自由形準優勝を果たし、自由形短距離界で東京五輪での活躍が期待される選手。
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