【連載】チームを変えるコーチの言葉~大村巌(5) 2020年からDeNAの二軍打撃コーチに就任する大村巌は、ロッテで…
【連載】チームを変えるコーチの言葉~大村巌(5)
2020年からDeNAの二軍打撃コーチに就任する大村巌は、ロッテで現役時代を過ごした。北海道・東海大四高(現・東海大札幌)時代は2年時にエースとして夏の甲子園に出場。打撃にも光るものがあり、1987年のドラフトで6位指名を受けて入団するとすぐに外野手に転向。
しばらくファーム暮らしが続くなか、指導者の教えを素直に聞き入れていたが、指導に疑問を持つ時期もあったという。はたして、その経験は自らのコーチングにどう生かされたのか。これまで14年間で3球団、いずれも一軍・二軍双方で指導してきた大村に聞いた。

現役時代、アメリカへの野球留学が大きな転機になったと語る大村巌
「僕の現役時代のコーチとのコミュニケーション。最初の頃はまず『お前はこれをやれ』と言われて、『はい』しかなかったです。また、ある日、それとは違うことを言われて、『お前はこうだ』、『はい』と。田舎から出てきて、ちゃんとコーチの意見を聞いて、そのとおりにやっていればうまくなるんだ、って信じていましたからね。でも、レギュラーになっていく選手って、『そんなの関係ないよー!』って言うような性格だったんです」
よく「聞く耳を持つ」といわれる。選手がコーチの意見をすべて受け入れていたら、自分を見失いかねない。かといって、全意見を突っぱねたら人間関係に亀裂が生じる。だから聞く耳を持って、全意見をいったんは受け入れて、自分に有効なものだけを残しながら、右の耳から左の耳へと聞き流す。それができる選手がレギュラーになっていった反面、大村にはできなかった。
「言われましたよ、コーチに。『お前、右から左でいいんだよ』と。でも僕にしたら、あなたが『これをやれ』って言ったんじゃないですかって(笑)。真剣に聞いていたのに、聞いてないのと同じになっちゃう、と思って……。それからちょっと、疑問に思った時期があるんです。僕がこうやりたいっていう意見をなぜ受け入れてくれないんだろうと。『まあそれがプロなんだ』と納得するしかなかったですね、当時は」
なかには、自分の意見を聞いてくれるコーチもいた。が、結局は結果がすべて。成績が上がらなければ、ゴールまでのプロセスは選べなかった。毎年、言われるがままに打撃フォームを変えていき、シーズン中に2回、3回と変わるときもあった。それでも結果につながらないから、試合後、たったひとりで打撃練習する日々が続いた。
「そこまでいった時、自分のものをつくりたい、と思い始めたんですね。毎年毎年、変わるんじゃなくて。自分で考えて、発想して、生み出して、これをものにするまで一生懸命に練習するんだ、と吹っ切れるきっかけはありました。それはもう、自分がこのまま来年ダメだったらこの世界にいないだろう、と思い始めた頃。プロに入って、5~6年目ぐらいだったと思います」
5年目の92年、9月30日の対オリックス戦。大村は7番・レフトでスタメンに抜擢され、プロ初出場を果たす。翌93年には初安打、初本塁打も記録して50打席に立ったが、94年は一軍出場ならず。それでも95年、米マイナー1Aのチームに野球留学した経験がひとつの転機になる。ロッテから野手4人、投手7人が選ばれたなかのひとりとして参加した。
「打撃コーチの方がすごく親身になってくれて。ある日、僕が打てなくて黙っていると、そのコーチが『昨日、大村の夢を見た。4安打したんだ』って言うんです。ウソかもしれない(笑)。でも、そんなに気にかけてくれてるんだ、と思って。そしたらその日、3安打しましたけど、そうやってコーチがモチベーションを上げることが実際にあるんだ、と学びました」
調子が悪い時に「お前はいい選手だから自信を持て。できる、大丈夫だ」と励まされ、本当に気分が変わって結果が出た日もあった。大切なのは気持ちだ、と教えてもらった。その年から一軍出場が増えた大村は「来年ダメだったら」ではなくなり、99年には自身初の2ケタ本塁打。2003年まで16年間の現役生活を送れたのも、野球留学という転機があったからなのだが、それは大村にとってコーチングの起点でもあったのだ。
「引退して、解説者になって2年後、二軍のコーチとして日本ハムに入団した時、一発目に球団代表に言われたんです。『ウチは”誰々のおかげ”とか、”オレが教えた”とか、そんなの評価しませんから』って。うわ、いいチームだな、と感じました。すごく僕が言いたかったところでもあり、そういう方針の球団なら大丈夫だと思えたんです」
まさに、大村の現役時代、「お前はこれをやれ」と言われ、仮に1週間後に改善されて結果が出れば、「オレがあれを言ったからよくなったな」と言われかねなかった。「ダメなら選手の責任、よかったらコーチの手柄」とするような悪しき関係性は、今も完全になくなったわけではないが、当時はそこかしこにあった。
「でも、それは反面教師でね、こちらが勉強していけばいいので。過去のコーチがダメだ、ダメだって、僕も思った時期はあったんですけど、今は過去のコーチがすべて教えてくれたなと思います。自分が今あるのは、すべての人のおかげだなと。だから『こうしよう』という発想が出てくるし、これからもそれを実践していきたいんです」
大村が理想とするコーチングは「オレが教えた」とは正反対。選手自身がコーチに教えられたとは気づかないまま、自発的に取り組んでいる状態にしたいという。
「コーチとしての僕の役目は、遠回しでもいいので、選手にアイデアを出してあげる。アイデアに選手が共感して、たとえば1年後、振り返った時に『あれ、自分が考えてやったんですよ』と言ってもらったら、僕の成功なんです。人から与えられたものは離れていくので、自分からやったんだという記憶になるようにしたい。だって、選手とコーチは何年かしたら離れますから、この世界は。離れた状態を前提に逆算して、自立させないといけないですから」
そんな大村にとって、今、コーチとして最もうれしい瞬間は、選手からこれまでになかった質問をされたときだという。
「あれ、そんなこと聞くようになったの? という。たとえば、試合中なら『今ピッチャーがこうなってきているから、こうですよね?』とか。あるいは『僕はこうやってますけど、合ってますか?』とか、『この練習、今こういう状態ですけど、ほかにどんな方法がありますか?』とか。とくに、それまで一度も言われなかった選手に聞かれると、成長したな、と感じてうれしくなります。もちろん試合で結果が出るのもうれしいですけど、それ以上ですね」
5年ぶりに復帰するチーム。若手からの質問がどれだけ出てくるだろうか。
「今の選手は賢いですから、どんな質問にもちゃんと答えられる頭とハートで準備しておかないとダメですね。ただ愛想よく『ハイ、ハイ』と返事されて終わりですよ。このコーチにはこう言っておけばいいや、と。だから僕自身、いろんな勉強をしないといけないし、そのうえで選手にひと言でも残る言葉を伝えたい。その選手の野球だけじゃなく、現役を終わった後の人生の指針となるような言葉を残してあげたいですね」
つづく
(=敬称略)