高校野球の京都大会の開幕が迫っていたある日、京都共栄学園監督の神前俊彦(かみまえ・としひこ)と電話で話をする機会があった。会話のなかで、今度、智辯和歌山前監督の高嶋仁(現・名誉監督)に会うという話をすると、神前はこう言ってきた。「なら…

 高校野球の京都大会の開幕が迫っていたある日、京都共栄学園監督の神前俊彦(かみまえ・としひこ)と電話で話をする機会があった。会話のなかで、今度、智辯和歌山前監督の高嶋仁(現・名誉監督)に会うという話をすると、神前はこう言ってきた。

「なら、高嶋さんに聞いといてくださいよ。夏のない夏はどうですか、と」



2015年から京都共栄学園の指揮を執る神前俊彦監督

 夏のない夏──つまりは、戦いのない夏、勝利を求めない夏、甲子園を目指さない夏……という意味だ。高嶋より10歳若い神前だが、京都では最年長監督となる63歳。いつまでこの生活が続くのかという思いも浮かぶなか、甲子園歴代最多勝監督の”夏のない夏”に興味が向いたようだ。

「高校野球の監督というのは、3秒に1回決断をくだして、ボタンを押すのが仕事。それでゲームの勝敗が分かれ、チームの運命も決まってくる。50年近く、そうした生活を送ってきた高嶋さんが、夏のない夏をどう過ごしているのか、どう感じているのか……聞いてみたいなぁ」

 神前の名前は、和歌山市にある地名”神前(こうざき)”に由来する。いかにもご利益がありそうな名前だが、かつて大阪の高校野球界、公立高校の野球関係者の間で特別な響きを持っていた。

 1982年の夏、練習時間1時間半、公立の進学校である春日丘(かすがおか)が、その年のセンバツで優勝し、春の大阪大会、近畿大会を制したPL学園を準々決勝で撃破。さらに準決勝、決勝でも強豪私学を破り、誰も想像していなかった甲子園出場を果たしたのだ。

 ちなみに、高校の公立校の甲子園出場は、1990年の渋谷(しぶたに)が最後で、甲子園での勝利となると、この時の春日丘(初戦で長野・丸子実業に勝利し、2回戦で敗退)が最後となる。今も語り継がれる夏を演出したのが春日丘OBで、指揮を執って2年目の神前だった。

 高校野球の醍醐味が詰まったサクセスストーリーと同時に、マスコミは26歳(当時)の青年監督に興味津々となった。

 神前は、監督業の傍ら”本業”を持つサラリーマンで、しかも務めていた会社は誰もが知る超大手。たちまち”時の人”となった。しかし学校側の諸事情により、監督業は翌年3月までとなった。

 それから先は、社業のなかにも「あの夏に味わった達成感や感動があるはず」と、企業人として人生をまっとうするはずだった。ところが15年が過ぎた頃、「あれ以上のものはない」と悟ってしまったのだ。1997年に母校の監督に復帰し、再び”二足のわらじ”を履いた。

 その後、岡山へ転勤になった時もあったが、金曜日の夜に新幹線で大阪に入り、土日に指導して、日曜日の夜に岡山へ戻るという執念の生活で乗り切った。1年半後に大阪に戻ったが、さまざまな制約の多い公立校の野球部を率いて、激戦区・大阪の頂点を目指し挑み続けてきた。

「もう少し時間があれば、力のある選手がいれば、設備が整っていれば……勝てない理由を探してボヤくなら、やらんほうがまし。人、モノ、お金、グラウンド、時間……ないないづくしを、あるあるづくしに変えていかなあかんのよ」

 春日丘時代によく聞いた言葉だ。練習時間確保のため、グラウンド内のダッシュや着替え時間の短縮を徹底。狭いスペースに折り畳み式の鳥かご(ケージ)を含め、最大8カ所で打てるように工夫したフリー打撃や、選手がノッカーとなり一斉に行なうノックなど、春日丘のグラウンドには知恵と工夫が詰まっていた。「使える」と思ったものは、迷わず取り入れ、試すのが”神前流”だ。

 練習が休みになる試験期間中に有給休暇を充て、全国の高校を訪ね歩いた。駒大苫小牧、八重山商工、興南、清峰、佐賀北、帝京……。また、毎年2月にはプロ野球のキャンプ地を回り、ある年はアメリカに渡ってメジャーキャンプ巡りまで敢行した。ビデオカメラに収めた各チームの練習法を持ち帰り、選手たちと何度も見返しながら興味のあるものは即メニューに取り入れた。

「所詮マネやないかという人もいるけど、ここまでネタを仕入れる気がありますか、と。2つならマネごとでも、3つやったらオリジナル。これが私の持論です」

 ところが再登板から17年が過ぎた2014年12月、神前は再び春日丘を去ることになった。もちろん自ら望んだものではなかったが、今の時代、とくに公立校の部活における外部監督の難しさが絡んだ結果でもあった。じつはこの時、残りの人生を高校野球の監督として過ごす覚悟を決め、すでに早期退職で会社を離れていたのだ。

 突然”失業者”となった神前だが、ここから1年は母校である関西学院大のコーチ、縁のあった鳥取県の高校に出向いての指導に励んだ。すべてボランティアだったが、勝負の世界へ戻れることを頑なに信じ、グラウンドに立ち続けた。

 この揺るぎない思いが、京都共栄学園との縁をつないだ。男女共学の私立校で、野球部は甲子園出場経験がない。それまで「打倒・私学」を掲げ、野球人生を送ってきた神前だったが、グラウンドへの復帰に迷いはなかった。

 学校がある福知山で単身生活を始め、練習が終わるとナイター中継か、録画しておいた野球の試合を見ながら食事。風呂に入り、ニュースを見ながらマッサージ器で体を整え、眠りにつく。

 朝は、朝練に出て、生徒が授業に向かうと、ネット裏にある小部屋にこもり、選手と行なっている野球ノートの返事を書き、練習メニューを考える。その後、一旦帰宅し、掃除、昼食をとり、グラウンドへ向かう。雇われの野球部監督という生活。大会スケジュールをにらみながら会社に有給休暇届を出す手間はなくなったが、これまでにない重圧がのしかかる。

「ほかの人からすれば、好きな野球をやって、お金をもらって、うらやましい生活やと思うやろうね。もちろん、私学は結果がすべて。プレッシャーはきついし、寿命を縮めながらやっています。それでも60歳を超えても好きな野球ができ、監督として勝負の世界におれるというね、こんな幸せなことはない。ここにはお金で買えないものがあるからね」

 いざなかに入ってみると、「あるある」と思っていた私学もそうではないということがわかった。京都共栄学園のグラウンドは、特殊な形状で右翼が50メートルしかなく、通常のバッティング練習もシートノックもできない。週2回のペースで近隣の福知山球場などを借りて実戦練習を行ない、雨が降れば校舎の階段などで他の部活と共有しながらのトレーニング。その風景は春日丘時代となんら変わらない。

 ただ戦力的には、やはり私学。春日丘時代に比べれば、身体能力という点でワンランク上を感じさせる選手が一定数いる。なにより時間だ。理事長、校長との面談で「練習時間はどれくらい必要ですか」と聞かれ、「3時間あれば十分です」と答えていたが、平日は4時間。春日丘時代を思えば、練習時間は十分ある。

 こうした状況のなか、生徒への指導は「公立が私学に勝つにはな……」のひと言はなくなったが、肝は変わらない。

「勝つにはどうしたらええかと言えば、まずは勝てると思うこと。勝負は、勝てると思えば勝てるし、負けると思えば負けてしまう。思ったら、次は言葉にすること。『甲子園に行けたらいい』ではなく、『絶対に甲子園に行きます』と。生徒にそこまで思わせるためには、指導者が勝つことを信じて疑わないこと。これがないと始まらない」

 春日丘時代もバット5本、破れかけのボール10数個を使い野球ごっこを楽しんでいた子どもたちに「やればできる」と信じ込ませたことが奇跡への一歩だった。

 実戦指導のなかでは「無駄なことはしない」「できることをやる」が、神前のこだわりの2本柱である。

「負けるときは、みんな自分から負けにいくんです。フォアボール、エラー、ミス……これらがなくただ打たれるだけなら5点、投手が低めにボールを集められたら3点に抑えられる。よく選手には『入場資格をクリアしなさい』と言うけど、フォアボール、エラー、走塁ミス、バントミス、サインミス、盗塁を許す。この6つをしている間はいつまでたっても甲子園から招待状は届かない。逆にそこをクリアできたら”何が起きるの?”というゲームになるんですよ」

 37年前の夏も、華奢なエースが丹念に低めを突き、捕手の肩は強く、バックは堅実な守備で盛り上げた。攻撃でも、バントを確実に決め、全力疾走を徹底。やるべきことをやった先に、PL戦では本塁打2本という想定外のことも起きた。

 新天地でここまで丸3年が経った。最高成績は2017年春のベスト8で、まだ大きな結果は残せていない。ただ環境は、年々整いつつある。グラウンドの脇にはトレーニング機器が並び、雨天でもダッシュや素振りが可能な屋根付きの通路もできた。大半は、神前の自費でまかなったものだ。また現3年生は、初めて入学から関わった選手たちで、神前の野球が浸透するまでの時間も随分と早くなった。

 そんな折、予期せぬアクシデントに見舞われた。今年3月、局地的な豪雨によりグラウンドの三塁側傾斜部分が崩れたのだ。近隣住民は長らくの避難生活を強いられ、現在もグラウンドにはショベルカーが常在。立ち入り禁止は解かれたが、もとから広くないグラウンドはさらに狭くなった。それでも神前は「災害を経験して得たものは大きい」と前を向く。

 選手たちは野球ができる喜びを実感し、仲間への思いやりも増した。練習にも工夫が生まれ、集中力もアップ。

 そして迎えた京都での4度目の夏。

 初戦の相手は鳥羽。夏の甲子園第1回大会の優勝校で、京都屈指の伝統校だ。さらに今春の京都大会でベスト4入りし、夏は堂々のシード校である。いきなりの大一番となったが、試合前、記者から展開の予想を尋ねられた神前はこう言った。

「展開の予想はしないんです。試合は常にイーブンで始まり、投手がストライクを投げ、捕手が二塁送球をしっかりできれば、結果はどう転ぶかわからないのが高校野球。だからウチの選手に対しても、この相手なら抑えてくれるだろう、この投手なら打ってくれるだろうという、安易な期待や予測はしません」

 試合はいきなり初回から2失点のスタートとなった。だが中盤からは流れをつかみ、5回表に逆転すると、最後は5対2で勝利。鮮やかな逆転勝利で難敵を破った。

 試合後、報道陣の前に現れた神前の第一声は「たまたまですよ。年の功です」だった。この試合で冴えたのは、3人の投手を起用した継投だった。

 先発したエースが本来の出来ではないと判断すると、2回頭からスイッチ。背番号10の2番手が試合を落ち着かせると、逆転して迎えた7回裏、二死一、三塁で3番の左打者を迎えた場面で2年生左腕を投入。攻めの継投がズバリとはまった。

 そして2回戦の相手は西舞鶴。ここも公立校ながら、春の大会で実力校と大接戦を演じるなど一発を秘めるチームだったが、4対1で勝利。初戦に続き、この試合も3人の投手でつなぎ、最後は1年生で締めるという大胆起用が的中した。

 2試合とも安打数では相手を下回ったが、犠打は初戦で7個、2回戦で5個をきっちり決め、守りもノーエラー。余計なことはせず、やるべきことをしっかり果たした結果だった。

 3回戦は7月20日の第1試合、相手は公立校の洛東だ。

「できることをきっちりやって、余計なことをしない。ここをやりきった時、何が起こるか……ですね」

 神前が挑む24回目の夏は、いよいよ佳境に入ってくる。

「24回目ということは、23回負けてきたということ。でも、だからと言って次負けるとは限らないのがこの世界やからね。あの夏も、春夏連覇を狙っていたPLを春日丘が倒すなんて誰が思っていたか。面白くも厄介な、高校野球とはそういうものなんですよ」

“夏のある夏”を過ごしている幸せを噛みしめながら、63歳の職業監督はただ勝つことだけを信じ、京都を戦い抜く。