春夏を通じ、初の甲子園初出場を果たしたおかやま山陽の堤尚彦監督は、こうしたコラムに登場してもらうには不似合いな人かもしれない。なぜなら、限られた分量の中に書き込みたいエピソードが多過ぎるからだ。おかやま山陽を春夏通じて初の甲子園へと導…

 春夏を通じ、初の甲子園初出場を果たしたおかやま山陽の堤尚彦監督は、こうしたコラムに登場してもらうには不似合いな人かもしれない。なぜなら、限られた分量の中に書き込みたいエピソードが多過ぎるからだ。



おかやま山陽を春夏通じて初の甲子園へと導いた堤尚彦監督

 生まれは兵庫県の加東市。小学4年から東京へ移り、世田谷リトルで本格的に野球を始め、中学生になっても続ける予定だった。しかし、中学1年のとき、現在は内閣府に務める成績優秀な兄をテストの点数で超え、その達成感からか勉強だけでなく、野球からもフェードアウト。エネルギーは”ヤンチャ方面”へ集中していった。

 周りの大人たちを煩(わずら)わせ、家では母と壮絶な攻防を繰り返す毎日。やがて「接触プレーOK。退場しても2分で戻れる。お前の好きなことが合法的にできるぞ!」と、顧問の誘いに乗ってハンドボール部に入部。「右45度のエース」となるも、ヤンチャは続いた。

 一方で、胸のなかにくすぶり続けていた野球への思いは、進学を考えるなかで出会った一冊の本によって火がついた。ある青年監督が、東京の離島にある都立大島高校の監督となって奮闘する様子が描かれた『甲子園の心を求めて―高校野球の汗と涙とともに』(佐藤道輔著/報知新聞社)だ。

 この本に大きな感銘を受け、「自分も都立の高校で野球を……」と、都立千歳(現・都立芦花)に進学。ここからは全身で野球にのめり込んだ。ただ、3年夏は主将を務め、4番を任されるも初戦敗退。静かに高校野球生活を終えた。その後、クリーニング工場で働くフリーター生活を1年し、東北福祉大へと進む。

 当時の東北福祉大は、最上級生に金本知憲(現・阪神監督)や斎藤隆(元ドジャースなど)らが揃っていた黄金期。「自分は選手としてはまったくで、思い出と言えば、10トン車が列をなして運んでくる砂から小石を取り除く作業をひたすらやったこと。そのおかげで腕だけは太くなりました」と堤は笑うが、3年秋に引退勧告を受け、そこからはバイト三昧。そんな日々のなかで、堤の人生は劇的に動き始めていく。

 ある夜、ぼんやりテレビを見ていると、アフリカ大陸南部に位置するジンバブエでボランティアとして野球を教える日本人(同国の野球普及に取り組んだ初代野球隊員の村井洋介氏)と現地の子どもたちとの交流を描いた番組が流れていた。その夏、アフリカの地から日本にやって来た子どもたちが東京ドームでプロ野球を観戦。さらに、海を知らない子どもたちに海を見せようと大島へ寄り、少年野球チームとも交流するという内容だった。そんな番組の最後に、村井の思いが綴られたテロップが流れた。

「道具がない、グラウンドがない、お金がない。そんなことは問題じゃない。最大の問題は、自分のあと、野球を教えに来てくれる日本人がいなくなることなんだ」

 この言葉を目にした瞬間、堤のなかに突き上げてくるような衝動が走った。世界中に野球を広めたい――すぐにテレビ局に電話をかけ、「自分が行きます」と伝えた。その後、JICA(国際協力機構)の窓口を紹介され、手続きを踏み、各種試験を受験した。超難関の狭き門だったが、2度目の挑戦で晴れて青年海外協力隊に合格。その後、福島県の施設で約90日間に及ぶ合宿生活を行ない、備えた。

「毎日、食事はカロリーの高いものばかり出てきて、聞けば『途上国に派遣されると、みんな痩せるから』と。あとは、何もないところから水を得る方法を学んだり……。これは湿気が少し高そうな土を見つけて、その上にビニールの一方に木の枝の先端を刺して立て、ビニールを斜めにして土を覆うんです。するとビニールの内側に水滴ができて、それを集めて水を得るんです。護身術も習いましたし、鳥の解体も……。生きるための術を習う合宿でしたね。ただ、スポーツ隊員として派遣される場所は、ほぼ街。僕が行ったのもジンバブエの第二の都市・ブラワヨというところのスラム街でした。身につけた技術を発揮するような場所ではなかったです」

 1995年、堤は満を持してジンバブエに向かった。野球隊員5人と現地の小学校やセカンダリースクール(日本で言う中学と高校にあたる学校)を片っ端から回り、営業した。たとえば、こんなやりとりだ。

「ベースボールを教えさせてください!」
「オー! バスケットボール!」
「ノーノー、ベースボール!」
「……」

 ジンバブエでスポーツといえば、サッカーとクリケットで、ベースボールは馴染みが薄い。最初は話が弾まなかった。それでも少しずつ熱意が伝わり、体育の授業枠として採用してくれる学校が増えた。月曜から金曜まで各日5コマ、計25校で野球の授業を行なうようになった。ただ、そこでもすんなりとはいかなかった。

「『初めてやると面白そう』となって、2回目の授業では一気に200~300人の生徒が集まるんです。でも、グラブは20個ほど、バットにいたっては2本しかないから、ほとんどの子どもたちが道具に触れることができないんです。それで3回目には5~6人になって、『ベースボールはつまらない』と。そう言われるとショックで、『違う、違う、ベースボールは面白いんだ。やったら面白いんだ』と言っても伝わらない。とにかく、日本の知り合いに連絡を取って、野球道具を送ってもらうのが大きな仕事でしたね」

 当初は現地の大人たちの反応も冷ややかで、突然、石やとうもろこしの芯を投げつけられることもあった。それでも「自分たちの国の子どもに新しい遊びを教えてくれる謎の東洋人みたいな感じで、徐々に受け入れられるようになっていったんです」と堤は笑った。

 野球を広めるための”種蒔き”の2年間は、充実のなかで終わった。帰国後は「貧富の差はなぜ生まれるのか」のテーマを勉強するため、大学院へ通った。ところが、それからまもなくして、外務省の関係者から連絡が入った。シドニー五輪へ向け、国として友好関係にあり、支援を続けてきたガーナで野球指導をしてほしいという依頼だった。

 現場の空気が懐かしくなり始めていた時期、大学院を休学すると、堤はすぐさまガーナへ飛んだ。ジンバブエでは堤が先頭に立って動いたが、組織だったものにしていかないと継続的な支援は続かないと実感。ガーナではそれなりに野球のできるナショナルチームを堤が指導し、普及に向けた子どもたちの指導はナショナルチームの選手に任せた。

 結局ガーナは、シドニー五輪のアフリカ予選で3位に終わり、本大会出場はならなかったが、ここでも地元の野球熱を上げ、活動を終えた。

 2度目の帰国後は一転、福岡で会社を立ち上げたばかりの社長に見込まれ、ビジネスマンになった。日本に広く浸透する前のスポーツマネジメント業や各種イベントを手掛けていきたいという社長のビジョンに、「先々、野球の世界普及につながるかも……」と誘いを受けた。

 ここでやった主な仕事は、青汁で有名なアサヒ緑健のCMを手掛けたことだ。芸能人や飲食店店主などが登場し、闘病からの復活を物語った、あのCMだ。

「3本目までがまったくダメで、5本で打ち切りの話も出ていたのですが、4本目が大反響となり、商品も大ヒット。ドキュメント通販番組のはしりです」

 順調なビジネスマン生活を送りながらも、野球との関わりは続いていた。2000年からアジア野球連盟のインストラクターとして毎年2月にタイで行なわれる野球講習会に参加。すると、活動のなかで親交を深めた前田祐吉(元慶応大野球部監督で、2006年までアジア野球連盟の事務局長)から、今度は2004年に開催するアテネ五輪に向け、インドネシアチームのコーチ要請を受けた。

 現地での指導は限られたが、札幌で開催されたアテネ五輪予選を兼ねたアジア選手権に参加。一次予選で敗退したが、フィリピンからインドネシア史上初の勝利を挙げるなど、チームの力となった。

 一方、スポーツマネジメント業では、当時アマチュアだったゴルファーの諸見里しのぶと出会い、担当者として信頼関係を築いた。すると、ここで諸見里の出身校の縁で知り合ったおかやま山陽高校の当時の理事長から相談を受けるようになった。

 実はその時期、おかやま山陽は野球部内で問題が起き、監督が辞任。新たな人材を探していたのだ。理事長からも「誰かいないか?」の問いは、まもなく「教職を持っているならやってみないか?」に変わった。もちろん、堤の海外での活動を知ってのことだ。堤は当初、ビジネスマンと野球部監督の両立を考えたが、最後は監督になる道を選択した。

 そして2006年春、堤はおかやま山陽の監督となった。しかし、1年目に入部してきた選手はわずか3名。その後も、5~6年目までは選手に対しての言葉も思いも、なかなか通じなかったと振り返る。

「青春ドラマの先生みたいにやっていけば生徒もついてくると思ったんですけど……甘かったですね。あとになって思えば、あの頃は自分も地を出せていなかったし、野球も社会の授業もコピー&ペーストで薄っぺら。選手に響かなかったんでしょうね」

 徐々に自分らしさを意識するようになり、うわべだけの言葉を使うこともやめた。

「『悪いことをするな』と言っても、やめないヤツはやめない。なにしろ、自分の中学時代がそうだったのに、説得力がない。だから、極端に言えば『1つ悪いことしたら、2ついいことをしようや。でも、社会のルールに触れることだけはするな』と。言い方も考えて、変えていきました」

 今は部の雰囲気も落ち着き、野球好きの91人が大きなグラウンドで工夫に溢れた練習に励んでいる。1年生部員38人のなかには、堤の息子もいる。

「3、4年前あたりから本気でウチの野球部に対して、『いいですよ』『面白いところですよ』と言えるようになりました。赴任当初、部長と『自分の子どもが行きたくなるようなチームにしよう』と言っていたのですが、そんなチームになってきたと思います」

 結果もともない始め、2014年春には赴任後初となるベスト4。その年のドラフトでエースの藤井皓哉が広島から指名を受けた。さらに昨年の春は、念願の県大会を制覇し、夏もベスト4。

 そしてこの夏、快進撃を続け決勝へと駒を進めた。創志学園との決勝は、5点ビハインドの8回裏に6点を挙げひっくり返すと、9回表に再逆転を許すも、その裏に追いつき、延長11回途中で降雨コールドゲーム。翌日の再試合を9対2で勝利し、ついに甲子園の切符をつかんだ。その瞬間、堤の頭のなかに苦しかった時代の思いが鮮明に蘇った。

「勝てなかったときは、『試合に勝ちたい』とか『甲子園に行きたい』という気持ちが自分になかった。『オレは野球を愛しているだけで、勝ち負けや甲子園に執着はない』と思っていたんです。でも、監督がそれでは勝てないし、選手にも申し訳ない。そういう気持ちが強くなってから、どうすれば自分のなかで戦うモチベーションが持てるかと考え始めました。”野球を世界へ広めたい”というテーマと”甲子園”がどうすれば結びつくのか。自分なりに考えたんです」

 2011年からはチームとしてJICAを通じ、中古道具を海外へ送る活動もスタート。練習試合の対戦校らを中心に協力の輪も広がった。しかし、まだまだ足りない。そこで考えたときに”甲子園出場”の意味が、堤のなかで明確になった。

「今の活動をもっと多くの人に知ってもらい、賛同してもらうためにも『甲子園だ!』と。そこがはっきりしたんです」

 甲子園でも勝ち進めば、これまで堤が、おかやま山陽野球が行なってきた取り組みがより広く伝わることだろう。

「日本の野球ファンの方には、世界のなかで野球がまだまだマイナースポーツだということを知ってほしい。でも、日本人はこれだけ野球が好きで、甲子園もアマチュアの大会とは思えないほど盛り上がる。ならば、その”好き”をもっと多くの人に伝えたい。『この店のラーメンがおいしい』とわかったら、多くの人に教えるでしょ。日本の野球関係者、ファンの方にはもっと野球の面白さ、よさを伝えてもらって、野球をサッカーのように世界中が熱狂するようなスポーツにしたいんです」

 壮大な思いを持って挑む、おかやま山陽野球部初の甲子園。初戦は大会3日目の第3試合、11年連続出場の強豪・聖光学院(福島)との対戦となった。

「いらなくなったグラブとかあれば、ぜひおかやま山陽のアルプススタンドに持ってきてください。もちろん、学校に送ってもらっても、直接JICAに送ってもらってもOKです。あと、こういう活動を知ってもらい、自分が派遣隊員になって世界中に野球を広めたいという人が増えてくれれば……よろしくお願いします!」

 堤尚彦の起伏に富んだ野球人生を重ねながら、2時間ばかりの熱戦を楽しみたい。