広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。…

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。

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 以前、フィーバー平山さんは僕の大恩人という話をしたが、同じように長谷川良平さんからも多くの恩を受けているんですよ。公私にわたって何かと目をかけてくれたからね。

 長谷川さんは球団設立当初から広島一筋の人で197勝もしている。何しろ昔のカープで記録した勝ち星だからね。そんな大功労者に現役引退を決意させたのは、巨人の柴田(勲)さんだったようだ。理由を聞くと、ホームランだった。「あんな若造に打たれるようになったら、もうダメじゃ」と。

 当時は名球会がなかったから「200」という数字へのこだわりもなかったんでしょう。何の未練もなくスパッとユニホームを脱いだ。あと3勝ですよ。今思うと実にもったいない。

 投手コーチとしての長谷川さんからは、シュートの握りなんかを教えてもらった。長谷川さんはアンダースローに近いサイドハンド。僕はスリークオーター。プロに入る前からシュートは得意にしていたが、投げ方が近いこともあっていろいろと参考になった。

 監督になったあとも僕をアテにして使ってくれた。巨人キラーにしてもらったのは長谷川さんのおかげでもあるからね。

 あるとき監督室に呼ばれて、こう言われた。

 「おまえをローテーションから外して巨人戦を中心に投げてもらおうと思っとるが、どうか。3連戦でベンチ入りして先発と中継ぎで登板してもらう。3連投だってある。そうなると勝ち星は減るだろうが、それでもええか?」

 僕はどんな形であれ試合に出たかったし、起用法を気にしている余裕などなかったから「お任せします」と答えた。「じゃあいいんじゃね」と言って“巨人戦専用”みたいにして使ってくれた。

 その後、巨人戦は2倍の評価をしてもらえるようになった。うれしかったですよ。巨人戦なら沖縄でも放送があったし。

 グラウンドを離れたところでも随分かわいがってもらったね。長谷川さんはお酒は飲めなかったが、僕を連れてよくクラブやキャバレーへ出かけた。

 目的は社交ダンス。当時、はやっていてね。遠征先にも行きつけの店があって。出身地の名古屋では“地元の顔”として歓迎されてましたよ。

 僕はダンスが苦手だからもっぱら飲む方。二人ともダンスばかりだと、さすがに「何しに来たの?」という雰囲気になるからね。それもあって僕を連れ出していたのかもしれない。

 長谷川さんがユニホームを脱ぎ、僕もユニホームを脱いだあと、お互い野球解説者として重なる時期もあったが、そうなっても自宅へ呼んでもらったりして親交は続いたね。沖縄から出てきた人間だということをずっと気に掛けてくれていたのかもしれない。

 小さな大投手と呼ばれていたけど、本当にその通りで全身がバネのようだった。一人でチームの半分ぐらい勝ったこともあったし、長谷川さんがいなかったらカープという球団は身売りしとったんではないかと思うぐらい、なくてはならない人だったね。

 気持ちが強くてハートは優しい。カープでは人間的にも選手としても長谷川さんがナンバーワンじゃろね。残した功績は一番だと僕は思っていますよ。

 ◇安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。