時間は流れる。だが、たとえ遠い日のことであっても、鮮明に記憶に焼きつけられたシーンは色褪せず、昨日のように思い出される。…

時間は流れる。だが、たとえ遠い日のことであっても、鮮明に記憶に焼きつけられたシーンは色褪せず、昨日のように思い出される。サッカージャーナリスト・後藤健生が19歳だった1971年、まだ「日本蹴球協会」だった日本サッカー協会はひとつの節目を迎えた。日本サッカー史の貴重な1ページをご覧いただきたい。

■1971年9月は日本サッカー協会の創立50周年

 1971年9月、日本代表は東京の国立競技場でポルトガルの「ビトリア・セッツバル」と親善試合を行い、0対5、2対4と完敗を喫してしまいました。

 当時は「セッツバル」というカタカナ表記になっていましたが、「セトゥーバル」というのが言語に近いと思います。「トゥー」にアクセントがあります。ついでに「ビトリア」も「ヴィトーリア」の方が正しいでしょう。正式には「ヴィトーリアFC」なのですが、北部ギマランイスのヴィトーリアSCと区別するために、一般に「ヴィトーリア・ジ・セトゥーバル」と呼ばれています。

 ヴィトーリアは2020/21シーズンでプリメイラ(1部)の16位となって降格。今シーズンは2部で戦っています。

 本拠地のセトゥーバルは首都のリスボンからテージョ川を渡って南に30キロほど行った大西洋に面した町です。僕も行ったことがありますが、漁業が盛んな長閑な港町です。

 で、その時の入場券を見ると黒い文字で「JUBILLEE OF J.F.A.」と記されています。そして、日本語では「創立50周年記念国際交歓サッカー」とあります。

 そうです。1971年9月は日本サッカー協会の創立50周年だったのです。

■日本サッカー協会の歴史

 それで、その前後のチケットを見てみると、前年の1970年8月末に来日した同じくポルトガルのベンフィカとの親善試合の入場券にも同じ文字が記載されていました。1970年8月から1年間が「協会創立50周年」として扱われたのです。5月にはトッテナム・ホットスパー(イングランド)も来日しています。

 ベンフィカではエウゼビオが来日。ヴィトーリアには長身のジョゼ・トーレスがいました。身長191センチの選手は今ではザラにいるでしょうが、当時としてはかなり大きな選手でした。

 日本サッカー協会は1921年の9月10日に結成されました。当時の名称は「大日本蹴球協会」。最初の事業として11月に「ア式蹴球全国優勝競技会」つまり全日本選手権大会を開催。東京蹴球団が初代チャンピオンになりました。今年で101回目を迎えた「天皇杯JFA全日本サッカー選手権大会」の最初の大会です。

 1971年には一連の親善試合が「創立50周年記念」と銘打たれて開催されただけでなく、4月から5月にかけて「第13回アジアユースサッカー大会」が国立競技場などで開かれています。現在の「AFC U19選手権」です(当時はU20の大会でした)。そして、このアジアユースが「創立50周年」の目玉の大会だったということになります。

 日本代表にはGKの瀬田龍彦や永井良和、奥寺康彦、古田篤良、高田一美といったその後フル代表で活躍する選手たちがいましたが、国立競技場で行われた準決勝で韓国とスコアレスドローに終わり、日本で最初のPK戦に敗れて日本は結局4位に終わりました。

■100周年の頃、日本のサッカーはどんなになっているのだろう

 この記事を読んで金鎮国(キム・ジンクク)を思い出した方、あなたはもう老人です!

 当時の僕は19歳で大学に入ったばかりでした。もっとも「学園紛争」のせいで大学は休講ばかりという状態でしたが。

 で、なんとなく思ったのでした。「そうか。50周年か……。50年後には100周年があるんだなぁ〜」と。100周年の頃、日本のサッカーはどんなになっているのだろう……。

 日本のサッカーは1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを取った直後でした。その時に長沼健監督が「次の目標」と語った1970年のメキシコ・ワールドカップはアジア予選で敗退してしまいましたが、その予選大会にはエースの釜本がウイルス性肝炎のために欠場していました。「釜本さえいれば……」というのは、その後半世紀の間サッカーファンが何度も口にする言葉ですが、1971年の時点で釜本はまだ27歳。彼が病気から復活すれば、1972年のミュンヘン・オリンピックにも、1974年の西ドイツ・ワールドカップにも出場できると思っていました。

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