「日韓W杯、20年後のレガシー」#15 2002年大会の記憶を訪ねて~「静岡」後編 2002年日韓ワールドカップ(W杯)…

「日韓W杯、20年後のレガシー」#15 2002年大会の記憶を訪ねて~「静岡」後編

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

 史上初の2か国共催となった2002年大会、日本でW杯の熱狂に包まれた開催地は10か所だった。多くのスタジアムが新設され、大会後にはJリーグをはじめ各地域のサッカーの中心地となったが、そこにはどんな“文化”が育まれたのか。日頃から全国津々浦々の地域クラブを取材する写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、日韓W杯から20年が経過した今、4か所の開催地を巡る短期連載。「静岡」の後編では、グループリーグで日本と対戦したロシア代表のキャンプ地、静岡市清水区を訪れた。“ライバル”を迎え入れた経緯や今も続く交流について、当時を知る関係者が振り返った。(取材・文=宇都宮 徹壱)

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 清水エスパルスのホームタウン、JR清水駅から1時間に1本のバスに乗車して20分ほど揺られると、清水ナショナルトレーニングセンター(通称J-STEP)に到着する。福島県のJヴィレッジに次いで、日本サッカー界2番目のナショナルトレセンがオープンしたのは、2001年4月のことであった。

 2002年の日韓ワールドカップ開催から、今年でちょうど20年。日本では28の自治体がキャンプ地となり、出場32か国のうち24か国を迎えている。そのなかで最も多くのベースキャンプを提供していたのが静岡県。磐田市が日本、御殿場市と裾野市がウルグアイ、藤枝市がセネガル、そして清水市(当時)がロシアの代表チームを迎えている。

 天然芝と人工芝が2面ずつ。ほかに体育館やトレーニングジムやプールを備えたJ-STEPには、早朝から地元住民と思しき人々が集まり、思い思いにサッカーやランニングを楽しんでいる。そんななか、私は2002年の記憶を探し回っていたのだが、20年前のロシア代表のキャンプが行われたことを示すものがなかなか見つからない。ようやく確認できたのが、入り口近くにある現代彫刻モニュメント。そして展示スペースに飾られた、当時のロシア代表のユニフォームだけであった。

「絶対に負けられない相手」との間に生まれた交流

 2002年大会のロシアといえば、日本と同じグループHに組み込まれており、日本が悲願の決勝トーナメント進出を果たす上での“最大のライバル”と目されていた。とはいえ、いくら「絶対に負けられない相手」であっても、清水市民にとってロシア代表は大切なお客様。彼らのことをより深く理解しようと、中央公民館ではロシア語やロシア料理などの文化講座が、そして市民文化会館大ホールではキーロフ歌劇場フィルハーモニー管弦楽団の特別公演会が、それぞれ行われている。

 今回、静岡市清水区を訪れた4月下旬は、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まって2か月が経過していた。折しもキーウ近郊ブチャでの虐殺が明るみになり、ロシアに対する国際的な非難がかつてないほど先鋭化。あからさまな反ロシア感情が渦巻いているのは、我が国においても同様である。

 清水の人たちは、20年前のロシア代表キャンプのことを記憶から消したいのかもしれない──。清水駅前に戻るバスに揺られながら、ふとそんなことを考えてしまった。これから会う人は、往時と今のロシアに、どんな感情を抱いているのだろうか。

「私が小学校でサッカーの指導を始めた時、最初に指導したのが大木武や風間八宏の世代です。そのお兄ちゃんたちを見て育ったのが、長谷川健太や大榎克己や堀池巧の三羽烏。そのまた下が、エスパルス監督の平岡宏章です。最初の教え子がもう還暦になるんですから、私もそれだけ年をとったということですよね(笑)」

 そう語るのは、我が国の女性サッカー指導者の草分けとして知られる、綾部美知枝。幾多の選手や指導者を清水から送り出してきた「サッカー王国のゴッドマザー」も、今年で74歳になる。1994年、小学校教員から清水市教育委員会スポーツ振興課に異動。翌95年にサッカーのまち推進室室長に就任し、J-STEPの建設やW杯のキャンプ誘致にも深く関与した。ここで綾部から、驚くべき裏話が飛び出す。

トルシエの鶴の一言で日本代表に袖にされて…

「2002年の清水のキャンプ誘致は、実は日本代表で決まりかけていたんですよ。そもそもJ-STEPは、日本代表のトレーニングのために作られたものでしたし。それが土壇場でひっくり返ったのは、当時のフィリップ・トルシエ監督の判断によるものでした。エコパでの静岡ダービーを視察後、磐田にある(葛城)北の丸を案内されて、すっかり気に入ったみたいです。J-STEPは行政の施設ですが、北の丸は民間でホスピタリティも万全でしたからね。そのあたりで差が出てしまったんじゃないかと思います」

 かくして清水市は、日本に代わるナショナルチームを探すこととなった。とはいえ、2001年12月1日に韓国・釜山で行われるファイナルドロー(本大会抽選会)が終わるまで、国を絞り切ることはできない。

 そこで清水市は、日本と同じグループHのポッド3に注目した。ここに入ったチームは、神戸と横浜と静岡を転戦することになり、地理的に清水市は申し分ない。ファイナルドローの会場には、勝負服の着物に身を包んだ綾部の姿もあった。そして、ポッド3からグループHに入ったのは、ロシア──。

「どうしようかと思いましたね。ロシアのコネクションなんて、誰も持っていませんでしたから。すると会場で長沼健さん(当時JFA名誉会長)が、外国のご夫妻と談笑しているのを見つけたんです。『お話し中すみません。長沼さんはロシアにお知り合いがいらっしゃいませんか?』って割り込んだら、その場にいらしたのは偶然にも、ロシア協会のヴャチェスラフ・コロスコフ会長だったんですよ!」

 長沼もまた、トルシエの鶴の一言で清水市が袖にされたことに、多少の申し訳なさを感じていたのだろう。「コロスコフさん、清水は良いところですよ」という名誉会長の推薦が決め手となり、ロシア協会はすぐさまJ-STEPに使節団を派遣。多少の曲折はあったものの、清水市はロシア代表を迎え入れることとなった。

 全国のキャンプ地の中で、最も厳しい警備が求められたのが清水市であった。なぜなら北方領土問題を理由に、右翼の街宣車がJ-STEPに乗り込んでくるリスクがあったからだ。地元の警察による24時間体制の警備もあり、幸いそうしたトラブルはなかったものの、何者かによってピッチに除草剤が撒かれるというアクシデントが発生。この事件は、ロシア国内でも「ピッチに化学兵器!」と報じられた。

「ピッチの変色に気付いたのが、ロシア代表を迎え入れる3週間前でした。結局、数ミリだけを残して全部刈り取って、それから肥料を与えてなんとか芝生を復活させることができたんです。それでも、当初のピッチコンディションから比べると、かなり落ちました。監督のオレグ・ロマンツェフさんに謝罪したら『何も問題ない。今までトレーニングしたなかで一番良かったよ』と言ってくださいましたけれど、心苦しかったですね」

日本に敗れた夜、ロマンツェフ監督が語ったこと

 ロシア代表がJ-STEPに到着したのは5月25日。グループステージ敗退となったため、6月16日に帰国の途についた。この間、最も印象に残ったことを綾部に尋ねると、間髪入れずに「日本戦が終わった6月9日です」との答えが返ってきた。

 長年にわたり清水で子供たちを指導し、JFA特任理事でもあった綾部。それでも日本とロシアの対戦は「できればドローで」と密かに願っていたという。結果は稲本潤一の決勝点で、日本が1-0の勝利。日本中がW杯初勝利に沸騰するなか、J-STEPでロシア代表の帰還を待つ彼女の気持ちは複雑だった。

「チームバスが戻ってきたのは深夜でした。出迎えた私を見つけて、ロマンツェフさんが『勝利おめでとう』と握手してくれたんですよ。あまりの感動に、思わず身震いしてしまいましたね。そのあとロマンツェフさんが、私に聞くんです。『教えてほしい。なぜ日本はこれほど強くなったのか? 我々の知っている日本とは違っていた』って」

 綾部はこう答えたという。まずJリーグができたこと。次にW杯に出場したいという明確な目標があったこと。そして今大会では国民的な後押しもあったこと──。するとロマンツェフは「なるほど。我々は、あまりにも日本のことを知らなすぎた」とだけ答えて、選手やスタッフとともに宿舎に帰っていった。

 あれから20年。悲惨な戦争のニュースが連日届くなか、それでも綾部はスポーツマンシップに溢れた2002年のロシア代表の姿が忘れられないという。ロシアのサッカー関係者との交流は今も続いているが、コロナ禍に続いて戦争まで始まってしまい、再会の日はすっかり遠のいてしまった。大会後に編纂された、ロシア代表キャンプの冊子のページをめくりながら、彼女は最後にこう語った。

「静岡で毎年行われているSBSカップ国際ユースサッカーには、ロシアのU-18代表も参加していたんですよ。でも今は、国そのものが国際大会から締め出されていますから、国内でしか活動できないですよね。今のウクライナやロシアの状況を思うと、本当に切ない気持ちになります。ワールドカップというのは、武器を持たない平和的な戦いです。1日でも早く、武器をサッカーボールに変えてほしい。心から、そう願っています」(文中敬称略)(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)

宇都宮 徹壱
1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。