チャンピオンズリーグは、多くの選手が夢見る大舞台。蹴球放浪家・後藤健生も、もちろんその高みを目指す。時には、その「思い…
チャンピオンズリーグは、多くの選手が夢見る大舞台。蹴球放浪家・後藤健生も、もちろんその高みを目指す。時には、その「思い」が決勝への道を切り拓くこともあるのだ。
■どうしても見たかったCL決勝
前にも「蹴球放浪記」(第77回「イスタンブールの奇跡と集団スリ」の巻)に書きましたが、僕はUEFAチャンピオンズリーグ決勝の観戦には数回しか行ったことがありません。UEFA(欧州サッカー連盟)に取材申請を出すのが結構面倒くさくて、しかも申請が拒否されてしまうことも多いというのも理由の一つです。
まあ、仕方がありませんよね。欧州のクラブによる欧州の大会なのですから、極東の島国のフリーランスが優遇されないのも当たり前です。毎年のように取材に行っていれば受理されるのかもしれませんが……。
しかし、2002年5月15日にスコットランド・グラスゴーのハンプデン・パークで行われるレアル・マドリード対バイエル・レヴァークーゼンの決勝は、どうしても観戦したかったのです。
なぜなら、舞台がハンプデン・パークだったからです。
■1960年の伝説の一戦
僕がサッカーに興味を持ち始めたころから海外のメディアなどで「世界サッカー史上最も面白かった試合」として紹介されていたのが、1960年5月18日にハンプデン・パークで行われた第5回欧州チャンピオンズカップの決勝戦でした。
1955-56年シーズンに始まったチャンピオンズカップは第1回大会からレアル・マドリードが5連覇を飾りましたが、その最後の大会。アルフレド・ディ・ステファノ(アルゼンチン)やプスカシュ・フェレンツ(ハンガリー)など名手を揃えたスター軍団のマドリードが、西ドイツのアイントラハト・フランクフルトを7対3で破った試合です。
この試合は、僕もVHSのビデオテープでフルゲームを見たことがありますが、ベテランの域に達していたディ・ステファノ(当時33歳)が中盤でゲームを組み立てると、スルスルと前線に上がっていって自らハットトリックを達成。とても優雅なプレーぶりで、どうして彼が世界最高のフットボーラーと言われているのかがよく分かりました。そして、プスカシュも“点取り屋”らしい嗅覚を発揮して4ゴールを決めます。たしかにスペクタキュラーな試合でした。観客は12万7621人。多くの観客を立見席に詰め込んでいた時代の数字ですが、当時のハンプデン・パークは欧州最大のスタジアムでした。
そのハンプデン・パークで行われる決勝。しかも、レアル・マドリードが登場し、対戦相手も同じドイツのレヴァークーゼン。世界が注目する試合でした。
■超効率的な観戦旅行
僕がこの試合を見に行ったもう一つの理由は、日程が日本代表の欧州遠征とダブっていたからです。日韓共催の2002年ワールドカップ直前の最後の遠征でした。
日本の最初の試合はサンチャゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦でした。
僕は5月4日にマドリードに到着。5日にはレアル対マジョルカのリーグ戦を観戦。7日にはマドリード・ベテラーノス(OB)対世界選抜と日本代表対レアルのダブルヘッダー。世界選抜はウリ・シュティーリケやロター・マテウス、ベオルギ・ハジ、アラン・ジレス、ユルゲン・クリンスマン、エリック・カントナといった超豪華な顔ぶれでした。そして、翌8日にはロッテルダムに移動してその夜にUEFAカップ決勝を観戦。地元のフェイエノールトがボルシア・ドルトムントを破って優勝しましたが、フェイエノールトでは小野伸二が中心選手として活躍していました。
さらに、その後オスロに移動して14日のノルウェー対日本戦の前にはノルウェー・リーグの2試合も観戦できました。そして、ノルウェーからスコットランドに飛んでハンプデン・パークでの決勝戦を見たのです(ちなみに、その後もデンマーク対カメルーン、フランス対ベルギーといった好カードも観戦。数多くの試合を見られる超効率的な観戦旅行だったわけです。