<とっておきメモ>8月10日に81歳で死去した日本サッカー界「史上最高ストライカー」釜本邦茂さんの「お別れの会」が22日…
<とっておきメモ>
8月10日に81歳で死去した日本サッカー界「史上最高ストライカー」釜本邦茂さんの「お別れの会」が22日、都内で開催された。
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「僕はもしかしたらプロ野球選手になっていたかもしれないよ」
釜本さんは大阪・梅田にあるトンテキ店のカウンターで、飲もうとしたアイスコーヒーのストローを小さなバットに見立ててちょっとだけ振り、笑った。
幼少期から野球が大好きだった。「本当は中学で野球部に入ろうと思ったんだよ。でも、『野球ではせいぜいアメリカ。サッカーなら世界に行けるぞ』と説得されてね…それでサッカーに。まあ、これは有名な話だけどな」。中学時代から“京都に釜本あり”の存在だったが「憧れていたのは早稲田実業の王貞治さんだった。高校野球のスターで『やっぱ野球だな』とその時も思っていたよ」。
早大時代に、すでに巨人で大活躍していた王氏(現ソフトバンク会長)と対面した。「一緒に野球をしたこともあるんだよ。その時に僕のバッティングを見て『君なら今からでもプロ野球選手になれるよ』と言ってくれてね。うれしかったなあ。ちょっとだけ(転向を)真剣に考えたよ」。男子サッカー日本代表歴代1位75得点を積み重ねた体も、王さんのトレーニング法をまねたこともある。「これは、僕のオリジナルだけどね」とし「一本足打法じゃないけれど、一本足でジャンプしてヘディングしたりとか…。それは荒れたグラウンドでも体がブレたりしないことにつながっている気がするんだよ。“一本足ヘッド”だな、ガハハハ」。
サッカーだけでなく、野球を含めた日本スポーツ界の発展を望んでいた釜本さん。見るのも、やるのも大好きだった。「世界のホームラン王は王さんしかいないけれど、僕は出塁して、走って、ホームにかえってくる回数は多かったかもしれないよね」。“世界の得点王”と称されていた可能性も-。
コロナ禍がまん延してきたころ、「日刊スポーツで僕と王さんの対談やってくれよ。子供たちの育成とか、日本のスポーツ界を盛り上げるにはどうしていくかとか話してみたいよね」の願いを記者に伝えていただいたこともあった。「お別れの会」で献花に訪れた王氏との“再会”を目の前にし、釜本さんが旅立った悲しみ、悔しさが、こみ上げてきた。【元サッカー担当=鎌田直秀】
◆釜本邦茂(かまもと・くにしげ)1944年(昭19)4月15日生まれ、京都市出身。太秦小時代にサッカーを本格的に始め、山城高から早大に進学し、2年時に64年東京五輪に出場。68年メキシコ五輪では7得点を挙げ得点王となり銅メダルを獲得。日本代表国際Aマッチ通算76試合出場75得点は男子歴代1位。ヤンマーでは7度の日本リーグ得点王と4度の優勝、通算251試合202得点で84年に現役引退。現役時は公称179センチ、75キロだが、実際は181センチ。JリーグではG大阪の初代監督を務め、日本協会でも副会長などを歴任。政界でも95年から参議院議員を1期務めた。06年日本サッカー殿堂入り。趣味はゴルフ、時代劇観賞。血液型B。