皆川(みなかわ)鉄雄さん(43)は16歳の時、バイクの事故で右足を失った。何日も続いた昏睡(こんすい)状態から目を覚ま…
皆川(みなかわ)鉄雄さん(43)は16歳の時、バイクの事故で右足を失った。何日も続いた昏睡(こんすい)状態から目を覚ますと、医師は手術で太ももから下を切断したと告げた。いま振り返れば、取り乱すことはなく、ゆっくりと現実を受け止めていった。
片足だけになっても、体を動かす運動がしたかった。ただ、障害者スポーツの情報を得るのは難しかった。どこで、何ができるのか。どう調べればいいのかさえ分からなかった。一人、地元・水戸市内のプールで泳ぐことしかできなかった。
大学3年生だった2003年、床に座ったままプレーするシッティングバレーボールを知った。義足を作ってくれた義肢装具士に、負傷前は中学校でバレーボール部員だったと話すと、当時の日本代表の選手に引き合わせてくれた。プレーを見て衝撃を受けた。「すごい人たちがいるんだ。自分も代表になりたい」。夢ができた。
08年、初めて代表に選ばれ、パラリンピック北京大会に出場した。27歳だった。21年の東京大会は40歳で迎えた。いずれも8位でメダルには届かず、28年ロサンゼルス大会での雪辱を期す。
6、7年前のこと。一人の男性からSNSを通じて連絡が来た。今はパラカヌー選手の朝日省一さん(52)=茨城県かすみがうら市=だった。交通事故で両足を失い、1年間入院した。何かスポーツをやりたいが、シッティングバレーはできるだろうかとの相談だった。自分と同じように、パラスポーツの情報を得るのに苦労したようだった。
昨年8月、一般社団法人茨城パラスポーツ協会を設立し、理事長に就いた。朝日さんが、主に資金面で選手への支援を募る団体を作りたいと考えたのがきっかけだった。パラスポーツの振興、障害への理解促進などを目的に掲げる。
小学3年生の女子児童を含め、9人の選手が所属する。パラカヌーやシッティングバレーの体験会を開き、パラスポーツを紹介する。多くの人にその存在と魅力を知ってもらいたい。何より、障害者が、自分たちの経験した「情報の壁」に行き詰まらないよう、スポーツと出会うための窓口になりたい。
「障害者がスポーツで活躍する姿を見て『かっこいいな』と思ってもらえると、スポーツをやるきっかけになる。そこから、アスリートを目指す人が増えるような環境を作りたい」
東京大会の後、一度は代表を退いた。すると、同級生のコーチから「メダル獲得の夢に向かって一緒に走ってくれないか」と言われた。年齢的な難しさは感じていたが、必要とされる限り頑張れる。そう思って、1年後に復帰した。
自分にとってシッティングバレーは、「夢と行動力を育む財産」だと思う。かつて自分が感じたように、「今度は私自身が、若い人たちに夢を与え、目標にされるような選手になりたい」。(福田祥史)