1999年の箱根駅伝9区で駒澤大を逆転した順天堂大の高橋謙介 まもなく第97回東京箱根間往復大学駅伝競走が行なわれる。今回は新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、開催が危ぶまれていたが、沿道での応援自粛などを呼び掛け、なんとか実施される…



1999年の箱根駅伝9区で駒澤大を逆転した順天堂大の高橋謙介

 まもなく第97回東京箱根間往復大学駅伝競走が行なわれる。今回は新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、開催が危ぶまれていたが、沿道での応援自粛などを呼び掛け、なんとか実施されることになりそうだ。

 今回は、今年の年始に2年ぶりの優勝を果たした青山学院大、昨年の優勝校である東海大、そして11月に行なわれた全日本大学駅伝を制した駒澤大が"3強"と呼ばれており、どんな戦いを繰り広げるのか楽しみだ。

 筆者が1990年代から箱根駅伝を取材してきた中で、もっとも印象に残っているのは、新春の箱根路を緊迫感で包み込んだ、駒澤大学と順天堂大学の「紫紺対決」だ。

 1999年の順大の優勝から始まり、2000年は駒澤大、2001年は順大、2002年は駒澤大と4年間、熾烈な優勝争いが2校の間で続いた。箱根駅伝が好きな人なら誰もが知っている対決だが、改めて当時のレースを振り返る――。

 序章となった1999年の前評判は、いわゆるYKK対決に注目が集まっていた。Yは全日本大学駅伝を3年連続2位で箱根も前々回から2位、3位と安定していた山梨学院大、Kは箱根を2連覇中の神奈川大と、前回2位で出雲駅伝と全日本を制した駒澤大のことだ。その中でも駒澤大は、エースの藤田敦史(4年)ら上級生の好調に加え、新戦力の1年生ふたりが結果を出すなど、初優勝に向けて頭一つ抜けている状況だった。

 この年の箱根駅伝往路は駒澤大が1区を3位で走り、上々のスタートを切ったが、順大が2区、3区で主導権を握った。2区で順大の三代直樹(4年)が、渡辺康幸(早大)の日本人最高記録(1時間06分48秒)を更新する1時間06分46秒の快走でトップに立つと、3区の入船満(1年)も流れに乗って、2位を走る駒澤大に2分20秒差をつけた。

 だが、4区で駒澤大のエース藤田が区間新を出して逆転。5区も神屋伸行(1年)が区間2位の走りで、2位の順大に1分50秒差をつけて往路優勝を果たした。

 初の総合優勝が見えた駒澤大は、大八木弘明コーチ(当時)の指示により、選手たちは復路で各区間の前半3kmはペースを抑えて走った。これは3連覇を狙う神奈川大の高い総合力を意識して、最後までバテないためだった。だが、結果的にはその作戦が裏目に出てしまう。8区終了時点で順大に58秒差にまで詰められると、9区で順大の高橋謙介(2年)に区間新の走りで逆転されてしまった。順大は、区間賞2つを含めて全員が区間4位以内と、彼らの伝統でもある復路の強さを見せ、最終的に1位順大、2位駒澤大、3位神奈川大で終えた。

 その翌年、駒澤大の大八木コーチは前回往路で使った主力の西田隆維(4年)と揖斐祐治(2年)を9区と7区に配置する。そして、「藤田など主要区間を走った4年生4人が卒業した今年は、1年生を使えるようにしなければいけない」と、往路には1年生3人を起用する思い切った作戦に出た。

「総合優勝を目指すなら、往路で順大に2分ぐらいなら負けてもいい」という気持ちで考えていたが、そんな攻めの姿勢が学生たちの好走を呼び込んだ。

 1区は順大が前回と同じ岩水嘉孝(2年)だったのに対し、駒澤大は島村清孝(1年)。法政大がスタートから飛び出して独走する中、島村は岩水をマークして同タイムの3位で襷をつないだ。

 2区には、最後の上りを考慮して前回5区の神屋を起用したが、先頭の法大がジワジワと差を広げる中、順大の高橋謙介(3年)とけん制し合いながら、同タイムで3区につなぐマッチレースになった。3区の布施知進(1年)は少し抑えた走りになったものの、順大を突き放して35秒差をつけた。

 4区では、前年から力をつけてきた順大の野口英盛(2年)に逆転されて差は1分29秒に広がったが、5区では10km手前で松下龍治(1年)が、順大をかわしてトップでゴール、と想定以上の結果。5位の順大には1分59秒差をつけていた。

 翌日の復路では7区の揖斐が、6区で順大と2分8秒あった差を4分19秒に広げ、2位につけていた中央大との差も広げて優勝を引き寄せた。揖斐が最初から飛ばす攻めの走りだったのは、守りの走りで優勝を逃した前回の反省から「復路も攻めの姿勢で走るように」との指示が出ていたからだった。

 8区は、ハイペースで入った平川良樹(2年)のペースが中盤から落ち、前回この区間で逆転のお膳立てをした順大の奥田真一郎(2年)に詰められる場面もあったが、それでも9区と10区に主力を置いた布陣が駒澤大を救った。

 大八木コーチから1時間10分台の設定を指示されていた9区の西田は、1時間9分00秒の区間新で優勝を決定づけた。さらに10区の高橋正仁(2年)もその勢いを引き継ぎ、区間新の1時間10分26秒で走り、9区で2位に上げてきた順大に4分18秒差をつけて、復路も制する完全優勝で初制覇に花を添えた。復路が強い順大に対し、さらにその上をいく復路勝負を考え、1年生を大胆に起用した大八木コーチの作戦勝利だった。
 
 翌年の2001年の対決はさらに熾烈になったが、互いに誤算もあった上での競り合いだった。

 前評判が高かったのは出雲と全日本を制していた順大。岩水と入船、野口、奥田、坂井隆則の3年生クインテットが充実し、エースの高橋謙介(4年)も全日本では最長区間の8区で区間賞獲得と好調だった。さらに9月の全日本インカレでは男子総合優勝を果たし、箱根で勝てば4冠と、これまで他大学が成し得なかったことにチャレンジできると、選手たちの気持ちも盛り上がっていた。

 だが、その意気込みがオーバーワークにつながってしまった。11月後半に岩水が肺気胸で10日間の安静から始まり、主力選手たちの体調不良とケガが相次いだ。

 全員が順調なら往路から突っ走る優勝もあると考えられていた2001年の箱根だったが、沢木啓祐監督は勝てる目算を5割と考えていた。

 本番まであと数日と迫った12月27日、チーム状況を考えた奥田が、「僕が5区の上りをやります」と立候補。それを受けて、沢木監督は「奥田が頑張って往路を締めてくれれば、9区には12月中旬から調子を上げてきた高橋(謙介)がいるから何とかなる」と考えた。

 そして迎えた本番。1区の入船は、トップと13秒差でいい流れを作った。次は必ずトップに立てると見ていた2区の岩水だったが、15km過ぎの給水で足首を少し捻ってリズムを崩し、トップの法大には46秒、駒澤大にも36秒遅れる3位と誤算の走りになった。

「この条件(強い向かい風)なら、少し力が劣っても大差をつけられることはないはず」と起用した3区の中川拓郎(2年)が、一時は駒澤大に並んだものの、終盤に崩れて5位。それを救ったのは、箱根の直前になって復調してきた4区の野口で、向かい風でペースの上がらない駒澤大と中大、帝京大の2位グループに6km過ぎで追いつくと、ラスト3kmからのスパートで単独2位に上がって1位の法大を29秒差まで追い込んだ。

 5区の奥田は前年に区間記録を樹立している中大の藤原正和(2年)に最後は競り負けたが、8秒差の2位で往路のゴールを果たした。それに対して駒澤大は4区がラスト3kmで失速したのを5区も引きずり、4位で往路を終えた。

 そして翌日の復路は、順大の沢木監督の狙いが当たった。

「往路の結果を見て復路はうちのペースで行けると思った。勝負のポイントは4、5、6、7区と考え、それでダメだったら9区と思っていたので、7区が終わったところで勝てると思った」と話すように、6区は下りのスペシャリストの宮井将治(4年)が区間新で走り、7区終了で駒澤大との差を2分47秒に広げた。

 続く8区で区間1位の走りをした駒澤大が28秒差まで詰めて、前回優勝の意地を見せた。だが、順大の9区にはエースの高橋謙介が配置されていた。駒澤大の9区には、高橋正仁が配置されたが、トラックの持ちタイムの実力からいくと順大の高橋謙介の方がはるかに上だった。

 そこで、駒澤大の大八木コーチは最初から突っ込む走りを指示。狙いどおり高橋正仁は7kmで追いついた。

 高橋正仁はレース後こう振り返っている。

「正直言って自分もビビっていた。でも距離には不安がないし、練習もしっかりやっていたから、やれるところまでやろうと思った」

 その走りに一番驚いたのは順大の高橋謙介だった。なぜこんなに早く追いつかれたのか理解できず、パニックになったという。

「仕上がりもよくて、自分でもずっと9区で勝負するつもりでいた。追いつかれて逆転されるのは初めての経験だったが、周りからは僕がいるから大丈夫だと思われていたので、プレッシャーを感じていたのかもしれない」

 高橋謙介は自分の走りを見失い、牽制合戦になった。そしてそれは、オーバーペース気味だった高橋正仁に余裕を与えることになった。ラスト1kmからの高橋正仁のスパートが決まり、駒澤大は17秒差のトップでアンカー勝負に持ち込んだ。

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 だが、駒澤大の粘りはここまでだった。

「勝ちを確実にするために配置した高橋謙介で逆転されたから一度は負けを覚悟したが、駒澤大のアンカーの走りを見て、これならと思い直した」と沢木監督が言うように、順大で3年連続10区を走る宮崎展仁(4年)が6.5kmで駒澤大を引き離し、余裕を持って4冠達成のゴールテープを切った。

 大八木コーチもこう振り返る。

「紫紺対決らしい見せ場は作れたが、うちはアンカーが弱点だった。去年1区を走った島村が使えなかったので、一昨年と同じように駒不足。8区の武井拓麻(4年)をアンカーで使う手もあったが、往路で負けてくるだろうから、早い段階で順大をとらえなければダメだと思ってこの配置にしました。去年いい思いをした分、選手たちに甘えもあったと思うので、今年の悔しさは来年に生きると思います」

 2002年はエースの岩水を欠く逆境の中でも復路で盛り返して2位になった順大に対し、層の厚さを自信に「復路も含めて完璧な区間配置ができた」という駒澤大。前年の大八木コーチの言葉の通り、復路の5区間すべてで区間4位以内の安定感を見せて優勝。そこから4連覇を達成し、強豪校としてのゆるぎない位置を確立した。

 4年間の紫紺対決は、能力のある選手に恵まれた中で、それをどう生かして戦うかという両指導者の戦略合戦でもあったのだ。