西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(16)【指揮官】ヤクルト・野村克也 後編(前編の記事はこちら>>)「…
西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(16)
【指揮官】ヤクルト・野村克也 後編
(前編の記事はこちら>>)
「伊東よりも、古田のほうが断然上だよ」
――1992年、翌1993年の日本シリーズでは、「野村克也・森祇晶対決」に加えて、スワローズ・古田敦也、ライオンズ・伊東勤の「キャッチャー対決」も話題となりましたね。
野村 1992年は3勝4敗で敗れて、1993年は4勝3敗でヤクルトが勝った。これはやっぱり、古田の成長だよ。オレも経験あるけど、日本シリーズを経験したキャッチャーは、急に腕を上げるものなんです。キャッチャーがもっとも成長する舞台は日本シリーズ。「優勝チームに名捕手あり」なんだね。

野村監督のもとで成長を遂げた古田
photo by Kyodo News
――1992年の敗戦を経て、古田捕手は急成長したわけですね。
野村 日本シリーズというのは、1球たりともおろそかにできないものだから。古田のいいところは、野球頭脳が飛び抜けていいところだったね。いろんなことを覚えるのがとても早くて、何より肩が強かった。手前味噌になるけど、彼はオレと出会えてよかったんじゃないの? 本人は絶対にそんなことは言わないけど(笑)。「功は人に譲れ」というのがキャッチャーなのに、彼の場合は「功は自分のもの」というね。「縁の下の力持ち」とか、「女房役」にはほど遠いよ。
―― 一方の伊東捕手は、この時点ですでに何度もシリーズを経験していました。伊東捕手についてはどう見ていましたか?
野村 伊東については、森監督に悪い先入観を植えつけられていたんです。オレがまだ評論家だった頃、森が監督になったときに「伊東というキャッチャーはどうなんだ?」と尋ねたら、「どうしようもないキャッチャーだ」って言っていたんだよ。それがずっと脳裏に引っかかっていて、ついついそういう目で見てしまっていたんだよね。森はどうして、そんなことを言ったのかな? 自分との比較だったのかな?
――それでは、野村さんの中ではあまり伊東捕手のことは意識していなかった?
野村 古田と伊東を比較すれば、それは古田の方が上でしょう。伊東がいい捕手であることは間違いないけど、森と同様にクソ真面目すぎるところがあるのかな? それに対して古田は、勝負師みたいなところがある。「ここぞ」という場面で、腹をくくったリードができるのが、古田の強みですよ。
「石毛の言うことにも、確かに一理ある」
――当時のライオンズの戦力について、どのように見ていましたか?
野村 何度も言うように、そもそも西武に勝てるとはまったく思っていなかったね。工藤(公康)、渡辺(久信)、郭(泰源)といろいろいたけど、ピッチャーでいえば石井(丈裕)かな。石井は投げっぷりがいい。スライダーだけなら何とかなるけど、シュートもよかったからね。
――打撃陣では、誰をマークしていましたか?
野村 石毛(宏典)かな? たとえば、清原(和博)は内角が打てないけど、石毛には穴がないから。それに頭もよさそうだし。オレの持論は「バッティングは頭だ」と思っているからね。
――この連載において、石毛さんは「ID野球が嫌いだ」とおっしゃっていました。「データに逃げるのではなく、もっとバットを振れ、もっと技術を磨け」とのことでした。
野村 あっ、そう。なるほど、彼の言いたいこともわかるよ。確かに素振りは大事だよ。「基礎、基本、応用」と、段階があるのに今の野球界はそれをおろそかにしているよ。それは石毛の言う通りかもしれない(笑)。
―― 一方のスワローズですが、1992年は岡林洋一投手、1993年は川崎憲次郎投手が大活躍を見せました。両投手についての印象を教えてください。
野村 岡林はコントロールが抜群によかった。コントロールがよかったから勝てたピッチャーだね。川崎は、岡林よりもスピードが一回り上で、それに加えてシュートがよかったね。一時期、江川(卓)が「インコース真っ直ぐ」を流行らせたことがある。そりゃあ、江川ぐらいストレートが速くてコントロールがよければ抑えられるよ。でも、普通のピッチャーなら絶対に打たれる。
――当時の投手陣には、そんな説明をされたのですか?
野村 しましたよ。「インコース真っ直ぐという発想をやめろ。ホームランバッターの餌食になるだけだ」ってね。そして、「オレはヘボバッターだったよ。でも、インコース真っ直ぐなんてヨダレが出たよ」って。そして、川崎には「でも、そこからちょっと体に向かって食い込んでくるボール、これは本当に打ちづらいんだ」って。それで、彼はシュートを覚えて勝ち出した。
森監督を意識して、ライバル視した2年間
――1993年は高津臣吾投手がクローザーとして大活躍しましたね。どうして、彼を抑えに起用したのですか?
野村 まず、性格だよ。彼は動じないから。松井(秀喜)がルーキーのときに「お前の真っすぐを高校生相手に試してこい」って言って、見事にホームランを打たれた。それで、「高校生に打たれるようなピッチャーを抑えには使えない。試合に出たかったら左打者対策を考えろ」って言って、シンカーを磨かせた。フォークボールの代わりがシンカーだったんだね。それが見事にハマって左打者には何も不安がなかったね。
――あらためて、この2年間を振り返っていただきたいのですが、1992年はライオンズ、1993年はスワローズが日本一になりました。両者の決着はついたのでしょうか?
野村 オレはもう一回、やりたかったよ。「まぁ、引き分けでもいいか」っていう気持ちも少しはあるけど、やっぱり決着はつけたかった。だって、「勝負」っていう字を考えてみなよ。「勝ち」と「負け」って書くんだよ。「分け」っていう文字は入らないんだから。
――仮に3度目の対決があったとしたら、どんな戦いになっていましたかね?
野村 どうかな? おそらく、いい勝負はしただろうね。野球はやってみないとわからないけどね。でも、やっぱり引き分けでいいのかも知れない。とにかく、森に刺激を受けたのは事実。決着がつかないまま終わっちゃったけど、それでいいのかもしれないね。

優勝監督インタビューを動画で見ながら当時を振り返る野村氏
photo by Hasegawa Shoichi
――森さんは、「あの2年間は監督同士の戦いでもあった」と言い、「お互いに動きたくても動けなかった」とも言っていました。
野村 現役時代からずっと、「森には負けたくない」と思っていたし、巨人育ちの彼に対してライバル意識も持っていました。そして、監督となって日本シリーズで相対して、1992年は敗れて、1993年は勝った。この2年間はオレにとっても、忘れられない思い出になりましたよ。ギャンブルスタートの一件じゃないけど、理論にないものを学べるのが日本シリーズという大舞台だから。それに、胴上げの瞬間の気持ちは忘れられないからね。
――1993年の胴上げの瞬間は、やはり今でも感慨深いんですね。
野村 うん、胴上げされながら、「選手たちに恨まれていないかな」って不安に思っていたよ。ドーンって落とされるんじゃないかってね(笑)。