日付は4月15日になった。 この日を特別な思いで迎えるのが、中日ドラゴンズのブライト健太だ。ガーナ人の父と日本人の母との間に生まれ、2022年にドラフト1位で入団した外野手だ。 日本のプロ野球で4月15日はただの1日に過ぎないが、メジャー…
日付は4月15日になった。
この日を特別な思いで迎えるのが、中日ドラゴンズのブライト健太だ。ガーナ人の父と日本人の母との間に生まれ、2022年にドラフト1位で入団した外野手だ。
日本のプロ野球で4月15日はただの1日に過ぎないが、メジャーリーグでは「ジャッキー・ロビンソン・デー」として位置づけられている。
プロ4年目を迎えた中日・ブライト健太
photo by Koike Yoshihiro
【ジャッキー・ロビンソンへの憧れ】
1947年のこの日、黒人選手として初めてメジャーリーグの試合に出場したのが、ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)に所属していたジャッキー・ロビンソンだ。当時のアメリカはまだ人種差別が根強く残っていたが、彼はそれに屈することなく、その年の新人王に選出され、1949年にはナショナル・リーグMVPにも輝いた。
10シーズンで通算打率.311、137本塁打、197盗塁の成績を残すなど、チームの勝利に貢献した。1962年に野球殿堂入りし、72年に53歳の若さでこの世を去った。
そのロビンソンの功績と精神を称え、メジャーリーグでは毎年4月15日の試合は全選手が彼の背番号「42」を着けてプレーする。ちなみに、この背番号は全球団共通の永久欠番である。
そんなロビンソンに子どもの頃から憧れを抱いていたブライトも、日々、背番号「42」を背負って練習、試合に臨んでいる。来月26歳になるブライトはこう語る。
「ジャッキーさんに憧れて野球をしている人は、世界中にたくさんいると思います。僕もそのひとりとして、自分の思いを表したかったので、この番号を選ばせていただきました」
とはいえ、ブライトはアメリカに行ったことはない。また父親のジョンさんも30代で来日するまで、野球に馴染みがなかったという。ではなぜ、ロビンソンへの思いが芽生えたのか。
「小学校の高学年か中学に入ったくらいの頃だったと思うんですけど、父と一緒に『42』という映画を見たんです。すごく勇気をもらって、それからずっとこの背番号を着けたいと思っていました」
映画『42〜世界を変えた男〜』は、2013年にアメリカで制作された作品で、ハリソン・フォードがロビンソンを支えたGM役を演じ、ジャッキー・ロビンソン役には、のちに『ブラックパンサー』で有名になるチャドウィック・ボーズマンが務めた。アメリカでは大ヒットとなったが、日本に住むひとりの少年の人生に大きな影響を与えるとは想像もしていなかったはずだ。
【大学で背番号42を着けなかった理由】
ただ、その映画より先に、ブライトが野球に関心を持つようになったのは、父の影響だった。ブライトはこう話す。
「小さい頃から父とよくキャッチボールしていました。本当に楽しくて、大切な時間でした。家の近くの公園で、柔らかいボールと軽いバットを使ってよく遊んでいました。よく父がボールを投げてくれて、それを打っていました。一緒にバッティングセンターにも行きました。父は野球をやったことがなかったのですが、バッティングは意外と力強かったです(笑)」
ブライトは東京都足立区の少年野球チームに入り本格的に野球を始めたが、父とロビンソンの映画を見て、新たな感動を受けたという。
「ジャッキーさんの姿勢がとても印象的でした。ヤジに対して、感情的になるのではなく結果で見返すという強さ。自己管理や自律という部分でも尊敬できる方で、ジャッキーさんの姿を見て、僕も頑張ろうと勇気をもらいました」
都立葛飾野高から上武大に進学後も野球を続けたが、当時は背番号42を着けることはなかった。その理由について、ブライトはこう語る。
「大学で42番を着けるのは、自分のなかでなんか違うな......と思ったんです。着けるなら、やっぱり最高峰の舞台である『プロで!』と思っていました。それがジャッキーさんに対する最大の敬意だと思っていましたし、僕のモチベーションにもなっていました」
その夢が叶ったのは、2021年10月11日のドラフト会議だった。ブライトは中日から単独1位指名を受けたのだ。憧れの背番号42は空き番になっていたため、迷わず選んだ。
しかも中日のユニフォームは、青地の「Dragons」のロゴ、赤色の背番号と、ドジャースのユニフォームによく似ている。練習中にそのユニフォームを着たブライトを見たある人が、「ロビンソンのようだ」と言ったこともあったという。その話を聞いたブライトは、笑顔を見せた。
「光栄です。そう言ってもらえるのは、本当にうれしいです。ちょっと縁を感じますね」
【気合いを入れて特別な一日に臨む】
さらに、深い縁を感じさせるこんなエピソードがある。じつは、ロビンソンが最後にドジャースのユニフォームを着たのは日本だった。
1956年のシーズン終了後、ドジャースは来日し、19試合の親善ツアーを行なった。その最終戦は11月13日に北九州の平和台球場だった。1対1の同点の9回表、ロビンソンは大映スターズ(現・ロッテ)の三浦方義(まさよし)から勝ち越しのヒットを放った。その試合を最後にアメリカに帰国したロビンソンは、現役引退を発表したのだ。この話を聞いたブライトは、またしても目を輝かせた。
「本当ですか? まったく知りませんでした。まさか最後にユニフォームを着たのが日本だったなんて......うれしいのはもちろんですが、すごく身近に感じますね」
プロ野球選手になった今も、映画を見返すことはあるのか尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「10回以上は見ています。特に結果が出ない時とか、苦しい時に見ますね。プロに入ってからもよく見ています(笑)。いま自分が置かれている状況と、当時のジャッキーさんを比べたら、全然苦しくないと思いますし、これくらいのことでネガティブになってはいけないなと。ほんとに励まされています」
プロ4年目となる今シーズン。4月15日という特別な一日を迎えるにあたり、ブライトに心境を聞いた。
「ジャッキーさんのことを知らない人も多いと思いますが、僕にとっては憧れであり、尊敬する存在です。彼の映画を見たことで、自分のなかで頑張れている部分はあります。本当に特別な日ですので、気合いを入れて試合に臨みます。ただ、これまで4月15日は気合いが入りすぎて、あまり成績はよくないんです。なので、今年はちょっと冷静にいきたいです(笑)」
初めて一軍で迎えた2023年は、バンテリンドームでの巨人戦。0対3とビハインドの5回一死一塁の場面で代打出場したが、空振り三振に終わった。昨年は月曜日だったため、試合がなかったが、今年はマツダスタジアムでの広島戦が予定されている。ここまで(4月14日現在)ブライトは10試合に出場して、打率.333(12打数4安打)をマーク。6日のヤクルト戦、9日の広島戦では決勝の一打を放つなど、存在を示している。
心に「ジャッキー・ロビンソン・デー」を抱いて戦う中日の背番号42番は、どんなプレーを見せてくれるのか。今から楽しみでならない。