若手選手の台頭が著しい日本卓球界。その中でひときわ光を放つのが及川瑞基だ。及川は6月の関東学生、7月のインカレも制し、10月には国内の大学生最強を決めるシングルスのトーナメント「全日学」で優勝を果たし、「学生最強」との呼び声も高い。現在、T…

若手選手の台頭が著しい日本卓球界。その中でひときわ光を放つのが及川瑞基だ。及川は6月の関東学生、7月のインカレも制し、10月には国内の大学生最強を決めるシングルスのトーナメント「全日学」で優勝を果たし、「学生最強」との呼び声も高い。現在、Tリーグに所属せずブンデスリーガで修行中の及川。なぜドイツへ渡ったのか。本人執筆で幼少期からその軌跡を紐解く。

「あんなに調子が良かったのにどうして負けた!」

姉に憧れて始めた卓球、僕は憧れの<仙台ジュニア>へと入った。指導者は張本智和の両親だ。最高の環境に身を置き、練習量を増やし、毎日卓球に打ち込んで全日本ホカバに臨むもあえなく予選敗退。さらに練習量を増やし、卓球に打ち込んだ。

それから1年。小学3年生の夏、再びホカバに挑んだ。

この時、すでに卓球歴は3年を超えていた。チームの中の練習試合でも格上や年上の選手に段々勝てるようになり、自信も少しついてきた。ひそかに張本監督からの期待も感じていた。「今年こそはいける。まだ見たことのない舞台に行ける」そんな思いがあった。

でも、そこまで現実は甘くなかった。またも全日本ホカバの予選リーグで一度も勝つことができず、決勝トーナメントに進めなかったのだ。

マッチポイントを取られ、失意の中でベンチに戻ると、オヤジさん張本さんが見たこともないような形相で待っていた。思わずベンチに戻るのを躊躇う。その時、初めて僕は張本監督に怒られた。

「あんなに調子が良かったのにどうして負けた!」

今まで張本監督に指導されたことはあっても、怒鳴られたり、叱られたりしたことはなかったから心底驚いた。その理由は「負けたから」ではない。ましてや「下手だから」でもない。この大会に向けて必死に練習・調整して最高の状態で臨んだにも関わらず、緊張のあまり自分の力を発揮できずに負けてしまったことに対して怒られたのである。

今ならわかる。「余計な緊張」こそが一番の敵なのだ。「負けたらどうしよう…」「もう後がないぞ…」そんな雑念は大舞台でこそ僕の心をジワジワと侵食してくる。胸のあたりを侵食したモヤモヤは手、体中を蝕み、動きを鈍くする。まるで自分の骨が錆びて、ギシギシと軋むロボットになったようだ。だからこそ選手はリラックスするのだ。だが、当時の及川少年にそんなことはまだわかるはずもない。

ただ、大一番での敗北を経て、こんなことを言い聞かせたのだけは覚えている。「ただ練習してるだけじゃダメなんだ。勝ちたい、勝つために練習したい」。

僕の中で、「アスリート」への決意が芽生えた瞬間だった。あれほど多球練習が好きだったのに、基本に立ち返り繰り返し練習した。「すべては勝つために」――。正しいフォームの重要性を感じ、フォームに意識を置くようになったのはこの頃からだ。

必死になって練習していると、僕は仙台ジュニアの中でも選抜クラスである「特別教室」に選ばれた。メンバーは小学5,6年生ばかりで、10人が厳選される。入るためには監督、オーナーにOKされないと入れない。努力の甲斐あって、小3で入ることができた。




全日本カブの部で準優勝を飾った当時の写真

小学校4年生からは目に見えて結果がついてくるようになった。優勝こそできなかったものの、小学4年生でカブの部準優勝、小学6年生ではホープスの部準優勝を果たすことができたのだ。上がる舞台が変われば景色が変わる。生涯のライバルとも言える卓球選手たちと出会うことができた。龍崎東寅(現明治大学)と三部航平(現専修大学)だ。これから幾度となく立ちはだかることになるライバル達だ。

そんなある日、一本の電話が僕の人生を変える。突如「イタガキさん」なる人から電話がかかってきた。僕の頭の中で「イタガキさん」と言えば一人しかいない。青森山田学園卓球部監督の板垣孝司さんだ。

文:及川瑞基