サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは半世紀前のアジアカップの「アツさ」について。
■日本代表のバスに乗る
言うまでもないことだが当時の香港は英国領で、「東洋の真珠」と呼ばれるほど魅力的な大都市だった。中国人の労働者も多く、その労働者たちが暮らす貧民街もあったが、中心街は世界金融のアジアの中心地で、中心街には英語の看板と華やかなネオンサインで彩られ、大きなビルが林立していた。英国人や欧米からの観光客を目当てにした高級店が立ち並び、早朝から深夜まで活気にあふれていた。そんな香港でも、一等地の銅鑼湾(コーズウェーベイ)にそびえ立つ「エクセルシオール」の存在感は群を抜いていた。最新の高級ホテルを出場チームの「チームホテル」として提供したところに、当時の香港サッカー協会(HFA)の財力と意気込みが象徴されていた。
いまは日本代表と同宿など許されない。だが当時は、協会もチームもそれが当然のように思っていたフシがある。監督は当時44歳の長沼健(後にJFA会長)さんだった。1階のティーラウンジに降りていくと、必ず数人の選手がいた。「いっしょにどう?」と誘ってくれる選手も少なくなかった。
それどころか、ひと山越えて香港島の南にある「アバディーン(香港仔)」地区の練習場に行くときには、長沼監督は私たちを当然のようにチームバスに乗せてくれた。バスの最後列左の席は、ベテランDF大仁邦彌さん(30歳、後にJFA会長)の指定席だった。私は、そこが「ボス席」であることを、このときの経験で知った。
■広報担当もいない時代
なぜこんなに「優遇」されたのか。それは、日本の「取材陣」はわずか2人、『サッカー・マガジン』から派遣された今井さんと私だけだったからだ。日本の重要な試合のときだけは読売新聞の香港駐在員がきたが、サッカーのことはまったく知らない人だった。
チーム役員は、JFA副会長で日本代表チーム団長の藤田静夫さん、長沼監督、平木コーチのほか、安斎勝昭トレーナーだけ。シェフはもちろん、キットマネジャーも広報担当もいなかった。洗濯や練習用具の準備は、選手たちが当たり前のようにやっていた。藤田さんは、チームから離れ、他国の役員やアジア・サッカー連盟(AFC)の役員たちとの「外交」に専念していた(これが「団長」の本来の仕事だ)。
選手は18人。予備登録には釜本邦茂さん(31歳)と小城得達さん(32歳)がはいっていたが、ケガをかかえていたため不参加となり、1968年のメキシコ・オリンピック銅メダルの経歴をもつのは森孝慈さん(31歳)ひとり。あとはGK船本幸路さん(32)と大仁さんが30歳を超えているだけで、落合弘さんは29歳。残りの多くは20代前半の若手だった。
■カメラマンの存在感
選手たちや長沼監督が私たちを気安く受け入れてくれたのは、今井さんの存在が大きかったような気がする。今井さんは1972年からフリーランスとして『サッカー・マガジン』の仕事を始めたのだが、写真の確かさだけでなく、類のない人柄の良さで、またたく間に選手や監督たちとの信頼関係を築いていた。
今井さんは海外で取材をするのはこれが初めてだったが、国内での日本代表合宿には毎日のように出かけており、このころには「チームの一員」のような雰囲気になっていた。練習や試合のときだけでなく、常にカメラを首から下げ、選手の「オフ」の写真も撮りまくっていた。いわば「チームづきのカメラマン」のような形だったのだ。
そこに今回は若造の編集者兼記者がひとりついてきた。しかし長沼監督も選手たちも「まっ、いいか」というぐらいだったのではないか。私ひとりだったら、同じバスに乗れとまでは言ってくれなかったに違いない。
ピッチの現場でいつも顔を合わせる今井さんを知らない選手はいなかった。ベテランの選手たちとは、とくに仲が良かった。一方、私と言えば、同年配の選手が多かったので、あまりビビらずにすんだ。なかでも奥寺康彦さん(23歳)は、私と同学年というだけでなく同じ神奈川県の高校出身で、2年のときにはインターハイ神奈川予選の1回戦で当たった仲だったから、すぐにうち解けた。
とはいっても、彼は当時すでに神奈川県の高校サッカーのスーパースターで、インターハイ予選の1回戦では開始早々にバケモノのようなヘディングシュートを決めていたのに対し、私はベンチに座り、奥寺さんがまるで2階にかけ上るようにジャンプしてヘディングで叩きつけるのをあぜんとして見守っていただけなのだが…。