ついに新たな歴史の扉が開かれた。

 第98回全国高校サッカー選手権大会準々決勝で、新潟県代表の帝京長岡が宮城県代表の仙台育英を1-0で下し、準決勝進出。これは帝京長岡にとって2年連続7回目の出場にして初めての、と同時に、新潟県勢初のベスト4進出でもある。

 過去に2度、準々決勝敗退を味わっていた帝京長岡が、3度目の正直で乗り越えたベスト8の壁だった。キャプテンのMF谷内田(やちだ)哲平が語る。

「歴史を変えられたことを一番うれしく思う」



新潟県勢初の4強入りを決めた帝京長岡

 新潟県勢にとっては、”マイルストーン”とも言える記念すべき試合は、非常に厳しいものだった。

 高い位置から激しくプレッシャーをかけてくる仙台育英によって、帝京長岡は持ち味であるパスワークを封じられ、なかなかリズムに乗れなかった。奪ったボールをシンプルに前線へ送ってくる仙台育英の攻撃にも手を焼いた。

 チームを率いる古沢徹監督は「苦しいゲーム展開だった」と言い、谷内田もまた、「試合内容はあまりよくなかった」と認める。

 しかし、だからこそ、試合開始からわずか30秒ほどで決まった、先制ゴールが大きかった。

 左サイドでスローインを受けたFW晴山岬が、胸トラップからドリブルで縦に持ち出し、ゴールラインぎりぎりからクロス。ところが、仙台育英ディフェンスはボールがゴールラインを割ったと判断し、足を止めてしまう。その瞬間のスキを見逃さなかった谷内田が、ゴール前へ走り込み、難なくワンタッチで仕留めた。

 結局、互いにそれほど多くの決定機を作れなかった試合は、”スミイチ”で決着。帝京長岡が虎の子の1点を守り切り、勝利を収めた。

 今大会4ゴールのエースストライカー、晴山が笑顔で語る。

「歴史を変えなきゃいけない使命感があったので、ホッとしている」

 今大会で98回目を数える選手権。その長い歴史のなかで、新潟県勢が初めてベスト8に名を連ねたのは第63回大会、すなわち、昭和59年(1984年)度のことである。

 初の準々決勝進出を果たしたのは、当時7年連続7回目の出場だった新潟工業。県内では無敵を誇る強豪校も、全国大会の壁は厚く、それまでに出場した6大会のうち、初戦を突破できたのは2回だけ。その2回にしても2戦目で敗退していた。7回目の挑戦にしてようやくたどり着いたベスト8は、のちにJリーグで活躍し、日本代表にも選出されたFW神田勝夫(現アルビレックス新潟・強化部長)を擁しての悲願成就だった。

 お世辞にもサッカー強豪県とは言えなかった新潟県で、それがいかに一大事だったかは、大会後、地元テレビ局で初のベスト8進出を祝う特別番組が放送されたことでもわかる。まさに、県を挙げての歓喜のときだったわけだ。

 だが、初の快挙達成は同時に、長く厳しい歴史の始まりでもあった。

 その後、日本では1993年のJリーグ誕生をきっかけに、サッカーが全国へ広く深く普及し、すそ野が大きく拡大。選手権でも、一部の強豪県の代表だけが勝ち上がる時代は終わり、群雄割拠の時代へと移り変わった。

 しかし、新潟県勢は、と言えば、そんな時代の流れに乗り遅れていた。雪国・新潟と似た環境にある東北勢(青森山田、盛岡商業)や、北陸勢(富山第一、星稜)が全国制覇を成し遂げるなか、優勝はおろか、準々決勝の壁を破ることもできなかった。

 いや、それ以前に、昭和の時代の新潟工業以来、27年もの間、準々決勝へ駒を進めることさえできなかったのだから、後進県のレッテルを貼られても仕方がなかった。

 そんな新潟県にあって、新潟工業以来、28年ぶりに選手権の準々決勝へ進出したのが、第91回大会の帝京長岡だった。

 稀代のプレーメイカー、MF小塚和季(現・大分トリニータ所属)を擁する帝京長岡は、準々決勝で京都橘に1-2で敗れはしたが、テクニック重視のスタイルは大きなインパクトを残した。

 そして帝京長岡は、昨年度の第97回大会でも再びベスト8へ進出。尚志に0-1で敗れ、またしてもベスト4には届かなかったが、当時の先発メンバーのうち6人が残った今大会こそは、ベスト8の壁を破れるのではないか。そんな期待が高まるなか、この準々決勝は満を持しての3度目の挑戦だったのである。

 かつて、新潟県の高校サッカーを引っ張っていたのは、新潟市内の高校だった。新潟工業をはじめ、新潟西、東京学館新潟、新潟明訓、北越、高志、さらには一昨年度の選手権で初出場ながらベスト8進出を果たした日本文理や、開志JSCといった新興勢力も台頭してきている。

 そんな新潟市優勢の勢力図を大きく塗り替えたのが、長岡市にある帝京長岡だった。

 帝京長岡は、第79回大会で選手権初出場。第84回大会には2度目の出場を果たすが、いずれも初戦敗退。高校年代を強化するためには、中学年代での選手育成が不可欠であるとの考えから、当時、帝京長岡を率いていた谷口哲朗監督(現・総監督)らが中心となり、長岡ジュニアユースFC(以下、JYFC)を設立。最近8年間の選手権で、帝京長岡がベスト8以上の成績を3度も残しているのは、地道な強化が実を結んだ成果である。

 仙台育英戦の先発メンバーのうち、JYFC出身は6人。そのひとりである、MF本田翔英が語る。

「JYFCでは、相手を外すトラップやワンタッチパス、パスワークのリズムなどを重視している。そのスタイルが、帝京長岡のサッカーに合っているので、(選手同士の)意思の疎通がしやすい」

 とはいえ、DF吉田晴稀は、「(新潟県勢初のベスト4進出を成し遂げた)実感はあるが、目標はここではない」ときっぱり。キャプテンの谷内田も、「目標は日本一」と言い切る。

 98回目にして、ようやくたどり着いた未踏の地。だが、現在の帝京長岡の選手たちにとって、新潟がサッカー後進県だった時代は、彼らの記憶にはない、はるか昔の話である。

 FW矢尾板岳斗は、35年前に新潟県勢が初めてベスト8に進出したときのことなど、「たぶん新潟工業だと思うんですけど……」という程度にしか知らないながらも、「自分たちも(新潟の)プライドを持ってやっているので、新潟県代表として(初の)ベスト4はうれしい」と笑顔。それでも、「青森山田に勝つためのトレーニングをやってきた」と、あくまでも”その先”を見据える。

「(準々決勝突破という結果は)この1年間だけで越えられたものではない。今まで新潟県のサッカーが積み上げてきたものだと思う」

 古沢監督はそう語り、初のベスト4進出にも浮かれることなく、まずは先人たちに敬意を表す。しかし、彼らが日々の活動のなかで目標としてきたのは、ただひとつ。新潟県勢の最高成績を残すことではなく、全国制覇なのだ。

 晴山が、それまで穏やかだった表情を一瞬引き締めて、語る。

「(新潟県勢が長くベスト4の壁を破れず)帝京長岡OB以外にも、悔しい思いをしていいた人は多いと思う。そのためにも、あと2勝したい」

 歴史は塗り替えた。だが、帝京長岡の挑戦は、これからが本番である。