野球人生を変えた名将の言動(5)松永浩美が語る上田利治 後編(前編:高校を中退して阪急の「練習生」に。キャンプで場外弾を…

野球人生を変えた名将の言動(5)
松永浩美が語る上田利治 後編

(前編:高校を中退して阪急の「練習生」に。キャンプで場外弾を連発で上田利治監督も「また、いったぞ!」と驚いた>>)

 監督として阪急の黄金時代を築いた上田利治氏。阪急入団時から指導を受けた松永浩美氏は、上田氏から指導者の視点でも影響を受けたという。インタビューの後編では、上田氏の練習方法や戦術、人間性、上司としての魅力などを聞いた。



1978年の日本シリーズ第7戦、ホームランの判定を巡って抗議する阪急の上田監督(右)

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――上田監督のもとで野球をすることで、新しい発見はありましたか?

松永 よく「試合をするための心境でいつも練習をやっておかないと、まるっきり意味がない」「練習はミスをするためにやるんじゃない」と言われましたね。

 例えば、バントシフトでピッチャーがボールを捕りにいくことになっていた場合、ピッチャーのコントロールが少し乱れて、バントの打球が狙ったところより逸れることがありますよね。当然、私たち内野手はそれを捕ろうとしますが、上田監督は「そういうボールは捕りにいかなくていい」と言うんです。「それはピッチャーが悪い。狙ったところに投げられないやつを一軍に上げている投手コーチが悪いんだ」と。極端な言い方ですが、勝つための野球は、ミスを考える野球ではないということを伝えていたんでしょう。

――上田監督が実践された練習方法は、 "上田方式"と呼ばれて野球界に広まっていったそうですね。

松永 ロングティーや、外野手が全員でノック受けることなども、たぶん上田さんが先駆けだったんじゃないかと。私が入団した時のキャンプでは、各球団のコーチや選手が阪急の練習を取り入れようとして見に来ていましたよ。

 私は18歳の時からロングティーをやっていましたからね。もう44年前ですよ(笑)。いろいろな人が「昔と今の野球は違う」と言ったりしますが、今も昭和時代の練習方法を取り入れている選手は多い。もちろん、「もうちょっと簡素化した方がいい」とか、「細かくポジションごとに分けて、集中してやったほうがいい」と変わってきたこともあるでしょうけど、基本の練習方法はあまり変わっていません。

――戦術にも長けていて、「ギャンブルスタート」は、1点をもぎ取るために上田監督が編み出した走塁の戦術とも言われています。

松永 私が阪神やダイエーにいた時にはなかったですが、阪急の時は走者が三塁にいる時はよくサインが出ていました。練習でもよくやっていましたね。

 あと、「相手にこんな野球をやられるかもしれない」と予測しての練習もしていました。例えば、「こんなバントのシフト、絶対に試合で使わないだろう」といった練習もするんです。そのシフトは、通常の試合ではほとんど使いませんでしたが、1984年シーズンの優勝を争っている大事な試合で実践して成功した。いざというときのために練習しておくことの大切さを痛感しました。

――上田監督の印象的な場面といえば、1978年のヤクルトとの日本シリーズにおける1時間19分におよぶ抗議です(ヤクルト・大杉勝男が放ったレフトポール上を通過した打球がホームランと判定されたことに抗議)。やはり勝利に対する執念はすごかったですか?

松永 とにかく"負けたくない"人でしたね。4、5連敗くらいすると上田さんがコーチや選手たちを集め、ミーティングの冒頭で必ず「俺は負けたくない!」「試合を終わった後に、みんなでハイタッチをしたいんだ」とよく言っていました。意気込みなどをストレートに伝えるので、弱気になっていた選手たちは奮い立っていましたね。

――上田監督の野球をひと言で表現するなら?

松永 忍耐の「忍」かな。怒ることや感情が昂(たかぶ)ることはありますが、選手の育成や起用に関してはしっかり我慢する印象がありました。試合でミスをした選手を、次の試合ですぐに起用したり。私は若手の頃、内野を守っていてエラーも多かったんですが、「お前は使い続ける。お前がもしダメだったら、俺も監督を終わる時だから」と言ってくれたこともあります。コーチ陣を信用していて一切否定しなかったのも「忍」と言えるんじゃないかと思います。

――松永さんの野球人生にとって、上田監督との出会いはどんな意味があるものでしたか?

松永 松永浩美という野球人の生みの親、育ての親であることは間違いありません。監督と選手がプライベートで行動を共にすることはあまりないんですけど、上田さんの家に遊びに行ったり釣りに行ったりしたこともありますし、いろいろと可愛がってくれました。野球のことは、私がよっぽど調子の悪い時くらいしか話しませんでしたね。

――ちなみに、野球に関して話をしたことで覚えていることはありますか?

松永 ある時に、上田さんが身振り手振りをしながら「バッティングが、見た目ではこうなってるんだけど、マツのイメージと合っているか?」と聞かれたことがありました。その動きを見て、私は「合っていません。監督が見たような感じで打っているとは思いません」と答えました。そういった感じで言われる時は、だいたい選手のほうが間違っていましたね。

 だから、私も子供たちに教える時は、「バッティングについて、見たまんまの印象を言うから、それが自分のイメージと合っているか考えてみて」とよく言うんです。それは上田さんの影響が大きいですね。

――指導者という点で、影響された面は他にもありますか?

松永 けっこうありますね。上田さんは自分の意見の"ゴリ押し"は絶対にしませんでした。私も、まず「どんな選手になりたいの?」「どんなふうにやりたい?」と考えを聞くようにしていますし、「こういう選手なるのがいいんじゃないかな、と思っているんだけど、君がイメージしているのはどんな選手?」という感じでアプローチするようにしています。まさに、上田さんの対話の方法そのものです。

 また、今の時代は精神論は嫌がられる傾向にありますが、私は大切だと考えています。上田さんから長年指導を受けて学んだことなんですが......。例えば私が選手時代の時などは、少しケガをしていても、「ファンは選手の痛々しい姿を見に来るわけじゃない。試合に出ている限りは、ケガや故障はないものとしてサインも全部出すよ」と。だから、「試合中に痛がる素振りを見せるなら、すぐ休ませる」とよく言われました。

 個人的にも、「今のチームにお前の代わりは誰もいない。お前のバッティングは誰もできないし、お前のことを見に来ているファンもいるわけだから、簡単に休んじゃいけないよ」という言葉をもらったこともありましたね。本当に励みになりました。

――ファンがあってのプロ野球、という意識が強い方だったんですね。

松永 そういう意味での精神論は必要だと思うんです。最近はケガや故障で離脱する選手が多すぎる。上田さんは、選手がケガをしても「大丈夫か?」とは聞きませんでした。気づいていたとしても知らん顔をしていて、「ご苦労さま」と声をかけてくれた。プレーできるかどうかを、しっかり見極めろということだったんでしょう。

 選手を殴ったりといったことは全然なかったですし、コーチの領域にまで踏み込んでいって「こうやって指導をした方がいいんじゃないか?」と要求したこともなかった。選手からすると、「コーチから教わっているけど、監督は違うことを言うんじゃないか」という不安が生まれてしまったらやりにくいですから。技術面はコーチに任せて、コミュニケーションの部分でチームを支えていた。そういった役割分担がしっかりしていたので、当時は私もプレーがしやすかったですね。