パウロ・ロベルト・ファルカンインタビュー(3) 就任してすぐ、私たちはキリンカップでまずオーストラリアと、そしてフランス…
パウロ・ロベルト・ファルカンインタビュー(3)
就任してすぐ、私たちはキリンカップでまずオーストラリアと、そしてフランスと戦った。フランスはトップクラブでエースを張るジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナ、マルセル・デザイーなどがいる本当に強いチームだった。その後は10月のアジア大会に向けて準備したが、練習する時間も、親善試合をする時間もあまりなかった。しかし、それでも私たちはできるだけのことをした。そしてアジアカップでは、奇跡的に最強の選手をピッチにそろえることができた。
アジア大会は準々決勝で韓国に敗れたが、それは審判が大きなミスをしたからだった。スキャンダルと言っていいほどのひどいジャッジだった。韓国の選手は我々に対しひどいファウルをしていたが、主審はそれを見て見ぬふりをし、かわりに存在しない日本のファウルを取って韓国にPKを与えた。フィジカルトレーナーのジウベルト・ティムは、私が押さえていなければピッチに飛び込みかねないほど激怒していた。こんな不当なジャッジを見たのは初めてだった。
日本はとてもいいプレーをしていた。韓国はW杯から帰ってきたばかりの強いチームだったが、善戦していた。勝利まであと一歩だった。ただあのとんでもない審判のおかげで、すべては悪夢となってしまった。
ティムが激高する気持ちはよくわかった。なぜならこの試合の結果が我々の人生を大きく左右することを知っていたからだ。ここで敗退したらJFAは我々の仕事に満足せず、解任するかもしれない。私自身も抗議しにピッチに入らないのには、相当な努力が必要だった。
不当なジャッジのせいで負けた試合だったが、私としてはあの試合の日本は、歴史に残る健闘をしたと思っている。その証拠に、試合後、多くの人が私のもとにやってきて「日本は本当によく戦った。あんな強いチームに引けを取らなかった」と絶賛してくれた。勝つこともできる試合だった。

2017年、イタリアサッカー殿堂入りのセレモニーにディエゴ・マラドーナ、パオロ・ロッシらと参加(右) photo byANSA/AFLO
しかし、結果的にはこれが日本での私の最後の試合となってしまった。私は解任され、日本を去ることになってしまった。私の契約は1年だったが、それにも満たなかった。その落胆の大きさは計り知れなかった。
成果が出るのを待ってくれると信じていた
なぜ、もともと1年などという短いオファーを受けたのかとよく聞かれるが、ふたつのことが私を突き動かしていた。
まず、新たなサッカーを知り、ブラジルとは違ったアプローチを知ることに興味を覚えたこと。ふたつ目はテクニカルのレベルが高いチームを、自分の力でより成長させW杯に導きたかったことだ。だからまず1年間でいい仕事をしてある程度の結果を出し、契約を延長するというのが私のプランだった。
JFA幹部の多くは私が監督をすることに賛成だと教えられていたので、たとえ契約が1年であったとしても、自然と延長の流れになると思っていた。それに日本人は忍耐強いことで有名だ。実際、日本人がいい仕事をするのは忍耐力があるからだろう。だから私の仕事の成果が出るのも、きっと待ってくれるに違いないと信じていた。私が就任する時、日本に行ったらできる限りの手を貸すとジーコは言ってくれたし、私が来ることが日本を変える力となり、ひいてはジーコの力にもなると言ってくれた。断る理由はまるでなかった。たとえ最初のオファーが半年だったとしても私はそれを受けていただろう。
セルジオ越後はJFAに私のことを推してくれた人物でもあり、日本にいる間、常に私たちのそばにいて相談に乗ってくれた。彼はいつも日本人は私の仕事ぶりを気に入ってくれていると言ってくれていた。セルジオ越後は日本だけでなくブラジルでも有名だ。彼はエラシコを発案し、(ロベルト・)リベリーノに教えた人物でもある。日本とブラジルのサッカーを熟知するセルジオ越後は、私たちにとっては重要な存在だった。日本サッカー界は彼に感謝をすべきだと思う。
「日本人はあなたにリスペクトを持っている」。私はそういう彼の言葉を信じた。短い契約しかオファーできないのは、今、彼らが新たな時代を作ろうとしているからだろう。こうして私は短くとも先を信じてオファーを受けた。
しかし、彼らは契約を打ち切った。彼らは正反対のことをすべきだった。契約を延長し、私に仕事を続けさせ、時がきてその成果が実るのを待つべきだった。
あの韓国戦から日本の飛躍は始まった
日本を率いたのは9カ月にも満たなかったが、そんな短い期間では何もすることはできない。私は失望した。クラブの監督であればその8カ月を練習で過ごせただろうが、代表監督の8カ月は異なる。視察であちこちを飛び回り、選手を研究し、やることは山ほどあり週に7日仕事をすることもしばしばあった。それは苦にはならなかった。今の忙しさが、必ずや花となり実となると信じていたからだ。だが日本を強くしたいという気持ちで進めていた山ほどのプロジェクトは、すべて水の泡となってしまった。
何人かの知人に、「こんなに早く代表監督の首をすげ替えるのはよくあることなのか」と尋ねた。アジアカップの敗退が問題なのかとも考えた。あの試合に我々は勝つことができたし、勝つべき試合だった。もしあそこで勝っていたなら、すべては違っていただろう。少なくともあと2年は日本代表を率い続けることができたはずだ。
しかし、試合はミスジャッジのせいで負けたのであり、日本はいいサッカーをしていた。ゴールも決めたし、目に見えて強くなってきていた。実際私が代表監督をして以降、日本はどんどん強くなっていった。それから一度もW杯出場を逃さず、年を追うごとに強くなってきている。
何が解任の決め手となったのか。私は今でも自問する。しかし、答えはわからないままだ。今日に至るまで、誰も私にきちんとした説明をしてくれてはいない。契約は終了しました。ありがとう。それだけだ。日本を去るのは本当に悲しかった。
日本は私が去ってすぐに大きな成長を始めた。あの私が最後に率いた韓国戦から今日までの日本の飛躍は目覚ましい。世界でもこれほどの飛躍を遂げたチームはないと思う。今日本は世界のトップ12に入るようなチームで、誰もが日本に勝つことは簡単ではないと知っている。サッカーをよく知り、いいプレーをし、ゴールを決め、多くの選手が世界のトップリーグでプレーし、さらに成長を続けているのだ。
一度はこのチームを率いた者の責任として、私は常に日本代表を見てきた。
強くなった日本に感じる一抹の寂しさ
W杯ではブラジルのテレビ局のコメンテーターとして日本の試合の解説を何度もした。ジーコが日本を率いていた時も私は解説をした。日本の試合を欠かさず見て、海外に行った日本の選手のことも追っている。数多くの日本人が海外リーグでプレーしているということは、フィジカルも強くなったということだろう。90年代の前半に私が言っていた「日本人にあとフィジカルの強さだけ備われば世界に通用することができる」が今、現実となっているのだ。
ただ日本のサッカーが、選手も、代表も、クラブも、女子サッカーも格段に強くなってきているのを見ると、私は一抹の寂しさを感じざるを得ない。私も日本が強くなる手助けをもっとしたかった、強くなっていく様子を間近で見たかった。もし私があのまま代表監督に残り、私の練り上げたプロジェクトを遂行できていたなら、もっと成長のスピードを速めることができたかもしれないと思うと、残念な気持ちでいっぱいになる。
もしかしたらまだそのチャンスはあるかもしれない。そう私は希望を持っている。もちろん、もう当時のようにがむしゃらにフィジカルを鍛える必要はない。すでに日本人はそれを手に入れている。しかし戦術においてはまだ日本に新たなものをもたらすことができると思う。
日本は今、いい選手といい監督に恵まれているが、新たなものを取り入れて学ぼうという姿勢、前に向かおうとするどん欲さを決して忘れないでほしい。
Jリーグの黎明期ほど外国人の力は必要としないだろうが、それでも外国の選手や監督は日本人にはないものをもたらしてくれる。我々ブラジル人は、我々の経験を持って、いつでも日本を助ける用意ができている。だから自分たちの殻に閉じこもらず、もっと世界に開いてほしい。日本人は外国人の知恵を利用することに非常に長けていると思う。
代表監督の座を去ったあとにもいくつかの日本のチームからのオファーはあった。しかし最終的な合意にまでは至らなかった。何年か前にジーコと話した時、また日本で仕事をするチャンスは十分にある、興味を持ってくれるチームはあると言ってくれた。私は常に扉を開けている。正直、私は日本にまた帰りたい。私もあれからいろいろ勉強をして、当時よりも監督として成長したはずだ。また日本で仕事ができればそれは私にとって大きな喜びであり、光栄なことである。
ベスト8を目指す森保一への期待
日本がW杯でベスト16の壁を破るにはどうしたらいいか。
現代的な仕事をするいい監督のもとであれば、私はそれが可能であると思う。組み合わせにもよるが、いつかは必ずそれ以上に行けるはずだ。残念ながら明確なアイデアを出せるほど今の日本代表に精通しているわけではないので、的確にどうしたらいいかを指摘することはできない。ただ、今の日本を見る限り、ベスト8以上になったとしても決しておかしくはないと思う。それはジーコやその他のこれまでの代表監督たちが綿々と続けてきた仕事の成果である。そして私の8カ月の仕事も、そのなかに少しは入っているのだと思うと満足を感じる。
奇しくも今の日本代表監督は、かつて私の選手だった森保一だ。彼にはぜひとも頑張ってもらいたい。
このコロナ禍での2年近く、私は家で各国の試合を見てはサッカーの研究をしていた。サッカー自体が止まっていた時期にも過去の試合を見て、戦術やテクニックを学んでいた。
パオロ・ロッシが亡くなった際にはFIFAからイベントに呼ばれ、クラブワールドカップにゲストとして参加したこともあった。テレビの解説も続けている。まだサッカー界は私のことを忘れてはいないようだ。今はまたサッカーの現場に帰りたい。芝の匂いが懐かしい。私の膝が許さないので残念ながら現役復帰は難しいが(笑)、監督をする元気はある。気力もまだまだある。
久しぶりに日本の皆さんに話をすることができて、私はとてもうれしい。話しているうちに日本でのすばらしい思い出がたくさん蘇ってきた。そして何より、私がどれだけ日本の文化や人々のことを好きか、やっと皆さんに伝えることができたことに喜びを覚えている。私は今でも日本の友であり日本サッカーのサポーターだ。再び日本に戻れることを願いながら、この文章を締めたいと思う。
パウロ・ロベルト・ファルカン
1953年10月16日生まれ。現役時代はインテルナシオナル、ローマ、サンパウロでプレー。ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと「黄金のカルテット」を形成した。現役引退後の1990年、ブラジル代表監督に就任。1994年、ハンス・オフトの後任として日本代表監督に就任した。