「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 中根仁(前編) 三拍子揃った外野手として高い評価を受け、近鉄バファローズにド…

「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 中根仁(前編)

 三拍子揃った外野手として高い評価を受け、近鉄バファローズにドラフト2位指名された中根仁。プロ1年目の1989年からリーグ優勝に貢献し、日本シリーズ出場を果たした。1998年には、移籍した横浜ベイスターズ(現横浜DeNA)で38年ぶりのリーグ優勝、日本一も経験している。

 どこから見ても順風満帆に見えるプロ野球人生。だが、そこには思わぬ落とし穴があった。バブル崩壊の直前にプロの世界に飛び込んだ中根が見た、プロ野球界の金銭事情とは――。

(第3回>「ポスト古田」として契約金7500万円もらった高卒捕手が見たもの)




バファローズで9年、ベイスターズで6年活躍した中根仁

――中根さんは1988年、東京六大学リーグで春秋連覇を果たした法政大学時代にキャプテンを務め、その秋のドラフト2位で近鉄バファローズに入団しました。「打ってよし、守ってよし、走ってもよし」というすごい選手でした。

中根 はい、踊ってもよし!(笑)

――プロ1年目の1989年から一軍で活躍しましたが、ホームラン数は……。

中根 10本です。

――ルーキーイヤーで10本塁打はすごいですね。そのシーズンに放った34本のヒットのうち10本がホームランだったわけですから。そして同年に、読売ジャイアンツとの日本シリーズにも出場しました。

中根 3連勝のあと4連敗した伝説の日本シリーズですね。

――当時の近鉄には、いかにもプロ野球選手という方々がいらっしゃいましたね。

中根 栗橋茂さん、金村義明さん、加藤哲郎さん、山下和彦さん……。たしかに、ちょっと”いかつい人”が多かったですね。みなさんには、よくかわいがっていただきました。ちょうど僕が入団する前の1988年に、「10・19」と語り継がれるロッテオリオンズとのダブルヘッダーがあって、惜しくもリーグ優勝を逃していたんです。先輩たちはその悔しさがあるから、優勝したときにはものすごく喜んでいたんですが、僕は新人だったので、いまひとつピンとこなくて……。

――当時の新聞報道によれば、中根さんの契約金は5300万円、年俸は600万円ということですが、これは正しいですか?

中根 ちょっと違ってますね。たしかに最初はその金額を提示されたんですが、いろいろな先輩から「ドラフト2位なんだから、もっと年俸をもらったほうがいいぞ」と言われて交渉したところ、100万円上がりました。当時の一軍最低年俸が840万円でしたから、2位ならそのくらいだろうと。

――入団前から交渉上手ですね。

中根 でも、「近鉄っていい球団だな」と思っていたら、契約金を100万円下げられましたからね。冗談かと思ったら本気で、「やっぱり噂通りだな」と。

――それでも、1年目でリーグ優勝に貢献したんですから、オフには相当アップしたんじゃないですか?

中根 先輩には「2000万円は狙えるぞ。球団からは最初に1500万円ぐらいで話がくるから粘って上げろ」とアドバイスされて、その気になりました。ところが実際には、球団から「大台に乗りましたよ」と言われて「やった!」と思ったんですが、提示は1000万円。ホームランを10本打っても、チームが優勝しても、その金額でしたね。ビタ一文上げてくれなかった。

――1989年秋のドラフト会議では、野茂英雄投手が1位指名されて入団しましたね。

中根 契約金は1億円でしたね。そこにはすごい差がありました。

――ところで、中根さんは契約金の5200万円はどのように使ったんですか?

中根 お恥ずかしい話……不動産投資をしまして、バブル崩壊のあおりを受けて、借金だけが残りました。このことを結婚してしばらくは嫁に内緒にしていたんですが、そのうちにバレました。

――なんと、契約金が消えてしまったと……。中根さんは9年間バファローズに所属しましたが、最高推定年俸は1997年の4500万円でしたよね。

中根 バファローズ時代は稼いでいる実感がありませんでした。半分は税金ですし、遠征に行ったら後輩の飲み代を出さなきゃいけないので。

――「野武士軍団」と言われた選手たちの遊び方は豪快だったでしょうね。

中根 3連戦があったら、2日間は”先輩のお供”です。大石大二郎さん、金村さん、石井浩郎さん、光山英和さんなどにごちそうしていただきました。居酒屋を3軒くらいハシゴしたこともありますよ。特に光山さんはグルメで、外国人選手が驚くくらいに食べるんです。

――グルメで大食漢!

中根 1日目は大石さんに連れられて、10人くらいで焼肉を食べて飲みに行く。翌日は石井さんとまた同じくらいの人数で出かける。一流選手はすごかったですね。いい伝統だったと思います。3日目には僕が後輩を連れてご飯に行くんですが、最後はスナックでカラオケしてという感じで。そういう日は財布に10万円ぐらいは入れていたと思います。

――プロ野球選手の年俸を見れば、もっと派手に遊んでいそうですが。

中根 僕くらいの年俸では派手には遊べません。みんな、30歳くらいに結婚してマンション買ったりするから、自由に使えるお金が限られているんですよ。「あと何年プロでやれるんだろう」という不安も生じますから。

――35歳まで現役を続けられる選手は少ないですからね。選手同士で食事に行く場合、基本的に年齢の高い人が払うんですか?

中根 はい、そうです。いろいろな先輩に本当によくしていただきました。例外は、野茂ですね。1年後に入ってきて、すぐに年俸がポンポンと上がっていったので、あのくらいになったら、年下でもごちそうしてもらいやすい(笑)。「ここは僕が出しときます」とよく言ってくれました。

 野茂とは仲がよかったのでよく食事に行ったんですが、「どのくらい食うんだ!」っていうくらい、ずっと食べてました。寿司屋ならウニ、トロ、イクラ、ネギトロのヘビーローテーション。ずっと食ってますからね。その寿司屋の代金は僕が払いました(笑)。

――1998年にトレードでベイスターズに移籍しますが、その知らせを聞いたときはどう思いましたか。

中根 ラッキーだなあと。バファローズから仲間がどんどんいなくなっていった時期だったので、違うチームでやりかたった。

――その年にベイスターズは38年ぶりのリーグ優勝を飾り、日本一になるわけですが、どんなチームでしたか。

中根 「若いチームだな」というのが第一印象。それなのに、みんな落ち着いていて大人でしたね。ひとりひとりに実力があって、バッターはむちゃくちゃ打つ。バファローズの強いときと似た印象でした。

 先輩が後輩を連れて街に繰り出すというのも同じでした。僕は、駒田徳広さんにかわいがってもらいましたね。お互い移籍組で、僕は1年目で友達がいなかったこともあって(笑)。駒田さんはジャイアンツ出身だから、社長さんの知り合いが多かった。日本中どこに遠征に行っても、社長がいるんです。一方で、若い選手に「今日、このあと飯どう?」と誘っても、みんな(会食の)予定がいっぱい。あのころのベイスターズ選手たちは人気がありましたね。

――ベイスターズに移籍して驚いたことは?

中根 スタジアムやロッカーがきれいなこと。それと、お客さんがいっぱい入ること。バファローズの本拠地だった藤井寺球場は鳴り物禁止だったので、賑やかだなあとも思いました。バファローズの1年目なんて、優勝争いしているのに、シートノックの段階で外野席に10人ぐらいしか人が入ってなかった。先輩に「お前、(観客の人数を)数えろ」って言われましたよ。

――環境がまったく違ったんですね。

中根 バファローズのときは試合中も静かで、普通に会話や携帯電話の声が聞こえてきました。それに対してベイスターズは、優勝したこともあって、1998年の盛り上がりは本当にすごかった。日本シリーズで優勝したら分配金をもらえるんです。貢献の度合いによって、主力、控え、裏方まで分けられるんだけど、その金額も全然違いました。バファローズのときは、一番多くもらった人でも確か90万円くらい。ベイスターズとは3倍以上の差がありました。

――優勝記念の品も全然違うんですか?

中根 ベイスターズはごっついリングで、60万円以上もしたと聞きました。バファローズのときにはネックレスをもらったんですが、鎖の部分が絡まって……。ある先輩は「ガチャガチャで買えるぞ、これ」と言ってましたね。

(後編につづく)