総合不動産グループ「オープンハウス」勤務、明大野球部OBの庭田草志さんの野球人生 神宮の杜から巣立ち、ビジネスの世界で“日本一”を目指し、奮闘する元東京六大学戦士がいる。「今年で26歳。会社に入って3年目という若手としては、同年代で社会人を…

総合不動産グループ「オープンハウス」勤務、明大野球部OBの庭田草志さんの野球人生

 神宮の杜から巣立ち、ビジネスの世界で“日本一”を目指し、奮闘する元東京六大学戦士がいる。

「今年で26歳。会社に入って3年目という若手としては、同年代で社会人をされている方と比べても、いい経験をさせてもらえていると思いますし、毎日は凄く充実しています」

 そう話したのは、総合不動産グループのオープンハウスで営業を勤める庭田草志さんだ。大学球界の名門、明大野球部のOB。最近、東京六大学野球の中継配信を手掛ける「BIG6.TV」が制作した同社のCMに出演し、神宮球場のビジョンでも放映されている。

 本業では、昨年10月から1年間は700人いる営業マンで全体1位となる営業成績を記録。名古屋を拠点に4000~6000万円の物件を担当し、1か月を切った時点で75棟を販売し、すでに年間の歴代最多数を更新している。

 そんな敏腕営業マンを形作った原点は、野球にある。

 白球を握ったのは6歳の時。野球をやっていた父の影響でキャッチボールを始め、小1から同級生に誘われて地元の少年野球チームに入った。「ボールがよく投げられるから」という理由で任されていたのは投手。しかし、小中で全国大会に出場した経験はなく、高校も地元の県立校・松戸国際(千葉)に進んだ。甲子園出場はなく、全国的には無名。ただ、チームの目標は一つ。

「県立校から甲子園へ」--。

 入学する3年前から県内では名の通った石井忠道さんが監督に就任し、チームを強化。庭田さん自身も石井監督の存在で「本気で甲子園を目指したい」と思った。入学時は169センチ、49キロと同級生と比べても華奢な体で、最速は「110キロ出るか、出ないか」くらい。2年夏までベンチ入りしたこともなかったが、「負けず嫌い」という思いは人一倍だった。

 体を大きくするためのウエイトトレーニングに食事トレーニング。やっていること自体は高校生なら誰でもやるようなこと。しかし、庭田さんは「寡黙に、愚直にやり続けること」を貫いた。毎日、白米3合のタッパーを2つ持参し、計6合を1日かけて食べた。走り込みを重視する指導方針で毎週100メートル×100本のランニングもあるが、歯を食いしばった。

「一番は負けたくないという思い。とにかく、自分に負けたくなかった」

 朝早くから夜遅くまで練習し、負担をかけた両親に恩返ししたいという思いを持ちながら、ぐんぐん成長。ひょろひょろだった体は3年間で174センチ、75キロに。周りからは「人が変わった」と言われた。体格だけじゃない。球速は140キロを超え、3年春にはエースに抜擢された。その県大会で準優勝。ただ、夏は4強で木更津総合に敗れ、目標だった甲子園出場は逃した。

「やり切った……と言いたかったけど、心残りがあるというか。完全燃焼はできなかったです」

 それでも、複数の大学から推薦のオファーがあった。それは3年間、人一倍の努力が認められた証しでもある。大学野球に存分に没頭できる環境。しかし、だ。翌年、庭田さんが対峙していたのは打者ではなく、勉強机。

 浪人生になっていた。

浪人、イップス、コーチ転身…挫折と困難を乗り越え、目指した神宮のマウンド

 東京六大学に憧れたのは、いとこの影響だった。明大野球部に在籍しており、神宮に観に行ったこともある。学生野球の聖地で各校の応援が響きながら、6校が優勝を争う対抗戦。「かっこいいな」という思いが幼心に芽生え、プロ野球よりも身近な存在になった。

「大学でやるからには本気で日本一を目指してやりたい。日本で一番歴史あるリーグなので、そのリーグでやりたい気持ちはずっと持ち続けていた」

 庭田さんは一般入試で東大以外の5校を受験。しかし、惜しくも不合格に。選んだのは浪人という道。推薦のオファーをくれた別の大学で野球をやれる選択肢はあった。周囲には「めちゃくちゃ止められた」というが、自分の想いを貫いた。そして、1年間は完全に野球から離れた。

「浪人をしても、受からないことには元も子もない」。1日13~14時間は机に向かった。ボールを握ることも、体を動かすこともなく「絶対に受かってやる」という気持ちだけはぶらさず、勉強に没頭。その甲斐があって1年後、東京六大学への想いを作るきっかけとなった明大に合格した。

 夢だった東京六大学の野球部。しかし、合格がゴールじゃない。むしろ、浪人生活より大変だったのは入学後だった。

 明大は毎年のようにプロ野球選手を輩出し、甲子園で活躍した球児が全国から集まる名門中の名門。入学した当初は先輩に上原健太(現日本ハム)、柳裕也(現中日)、同級生に齋藤大将(現西武)ら、のちにドラフト1位でプロ入りする選手がズラリと揃った。

 そもそも、浪人は1年間、本格的な競技から離れるハンデもあり、明大のような強豪校では珍しい。事実、入学当初の野球部で浪人経験があったのは庭田さんのみ。それでも、善波達也監督(当時)には情熱を伝えると、快く了承され、「あとは自分の力で勝ち取れ」とゲキをもらった。

「最初はめちゃくちゃキツかったです。推薦組は2月に入寮し、自分は3月の終わり。それに1年間、何もやっていなくて……」

 目標は持ち続けた。もちろん、神宮のマウンドに立つこと。周りと比べ、能力が高くないことは知っていた。自分に何ができるか。「人より努力はできるという自負はあった」。だから、誰より練習し、誰より上手くなる方法を探そうと心掛けた。

 しかし、名門の壁は厚く、高い。2年春にベンチ入りこそ経験したものの、登板機会はなし。後輩にも有望選手が続々と入学。すると、3年生の頃にはイップスも経験し、キャッチボールすらまともにできなかった。神宮のマウンドとの距離が遠のいていった。

 4年生になる時、同級生から学生コーチを選出するが、庭田さんの学年は人数が少なく難航。選手としては“引退”を意味するもの。最終的に庭田さんが手を挙げた。内心は複雑だった。「誰かがやらないといけないけど、悔しかった」。待ったをかけたのは、意外な人物だった。

「お前、本当にそれでいいのか。選手としても続けろよ」

 善波監督だった。学生コーチに手を挙げたことを報告すると、止められた。まだ結果を出してもない自分を選手としてつなぎ止めてくれた言葉。感謝をもって「選手兼学生コーチ」を受け入れた。

 二足の草鞋は、苦労も倍だった。全体練習ではノックを打つなど、裏方に徹した。ランニングメニューは一緒に走った。学生コーチも走ったら、練習中はコーチとして声かけできない。だから、どんなメニューも先陣を切って「お前ら、ついて来い」と背中で引っ張った。

「プレーでは背中でついてこいとは言えなかったので。当たり前のところ、掃除とか、トレーニングとか、みんなが嫌がることを背中で引っ張る立場でいよう、と。自分の練習は全体練習が終わった後。他の学生コーチに手伝ってもらい、ピッチング練習をしていました」

 そして、迎えた17年4月9日の東大戦は忘れられないものになった。

野球人生で培った継続力「営業も『売れない日』にどれだけ努力し続けられるか」

 ベンチ入りを告げられた。善波監督には「庭田、行くからな。準備しておけよ」と言われた。武者震いする思いだった。

 13-0とリードして迎えた9回。試合は決していたが、そんなことは関係なかった。伝統ある「Meiji」のユニホームをまとい、神宮のマウンドに上がる。幼い頃から憧れ、浪人してまで目指し、イップスも二足の草鞋も経験しても、ずっと立ちたかった場所だ。

「本当は緊張しちゃうタイプだけど、その試合だけは緊張することなく、本当に楽しくて。いつもなら周りが見えなくなるのに、プレーの一つ一つを鮮明に覚えていて。一球一球、噛み締めながら投げることができて、良い意味の違和感があったことを覚えています」

 1つの四球を与えたものの、打者4人に無安打無失点。試合を締めると、入学から見守り続けてくれた善波監督と田中武宏コーチに「ナイスピッチング、よくやった」と言われ、胸が熱くなった。

 結果的に4年間で登板はこの試合だけ。通算成績は1試合0勝0敗、防御率0.00。数字にすれば味気ないが、色濃い4年間を過ごし、明大を巣立った。

「一番は自己成長のため。20代のうちは成長し続けたい。ここなら、自分が成長すると思って入りました。不動産業界で日本一を目指している会社。何かを目指してやり続けるというのが、野球人生で目指していたものと感覚がマッチしていたので決めました」

 就職活動で選んだのが、オープンハウス。常に高みを求め続ける企業風土と、成果を正当に評価する実力主義の営業の仕事に惹かれた。もちろん、簡単な仕事ではないが、大学生活を始め、野球人生で学んだことが生きた。一番は「継続することの大切さと難しさです」と言う。

「単発で結果を出せる人は多いですが、それをやり続けることが難しい。高校、大学で、その難しさを経験してきたことが今の仕事に生きています。その時点で結果が出ても出なくても、同じように結果が出るまでやり続けることが人間は一番難しいと思っているので」

 不動産の営業は「売れない日」の方が多いという。「その『売れない日』にどれだけ頑張って努力して、お客さんが来る日までどれだけ自分の腕を磨き続けられるか。継続力が試される仕事。そこが本当に生きています」と実感を込めた。

 こうして入社3年目にして、全営業マンでトップのセールスを記録するまでに成長。ただ、本人は「今月残りわずかでも年間の過去最高を大幅に塗り替えたい」と満足することがない。それも、明大時代の出来事が影響している。

 イップスで悩んでいた時、寮で同部屋になった1年先輩の星知弥(現ヤクルト)から「目指しているところが低すぎるから、そうなるんだぞ」と言われたことがある。

「当時はあまり気持ちが強くなかった。星さんは自分とは目指すレベルは違うけど、『プロで勝つことを目指してやっているから、大学野球は通過点』『お前もリーグ戦で投げたいと言っていたら、一生投げられない。その先を目指せ』と言われました。その言葉が今もずっと仕事に生きています」

 野球人生で得た経験のすべてを糧にして、社会人として奮闘する日々。営業マンとしての武器について「相手の話をしっかりと聞くことができて、求めているものを適切に提案できる。あとは誰よりも気持ちが強いということです」と言い切った言葉は、自信に満ちていた。

 長い社会人生活。「3年目」は野球で例えるなら、まだ初回の立ち上がり。真価を問われるのは、ここからだ。

「2年以内に部長の役職に就きたいのが目先の目標。その先は、なんらかの形で野球に携わりたいと思っています。目の前の仕事を全力で本気でやりながら、結果として野球に恩返しができるようなことができれば。今はとにかく目の前のことをひらすら、がむしゃらに、です」

 東京六大学でたった1イニング、10分足らずの「登板1試合」までに費やした時間と努力は計り知れない。しかし、それは社会人というマウンドに立つ今、血となり、肉となり、未来を確かに、照らしてくれている。(神原英彰 / Hideaki Kanbara)