世界2位の快挙から20年……今だから語る「黄金世代」の実態第13回:酒井友之(3) 酒井友之は、1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で全7試合にフル出場して準優勝を果たし、シ…

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第13回:酒井友之(3)

 酒井友之は、1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で全7試合にフル出場して準優勝を果たし、シドニー五輪でもレギュラーとしてプレーした。順調にキャリアを重ねていった酒井が次に目指したのが、2002年日韓W杯出場だった。



世界2位から20年。現在、酒井はジュニアユースチームの指導にあたっている

 2002年、ワールドカップイヤーの1月に約40名程度の選手が招集され、代表合宿が始まった。酒井も招集され、最後のメンバー争いを戦う気持ちになったが、実際に合宿に参加するとチームのレベルの高さに驚いたという。

「多くの選手が招集されていたし、カズさん(三浦知良)やゴンさん(中山雅史)もいて、あーすごいメンバーだなって思いました。実際、本当にみんなうまかった。自分はワールドユースもシドニー五輪も技術の高さで選ばれたわけではないので、今の自分がA代表で勝負するのはちょっとキツいなあって思っていました」

 酒井は、最終的に日韓W杯の23名のメンバーに選出されなかった。

 ナイジェリアワールドユース組からは小野伸二、稲本潤一、中田浩二、小笠原満男らが入り、また同世代では市川大祐と曽ヶ端準が選出された。

「A代表に絡んでいけなかったのは残念でした。でも、入ったメンバーを見ると、すごい選手ばっかりで、ちょっとそこに自分がというイメージは持てなかったですね」

 酒井は、2001年にジェフユナイテッド市原から名古屋グランパスエイトに移籍し、2004年に浦和レッドダイヤモンズに移籍した。ユーティリティープレイヤーとして活躍したが、2007年途中には出場機会を求めてヴィッセル神戸入り。2008年は腰痛の手術のためにリハビリ中心となり、同年に神戸を退団した。

 2009年8月に斎藤俊秀が監督を務める藤枝MYFCに入団し、4カ月限定でプレーする。その後、湘南ベルマーレや愛媛FCに練習参加したが契約に至らず。トライアウトを経てインドネシアのスーパリーグに属するチームに入団した。

 何が酒井をここまで現役へと駆り立てたのだろうか。

「ケガして、そのまま引退するのが嫌だったんです。まだ、30歳過ぎでやれると思っていたし、ワールドユースで準優勝した仲間が元気にプレーしていたから、先に引退したくないという思いが強かったですね」

 酒井にとっては、この東南アジアでのプレーが、初めての海外移籍になった。

「最初、五輪とか代表に入った選手が、何でインドネシアに来てサッカーやっているんだって言われたんですよ。僕はただ現役を続けたい思いだけで行ったんですが、インドネシアの選手からすると日本はW杯常連国で強い印象しかないですからね。実際、プレーしてみるとサッカーの環境や住環境とか含めて、日本の当たり前が向こうでは当たり前じゃないし、しかも適当なことが多くてそれはもうストレスでしかなかったです。でも、そういう違いが、最終的に自分にとってワールドユースの準優勝と同じぐらいいい経験になったし、自分の強みになりました」

 酒井は、インドネシアで3年間プレーした後、2013年8月に現役を引退した。

 すぐに浦和のハートフルクラブでスクールのコーチを始め、幼稚園や小学校のスクールを4年半ほど経験した後、2017年からジュニアチームのコーチを始めた。

「僕はジェフのジュニアユース育ちですし、スクールを4年半やっているうちに育成に興味が出てきたんです。今はアカデミーセンターでジュニアユース(U-15)のコーチをしています。まずは育成で経験を積んで、いずれ東南アジアとかクラブ提携しているところで育成年代を指導してみたいなという気持ちもあります。同世代の仲間も指導者になっているのが多いですね。昨年、ツジ(辻本茂輝)と会ったんですが、あいつは早く引退したけど、その分コーチとしての経験をたくさん積んでいる。今回、ティアモ枚方の監督になったし、『いい経験がたくさんできてうらやましいよ』っていう話をしました」

 酒井は、ジュニアユースの指導を楽しんでいるという。小学生では、酒井が伝える技術や戦術をなかなか理解できないことが多いが、ジュニアユースのレベルになると理解して、指導したことをピッチで具現化できるからだ。ただ、いい選手はいるが、「なかなか小野伸二を超えるレベルの選手は出てこない」と苦笑する。


「伸二(写真中央)はひとりだけ違うレベルでサッカーをしていた」(酒井・写真左。写真右は手島和希)

 photo by Yanagawa Go

「(小野)伸二と初めて会ったのは15歳の時だったんですけど、ひとりだけ違うレベルでサッカーをしていた。何をやると伸二みたいな選手になるのかなあ……わからないですね(苦笑)。僕がジュニアユースのころは、マラドーナが好きで自由にやっていたんです。今の子は型にハマりやすいので、小さい時から自分のやりたいこと、特徴を伸ばしていくような指導を続けていかないといけないかなって思っています」

 ジュニアユースの選手たちは、酒井の現役のころのプレーを知らない。だが、浦和でプレーしたことやワールドユースで準優勝したことを知っている選手は多い。親の世代になると、酒井のことを良く知り、「あの(黄金)世代ですよね」と言われることも多いという。

「黄金世代って言われるのは、単純にうれしいですよ。サッカーをやってきた僕の同年代とか、上の世代の人たちはもちろん、サッカーをやらないファンの人も『黄金世代ですね』と覚えてくれているから。話をしていて『伸二やイナ(稲本)とかと同世代です』というと、『あーそうなんだよね』と思い出してくれる人もいる。名前を出すとあらためてすごいメンバーとやっていたんだなって自分でも思うし、あのメンバーと一緒にサッカーをやれたのは本当にラッキーだったなと思います」

 ワールドユース準優勝から20年経過した今もなお、酒井たちが達成した記録は破られていない。あれから日本サッカーは成長し、W杯は98年フランス大会を含めると6大会連続で出場している。香川真司や長友佑都らビッグクラブでプレーする選手も生まれた。プラチナ世代など、特別な名称をつけられた世代もあるが、準優勝の輝きを超える世代は出てきていない。

「20年前と比べると日本サッカーのレベルが上がってきているし、全然違うものになってきている。でも、自分たちの記録が破られていないのは、ちょっと不思議な感じがしますね。20年前の自分たちが間違いなく世界と戦える力があったということですし、それは誇りに思っています。ただ、ユースでも早く世界で優勝できる世代が出てきてほしいですね。今は、若くして海外に出ていく選手が増えているけど、海外組が全員スタメンになるぐらいになれば、結果が出るのかなと思います」

 酒井がワールドユースで戦った時は、チームでは永井雄一郎が唯一、ドイツ(カールスルーエ)から参戦した海外組だった。今やA代表の選手は全員が海外組になりそう気配だが、東京五輪世代の選手たちも若いうちから海外に渡り、主力としてプレーしている選手も出てきている。

 若い世代が世界に出ていって活躍している中、酒井と同世代の小野伸二や遠藤保仁らも、まだ現役でプレーしている。「すごいこと」と酒井は笑うが、彼らのプレーは気になって今も見ているという。

「同世代の選手にまだまだ頑張ってもらいたい。40歳になってもやれるのは、本当に力があるから。ほんと黄金ですよね(笑)。自分はもう引退してしまったんで、最後までみんなのプレーする姿を見守っていたいなって思います」

 酒井たちの代で引退した選手は、その多くが指導者の道を歩んでいる。

 選手としてだけではなく、今後は指導者として黄金の輝きを発してほしい。そうして彼らの世代が指揮するU-20代表チームが準優勝を超える。その時、黄金世代が時代を席巻したように、日本サッカー界を大きく変える「新・黄金世代」が生まれてくる。

 酒井たちの黄金世代は、そんな未来を描ける世代でもある。

(おわり)

酒井友之
さかい・ともゆき/1979年6月29日生まれ、埼玉県出身。2013年に現役を引退し、浦和レッズのハートフルクラブのコーチに就任。その後ジュニアチームのコーチを務め、現在はジュニアユースチームコーチ。ジェフユナイテッド市原ユース→ジェフユナイテッド市原→名古屋グランパスエイト→浦和レッドダイヤモンズ→ヴィッセル神戸→藤枝MYFC→ペリタ・ジャヤ(インドネシア。以下同)→ペルセワ・ワメナ→ペリシラム・ラージャ・アンパット→デルトラス・シドアルジョ