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第16回レオナルド(3)

 ブラジル代表でのレオナルドも語っておかなければならないだろう。

 セレソンでは90年から2001年までの11年間プレーし、60試合で8ゴールを決めている。2度のW杯に出場し、1度目のアメリカ大会では優勝を果たしている。

 ただ、レオナルド自身は決勝トーナメント第一戦のアメリカ戦で相手MFタブ・ラモスの顔面に肘鉄を食らわせ、その後すべての試合に出場停止となった。

 ふだんは真面目で礼儀正しいレオナルドだが、実は少し堪忍袋の緒が切れやすいところがある。意外かもしれないが、どこのクラブチームでも、監督と一度は必ず喧嘩をしているのだ。タブ・ラモスは顔面を骨折し、レオナルドはとても反省したようだ。個人的に謝罪をしにも行っている。

 97年、サウジアラビアで行なわれたコンフェデレーションズカップではこんな事件もあった。ロベルト・カルロスとロナウドが、いたずらで、バリカンを持ってチームメイトが寝ている間に全員の頭に小さなコイン大のハゲを作ってまわった。おかげでチーム全員が坊主頭にすることを余儀なくされた。これに激怒したのがレオナルドだった。

 レオナルドといえばサラサラの長めの髪が有名だ。いつの時代の写真を見ても、いつも長い髪をきれいにとかしてある。彼にとってヘアスタイルは思った以上に大事なものだったようだ。レオナルドは大会期間中、ロベルト・カルロスと必要最低限しか口をきかなかった。



1994年アメリカW杯で優勝したブラジル代表でのレオナルド photo by Yamazoe Toshio

 クラブでプレーすることと代表でプレーすることの違いを、レオナルドは端的に説明してくれた。

「クラブと選手は契約関係にある。チームは選手をレンタルすることもできれば売買もでき、選手はそれに対して可否を告げることができる。しかし代表はその真逆だ。どこでプレーするかは生まれた時から決まっている。移籍はあり得ない。そして金ではなく、愛のためにプレーするんだ」

 だが、94年のアメリカW杯について言えば、レオナルドが期待していたのはもっと別なものだった。セレソンのレギュラーに入り、チームメイトもロマーリオ、ベベート、ジョルジーニョ、ドゥンガと最高のメンバーが揃っていた。輝かしいフィナーレが待っていると思っていた。

【W杯後、鹿島入りを決めた理由】

 確かにチームは優勝した。だが、彼自身は決勝トーナメントの1戦目で退場となり、その後の試合は出場停止となった。彼の代わりにはカフーが入り、レオナルドはセレソンでのレギュラーの座さえ危ういと感じていた。満足よりも失望のほうが大きいW杯だった。

 ブラジルでは多くの批判が彼を待ち構えていた。「まるでどこか檻に閉じ込められているような気がした」とレオナルドは言う。できることならどこか遠くに行きたかった。まるで違う世界に飛び込みたかった。ヨーロッパからのオファーがあればすぐにそれを受けようとレオナルドは考えていたが、それよりもっといい手があった。それが日本だった。

 この時のジーコは非常に狡猾だった。こうしたレオナルドの胸の内を察知すると、すかさず彼に声をかけたのだ。

 実を言うと、ジーコは当初、レオナルドの獲得を考えていなかった。もっと若いブラジル人選手を鹿島アントラーズに連れてこようと考えていた。しかし移籍市場にレオナルドの名前が挙がると、ジーコはすぐに考えを変えた。

 この時、ジーコは自分の後継者を探していた。40歳を過ぎた彼は、もうプレーできる時間はそう長くないことを知っていた。チームのためにも、決まったポジションはなく、彼のように必要ならばどこでも助けられる選手を見つける必要があった。ジーコはレオナルドのことをフラメンゴでプレーする少年の頃から知っていた。レオナルドは多くのポジションでプレーできる。聡明で真面目で、まさに彼が求めていた選手だった。

 レオナルドを獲得するよう鹿島を説得するのは「想像していたよりずっと簡単だった」とジーコは言う。最初、鹿島の幹部にレオナルドの名を告げた時は、あまりピンとこなかったようだが、レオナルド自身がブラジルを出たがっていること、そして鹿島の最高の選手となるだろうと力説すると、すんなり会議を通ったという。

 最初のコンタクトはまだW杯期間中だったともいう。レオナルドは当時24歳。彼のパスを保有していたバレンシアが鹿島に提示したのは400万ドル(当時の為替レートで約4億円)。鹿島の歴史のなかでも最高額だった。報酬も高く3年間契約で年俸約100万ドル。鹿島幹部はその金額にはさすがに躊躇したが、ジーコが「決して後悔はしないでしょう」と言いきると、本格的にレオナルドの獲得に乗り出した。

【心を動かされたジーコの言葉】

 一方、ジーコはレオナルドにも有利な条件を示していた。鹿島のプレーメーカーとスターの座を彼に約束し、契約が満了した3年後には、彼のパスをほかのチームに売るのではなく、彼自身に渡すとも説いた。そうすれば、彼を獲得したいチームは、彼に移籍金を払うことになる。

 しかし、なによりもレオナルドの心を動かしたのは、ジーコの「君は私の後継者だ」という言葉だった。ジーコはレオナルドが最もリスペクトしていた選手だ。いや、レオナルドだけではない、ブラジル人にとってジーコは特別な存在だ。そのジーコから直々に指名されるということは、日本の皆さんが想像する以上に、ブラジル人にとって栄誉なことなのである。

 レオナルドの鹿島への移籍は、ふたつの点において日本サッカーに非常に重要な意味をもたらした。

 ひとつ目は世界チャンピオンになりたての、強豪ブラジルの選手が日本を選んだこと。ビッグネームは多くいても、すでにピークをかなり越した選手が多かったJリーグにとって、これは革命的な出来事だった。日本サッカーを見る世界の目も変わった。日本人はジーコの多くの功績に感謝しているが、このレオナルド獲得を実現したことについては、もっと評価すべきであると思う。世界チャンピオンの若い選手が所属することで、世界のメディアもサッカーファンも、Jリーグがただのお遊びではないことを理解したのだ。

 もうひとつは、若い日本人選手が、ベテランではなく同年代のハイレベルな選手に触れられたことだ。「相馬直樹、小川雅已などが、レオナルドとともにプレーするなかで、多くを学び成長していった」とは、当時、監督を務めたジーコの兄エドゥーの証言だ。

 当初はスペインやイタリアのメディアが「レオナルドは墓場に行く」と報道したことも確かだ。「それが逆に私のモチベーションに火をつけた」と、のちにレオナルド自身が語っている。

「どんな瞬間も、すべての力を尽くしてプレーしてやると決心した。もちろん、それまでも決して手を抜いてプレーしていたわけではないが、とにかくこの言葉は私を怒らせた。当時私はまだ24歳だった。日本に行くからといって私のキャリアが終わったなどと誰が決められるのか。彼らが間違っていたことを全力で証明してやる、これまでやったことのないことを日本でしてやる、と誓ったよ」

【「今の自分があるのは日本の文化のおかげ」】

 これまでやったことのないこと。それはゴールをすることだった。それまでSBやMFだったレオナルドだが、鹿島では完全な自由が与えられた。彼は自分の思うとおりにプレーできたし、チームは彼のためにプレーしてくれた。レオナルドはこれまでにないほど攻撃的に、縦に出るプレーを始めた。プロになってからこれほどオフェンシブにプレーをしたのは初めてだった。そしてゴールが生まれた。鹿島での3年間で、彼がリーグ戦で決めたのは30ゴール。あとにも先にも、これほど多くのゴールを彼は決めてはいない。

「ゴールをひとつ決めるたびに、もっとゴールしたいという気持ちが強くなった」と、レオナルドは言う。

「それまで知らなかったゴールゲッターの醍醐味を知った。鹿島はその喜びを私に与えてくれた。そのことは決して忘れないよ」

 レオナルドは日本で生まれ変わった。チームや仲間、サポーターから大きな信頼を寄せられることで息を吹き返した。鹿島時代は「自分のキャリアで最高の時だったかもしれない」と、彼は振り返る。

「あれほど落ち着いて、サッカーを楽しめた時はなかった」

 日本のサポーターがいつも温かい拍手を送り、彼のゴールに狂喜してくれたことも、彼には忘れられない思い出だ。またジーコの後継者というポジションは大きな挑戦でもあり、大きな責任を伴うものだった。

「日本が私を成長させてくれたんだ」

 またレオナルドは、彼のその後の人生に影響を与えるようなとても重要なことを日本で学んだという。日本で出会ったすべてのことがカルチャーショックだったが、なかでも一番驚いたのは他人を尊重し、他人の意見をよく聞くという日本人の姿勢だった。

「日本人というと、みんなその礼儀正しさを一番にほめ称えるが、私は彼らが他人の言葉を非常によく聞くというのが最もすごいことだと思った」

 それまで彼は、自分の意見を主張し、それを通すことが大事だと思っていた。しかし、そうでない方法があることを知った。

「この時から、私も人の意見を聞くようになった。相手を理解しようと努めるようになった。監督としてもチームフロントに入ってからも、これは大いに役立った。今の自分があるのは、この日本の文化を取り入れたことと決して無関係ではないと思う」

 レオナルドは96年夏に日本をあとにした。もう少し早くヨーロッパに行ってもよかったが、彼はきっちり3年の契約を守った。96年のレオナルドは12試合しかプレーしなかったが、10本のアシストをした。この年のリーグ初優勝には、レオナルドの功績もあったはずである。
(つづく)

レオナルド
本名レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ。1969年9月5日生まれ。15歳でフラメンゴに入団し、17歳でトップチームデビュー。その後、サンパウロ、バレンシア、鹿島アントラーズ、ミラン、パリ・サンジェルマンPSGでプレー。引退後はミランのフロントに入り、ミラン、インテルの監督を経てPSGのフロント入り。現在はPSGのスポーツディレクターを務めている。